まちあるきの考古学
佐 野   <栃木県佐野市>


日光例幣使街道の宿場町 看板建築の町並み





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佐野のまちあるき


両毛地方の町 佐野は、厄除け大師、ラーメン、プレミアムアウトレットなどで有名な町ですが、江戸時代には、佐野藩一万六千石の城下町であり、日光例幣使街道の宿場町天明宿がありました。
旧街道沿いには、関東地方の古い町並みによく見られる土蔵商家がいくつか残っていますが、大正から昭和初期のいわゆる「看板建築」が多く見られることが特徴です。

 


 

地図で見る 100年前の佐野


現在の地形図と約100年前(明治期)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図は正確さに欠け、現在の地形図と上手く重ならないので並べて見ることにします。

緑の○で記した場所が佐野駅ですが、その北側の独立丘が江戸初期まで春日岡城(佐野城)のあった場所で、旧市街地はその南に碁盤目状の町割りをもって広がっていました。
明治21年に開通した両毛線は鉄道と記載されていますが、翌年に開通した佐野線は馬車鉄道と記載されています。

これは、東武佐野線の前身の安蘇馬車鉄道のことで、葛生(佐野の北9km)で産出される石灰石を越名河岸(現 佐野プレミアムアウトレット付近)まで運ぶためのものです。ここから船に積み替えられた石灰石は、渡良瀬川から利根川を下って東京方面に運ばれていましたが、5年後には蒸気機関車による鉄道に変更されました。

左:現在の地形図  右:明治期の地形図

 


 

佐野の歴史


佐野を含む下野国安蘇(あそ)郡は、平安時代の荘園「佐野庄」を起源としています。

天慶三年(940)、平貞盛とともに平将門を追討して、その功により下野、武蔵二国の国司と鎮守府将軍になった藤原秀郷は、唐沢山(標高247m・佐野市街地の北方約5km)に唐沢山城を築きますが、この城が慶長七年(1602)に山麓の佐野城が築かれるまで、中世を通して安蘇郡支配の拠点となります。
唐沢山城は戦国時代に上杉謙信の度重なる猛攻を全て退けた堅城とされ、関東七名城の一つにまで数えられています。

保元の乱ににおいて領主の左大臣藤原頼長が敗れると、佐野は、藤姓足利氏の庶流で佐野庄に土着した佐野氏の領するところとなります。

佐野氏は、上杉氏、北条氏といった大勢力に囲まれていたため、常に所領の安堵を第一として寝返りを繰り返し、激動の戦国時代を生き抜きますが、江戸初期、初代佐野藩主 佐野信吉は不行跡があったとして改易処分となり、大名としての佐野氏は終焉します。

以降、廃藩、天領化と藩再興を繰り返した後に、文政九年(1826)には、佐倉藩堀田家の分家により佐野藩が再興し、以後、堀田家一万六千石の支配で明治時代にまで至ります。

佐野城築城とともに町割りされ碁盤目状に整えられた城下町は、江戸時代を通じて日光例幣使街道の宿場町「天明宿」として栄え、今日の佐野市街地の礎となりました。

両毛地域は日本の繊維産業の中心地のひとつです。足利は銘仙とよばれる普段着の絹織物、桐生は「おめし」とよばれる高級絹織物が特産ですが、佐野は、絹織物とともに綿織物も盛んな土地柄でした。
町中には当時の隆盛を今に伝える建物がいくつか残されています。

また、織物産業とともに佐野の代表産業に鋳物があります。
藤原秀郷が軍器等の鋳造のために連れて来た鋳物師に始まり、江戸時代には、100軒余りの鋳物屋と300人を超す鋳物師がいたといいます。江戸初期には多くの梵鐘が造られましたが、その中で大阪夏の陣の原因となった京都方広寺梵鐘の鋳造にも佐野の鋳物師は参加したといいます。


織物や鋳物などの地場産業や例幣使街道の宿場町に代わり、現在の佐野市の観光資源は、佐野厄除け大師、佐野ラーメン、佐野プレミアムアウトレットの3つです。

佐野ラーメンは、いわゆるご当地ラーメンの一つですが、小さな町に200軒以上のラーメン店がひしめき合っていて、関東地方では抜群の知名度を誇ります。

佐野ラーメンの歴史は大正初期に始まるといわれ、織物産業が盛んな時代に、繊維業者や深夜まで働く女子従業者などを相手に広まったとされます。
昭和の初期には暖簾店も多数開店し、花柳界華やかなりし頃は毎夜10台以上の屋台が出て盛況を博していたといいます。

佐野プレミアムアウトレットは、佐野市街地の南東約3kmの国道50号線沿道に開発された「佐野新都市」の中心商業施設で、平成15年にオープンした米国チェルシー社の運営する郊外大規模アウトレットモールの日本3番店です。

 


 

佐野の立地条件と町の構造



東北新幹線の小山駅から上越新幹線の高崎駅まで、足尾山地の山裾をなでるようにJR両毛線は走っています。
大宮経由で新幹線を乗り継ぐと約50分で行ける距離を、両毛線は各駅停車で約110分かけて走ります。

この路線は、明治後期から昭和初期まで、佐野を含む両毛地域が、日本の繊維産業の中心として栄えていた時代の基幹鉄道でした。
現在、JR宇都宮線を小山駅で降りて、長い構内通路を歩き、新幹線の高架下にある両毛線の始発小山駅から高崎行きの各駅停車に乗り込み、約30分で佐野駅に着きます。




JR両毛線と東武佐野線の共用する駅舎は、とても近代的な建物でした。
駅舎はつい最近建替えられたようで、オレンジ色の屋根の切妻造りの旧駅舎があった場所は、まだ空き地のまま残されていました。


