まちあるきの考古学 日光例幣使街道の宿場町 看板建築の町並み
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佐野のまちあるき
両毛地方の町 佐野は、厄除け大師、ラーメン、プレミアムアウトレットなどで有名な町ですが、江戸時代には、佐野藩一万六千石の城下町であり、日光例幣使街道の宿場町天明宿がありました。 |
地図で見る 100年前の佐野 現在の地形図と約100年前(明治期)の地形図を見比べてみます。 明治期の地形図は正確さに欠け、現在の地形図と上手く重ならないので並べて見ることにします。 緑の○で記した場所が佐野駅ですが、その北側の独立丘が江戸初期まで春日岡城(佐野城)のあった場所で、旧市街地はその南に碁盤目状の町割りをもって広がっていました。 明治21年に開通した両毛線は鉄道と記載されていますが、翌年に開通した佐野線は馬車鉄道と記載されています。 これは、東武佐野線の前身の安蘇馬車鉄道のことで、葛生(佐野の北9km)で産出される石灰石を越名河岸(現 佐野プレミアムアウトレット付近)まで運ぶためのものです。ここから船に積み替えられた石灰石は、渡良瀬川から利根川を下って東京方面に運ばれていましたが、5年後には蒸気機関車による鉄道に変更されました。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
左:現在の地形図 右:明治期の地形図 |
佐野の歴史
佐野を含む下野国安蘇(あそ)郡は、平安時代の荘園「佐野庄」を起源としています。 |
佐野の立地条件と町の構造 東北新幹線の小山駅から上越新幹線の高崎駅まで、足尾山地の山裾をなでるようにJR両毛線は走っています。 大宮経由で新幹線を乗り継ぐと約50分で行ける距離を、両毛線は各駅停車で約110分かけて走ります。 この路線は、明治後期から昭和初期まで、佐野を含む両毛地域が、日本の繊維産業の中心として栄えていた時代の基幹鉄道でした。 現在、JR宇都宮線を小山駅で降りて、長い構内通路を歩き、新幹線の高架下にある両毛線の始発小山駅から高崎行きの各駅停車に乗り込み、約30分で佐野駅に着きます。 JR両毛線と東武佐野線の共用する駅舎は、とても近代的な建物でした。 駅舎はつい最近建替えられたようで、オレンジ色の屋根の切妻造りの旧駅舎があった場所は、まだ空き地のまま残されていました。
佐野駅前は、数年前に竣工した土地区画整理事業によって整然とした街区へと生まれ変わり、駅前広場から旧国道50号線へ向かう道路には美しいケヤキの並木が続いています。 駅上の自由通路を通り抜けると、駅の北側には明治22年に開設された城山公園があります。
この城山は、慶長七年(1602)に築城された春日岡城とよばれた佐野城があったところで、現在でも空堀の跡などの城の名残を確認することができます。 佐野の町は春日岡城の眼下に碁盤目状の町割りをもって広がっています。 春日岡城自体は、江戸期の初期に初代佐野藩主 佐野信吉の改易によって廃城となりましたが、碁盤目状に整えられた城下町は、近世を通じて日光例幣使街道の宿場町「天明宿」として栄え、今日の佐野市街地の礎となりました。 かつての日光例幣使街道(旧国道50号線)は、道幅がとても広く交通量も多く、いまでも地域の幹線道路となっているようです。
碁盤目状に整えられた道路は、東西方向の道路、つまり例幣使街道やそれと平行する道路は広く、南北道路は比較的狭くなっています。 東西道路は、どれも幅員10m以上はあり、中には交通量がほとんど無いにもかかわらず両側に歩道のついているものもあります。 往時から広い道路だったらしく、かつては、秋山川に流れ出る用水が道の真ん中を流れていたのではないかと想像されます。
沿道にいくつか残されている土蔵商家(店蔵)には、箱棟と影盛の立派な棟をもつ家が多いが、観音開き扉は少なく、サッシに入れ替えられていたり、硬縦格子のの京風になっていたりします。 中二階建ての商家が見られないのは、江戸末期から明治前期の間で大火で焼けたのかもしれず、残っている古い建物はほとんどが明治大正期のものに見えます。 ほとんどの商家は、空き家か、少なくとも店を閉めているものが多く、かつての賑わいは全くありません。
佐野の町並みの特徴は、「看板建築」がとても多いことです。 看板建築とは、古い町屋の前面だけに木造の平坦な外壁面を取付けて、モルタルや銅板で仕上げて装飾をつけたものです。看板のような平面の外壁を利用して、自由なデザインが可能なため、建築史家の藤森照信氏により「看板建築」と命名されたものです。 恐らく昭和初期から昭和30年頃までの看板建築が多いようですが、この頃まで町全体に活気があふれていた証拠でもあります。 繊維産業や鋳物産業の衰退とともに、佐野の町は、数多くの看板建築を残したまま発展を止めてしまいました。 現在、町中を歩いていても、歴史的町並みを保存・活用する雰囲気は全く感じられず、昭和30年代のまま時が止まってしまったようです。
時の止まったような佐野の町中で、唯一賑わいのあるのが佐野厄除け大師です。 平将門討伐を命ぜられた藤原秀郷の戦勝祈願により、承平七年(937)に創建された天台宗寺院で、正式名称は春日岡山惣宗寺といいます。 「厄除け大師」とは、比叡山延暦寺中興の祖とされる十八代座主・良源(慈恵大師)のことで、良源は没後に神格化され、「元三大師」として日本各地の寺院に祀られて信仰を集めています。 川崎大師(川崎市川崎区)、西新井大師(東京都足立区)、喜多院(川越大師・埼玉県川越市)、拝島大師(東京都昭島市)などが有名です。 日曜日に町歩きしたこともあり、寺には観光バスに乗って沢山の人が参詣に訪れていました。 関東三大厄除け大師のひとつだそうですが、道路を挟んだ境内前には、観光案内所と土産物屋と兼ねた観光協会の建物があり、いくらか観光名所のようになっているようにも思えました。
厄除け大師の南、惣宗寺への入口には、田中正造翁の墓所があります。 田中正造は、足尾鉱毒問題を糾弾し、地域の住民のために尽くした人物として著名ですが、その墓所の容貌からは、正造翁への地域住民の惜しみない尊敬と感謝の念を感じます。 明治後期から昭和初期にかけて隆盛した町には必ず洒落た洋館がいくつか残されているものです。佐野の町でも、ふとした街角に木造の洋館を見つけることができます。 昭和2年建築の小島邸は、そんな時代に建てられた洋館のひとつです。 切妻屋根(?)にマンサード屋根を組み合わせた不思議な洋館ですが、道路に面した装飾を施した白壁に3連の上下げ窓が綺麗な洋風建築です。 金屋仲町にある影澤医院は明治44年に開院した外科の医院です。 建物は、寄棟の木造2階建てで、ベランダ下の車寄せがついた典型的な明治時代の洋館ですが、下見板張りの外壁2階腰壁には十字の飾りがあり、病院であることを現しているようです。
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まちあるき データ
まちあるき日 2008年6月 参考資料 使用地図 @1/25,000地形図「佐野」平成13年修正 A1/20,000地形図「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年 」
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