左:駅前広場からみる佐野駅  右:佐野駅からみるケヤキ並木


佐野駅前は、数年前に竣工した土地区画整理事業によって整然とした街区へと生まれ変わり、駅前広場から旧国道50号線へ向かう道路には美しいケヤキの並木が続いています。

駅上の自由通路を通り抜けると、駅の北側には明治22年に開設された城山公園があります。


空地は旧駅舎のあった場所  駅の向うの小山が城山公園


この城山は、慶長七年(1602)に築城された春日岡城とよばれた佐野城があったところで、現在でも空堀の跡などの城の名残を確認することができます。


佐野の町は春日岡城の眼下に碁盤目状の町割りをもって広がっています。


春日岡城自体は、江戸期の初期に初代佐野藩主 佐野信吉の改易によって廃城となりましたが、碁盤目状に整えられた城下町は、近世を通じて日光例幣使街道の宿場町「天明宿」として栄え、今日の佐野市街地の礎となりました。

かつての日光例幣使街道(旧国道50号線)は、道幅がとても広く交通量も多く、いまでも地域の幹線道路となっているようです。


現在の日光例幣使街道(旧国道50号線)


碁盤目状に整えられた道路は、東西方向の道路、つまり例幣使街道やそれと平行する道路は広く、南北道路は比較的狭くなっています。
東西道路は、どれも幅員10m以上はあり、中には交通量がほとんど無いにもかかわらず両側に歩道のついているものもあります。

往時から広い道路だったらしく、かつては、秋山川に流れ出る用水が道の真ん中を流れていたのではないかと想像されます。


両側に歩道のついた東西方向の道路


沿道にいくつか残されている土蔵商家(店蔵)には、箱棟と影盛の立派な棟をもつ家が多いが、観音開き扉は少なく、サッシに入れ替えられていたり、硬縦格子のの京風になっていたりします。

中二階建ての商家が見られないのは、江戸末期から明治前期の間で大火で焼けたのかもしれず、残っている古い建物はほとんどが明治大正期のものに見えます。

ほとんどの商家は、空き家か、少なくとも店を閉めているものが多く、かつての賑わいは全くありません。


例幣使街道沿いに残る土蔵商家  立派な箱棟と影盛をもつが、それ以上に立派なのが壁の卯建


例幣使街道沿いに残る土蔵商家



佐野の町並みの特徴は、「看板建築」がとても多いことです。

看板建築とは、古い町屋の前面だけに木造の平坦な外壁面を取付けて、モルタルや銅板で仕上げて装飾をつけたものです。看板のような平面の外壁を利用して、自由なデザインが可能なため、建築史家の藤森照信氏により「看板建築」と命名されたものです。

恐らく昭和初期から昭和30年頃までの看板建築が多いようですが、この頃まで町全体に活気があふれていた証拠でもあります。
繊維産業や鋳物産業の衰退とともに、佐野の町は、数多くの看板建築を残したまま発展を止めてしまいました。

現在、町中を歩いていても、歴史的町並みを保存・活用する雰囲気は全く感じられず、昭和30年代のまま時が止まってしまったようです。


典型的な看板建築
右の建物はせっかくのイタリア風ファサードを「高級婦人服 シャルマン」の青色テントが隠しているのが残念



町中のあちこちに見られる看板建築



時の止まったような佐野の町中で、唯一賑わいのあるのが佐野厄除け大師です。


平将門討伐を命ぜられた藤原秀郷の戦勝祈願により、承平七年(937)に創建された天台宗寺院で、正式名称は春日岡山惣宗寺といいます。
「厄除け大師」とは、比叡山延暦寺中興の祖とされる十八代座主・良源(慈恵大師)のことで、良源は没後に神格化され、「元三大師」として日本各地の寺院に祀られて信仰を集めています。
川崎大師(川崎市川崎区)、西新井大師(東京都足立区)、喜多院(川越大師・埼玉県川越市)、拝島大師(東京都昭島市)などが有名です。

日曜日に町歩きしたこともあり、寺には観光バスに乗って沢山の人が参詣に訪れていました。
関東三大厄除け大師のひとつだそうですが、道路を挟んだ境内前には、観光案内所と土産物屋と兼ねた観光協会の建物があり、いくらか観光名所のようになっているようにも思えました。


佐野厄除け大師  左:山門  右:本殿


厄除け大師の南、惣宗寺への入口には、田中正造翁の墓所があります。
田中正造は、足尾鉱毒問題を糾弾し、地域の住民のために尽くした人物として著名ですが、その墓所の容貌からは、正造翁への地域住民の惜しみない尊敬と感謝の念を感じます。


明治後期から昭和初期にかけて隆盛した町には必ず洒落た洋館がいくつか残されているものです。佐野の町でも、ふとした街角に木造の洋館を見つけることができます。

昭和2年建築の小島邸は、そんな時代に建てられた洋館のひとつです。
切妻屋根(?)にマンサード屋根を組み合わせた不思議な洋館ですが、道路に面した装飾を施した白壁に3連の上下げ窓が綺麗な洋風建築です。

金屋仲町にある影澤医院は明治44年に開院した外科の医院です。
建物は、寄棟の木造2階建てで、ベランダ下の車寄せがついた典型的な明治時代の洋館ですが、下見板張りの外壁2階腰壁には十字の飾りがあり、病院であることを現しているようです。


左:小島邸   右:影澤医院


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年6月


参考資料


使用地図
@1/25,000地形図「佐野」平成13年修正
A1/20,000地形図「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年 」


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