まちあるきの考古学
栃 木   <栃木県栃木市>


巴波川の舟運拠点と日光例幣使街道の宿場町
下野の小江戸 のんびり歩ける蔵の街





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栃木のまちあるき


栃木は、巴波川の舟運拠点と交通の要所、そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた町です。

古くから「蔵の街」「小江戸」などとよばれ、川越(埼玉県)や佐原(千葉県)と同じように、土蔵商家のならぶ町並みと巴波川沿いの景観が魅力の町ですが、古い町並みの残る旧市街地はとてもコンパクトにまとまっていて、のんびりとした町歩きするには丁度いい広さだと思います。




左:とちぎ蔵の街美術館 江戸後期に建てられた土蔵商家を再生活用している。
右:大通り沿いにある 綿忠はきもの店蔵(左)と栃木蔵の街観光館(右)

 


 

地図で見る 100年前の栃木


現在の地形図と約100年前(明治時代)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図をみると、栃木の町は南北に貫通する街道(日光日光例幣使街道)を軸に構成されていたことが良く分かります。
JR両毛線の栃木駅は旧市街地の南端に設置され、東武日光線は旧市街地を避けて大きく迂回して敷設されたことも分かります。

明治前期までおかれていた県庁は、旧市街地の西隣に、正確に長方形に区切られていましたが、現在では周辺の市街化が進み、地形図上では分かりにくくなっています。
現地には、今でも堀が現存していることは後述します。

 


 

栃木の歴史


戦国時代、この地は松平忠輝(家康の六男)の後見人になったことで有名な皆川広照が治めていました。

当初、宇都宮氏に仕えていた皆川広照は、処世術に優れた人物だったらしく、天正九年(1581)には織田信長に名馬を送って誼を通じ、信長の死後も、秀吉や家康らと通じていました。

天正十四年(1586)、後北条氏の侵攻を受けて降伏して北条氏の家臣となりますが、秀吉の小田原征伐の際には、家康に投降して所領一万三千石を安堵されます。
関ヶ原の戦いでは、広照は常陸の佐竹義宣を牽制した功績を賞されて、三万五千石に加増されますが、松平忠輝が川中島藩に移ったのに伴ない、信濃飯山藩に七万五千石に加増移封となり皆川藩は廃藩となります。

その後、栃木は幕府の直轄天領、旗本領、大名領などに細分されますが、宝永元年(1704)、戸田氏一万一千石の所領として足利藩に属し明治維新を迎えることとなります。

栃木の町中には日光例幣使街道が南北に貫いています。

例幣使とは、京の朝廷から東照宮への供え物を届ける使いのことです。
それまでは、伊勢神宮に対してのみ派遣されていましたが、正保四年(1647)からは徳川家康をまつる日光東照宮にも毎年1回派遣されることとなり、その後、慶応三年まで実に221年間つづきました。

廃藩置県後は、下野国(現 栃木県)のうち南部を管轄区域とする栃木県が設置され、県庁所在地となりますが、明治6年に下野国の北部を管轄する宇都宮県と合併、明治17年には県庁が宇都宮へ移されてしまいます。

当時の県庁跡は、今では栃木高校、第二小学校、栃木市役所となり、現地には東西240m、南北300mの堀跡が残っています。

明治21年に両毛線が小山−足利間で開通し街の南外れに駅舎が設置されます。
明治22年に町村制が施行されると栃木町となり、昭和12年に栃木市に昇格します。
昭和6年には東武宇都宮線が開通して、東京に直結することなり、現在では浅草まで特急で70分まで短縮されました。

かつては、県庁所在地として宇都宮市と肩を並べる都市規模を誇っていましたが、現在の栃木市の人口は約8万人で、栃木県下では第7位に位置し、平成に入ってからの人口減少が止まりません。

 


 

栃木の立地条件と町の構造



栃木の町は、日光例幣使街道が南北に貫く江戸期における重要な宿場町でした。

また、宇都宮、小山、古河への往還道が四方に延び、周辺地域の陸上交通の要所であり、渡良瀬川支流の巴波川の舟運の終点に位置し、付近の農産物を集荷する物流拠点でもありました。

この付近には、巴波川と永野川の2つが北から南に流れています。

この2つの河川は、小山付近を流れる思川(栃木の東5km・下図の外)と平行して南流し、ともに栃木から10kmほど下流の寒川で合流して渡良瀬川に注いでいます。
巴波川は栃木から上流15kほど遡った谷倉山(標高599m)と三峰山(標高605m)を源流としていますが、ここから上流は川幅が狭くなり、上流域もさほど広くありません。
栃木の町中を流れる水量の豊富さが不思議に思えるくらいの川です。

明治期の地形図に2河川と街道を描き入れたのが下図です。
周囲の農村集落の中で、栃木が巴波川沿いに大きな町を形成していて、交通の結節点になっていることが分かります。


日光例幣使(れいへいし)街道とは、日光東照宮に毎年朝廷から派遣される例幣使が通行した街道で、正保四年(1647)から慶応三年まで221年間毎年通行しました。例幣使の他にも、日光参拝の公卿や大名をはじめ多くの人達の往来があり、幕府にとって五街道に次ぐ重要な街道だったようです。

水運では、巴波川の荷舟が遡行できる上流限界の地であり、ここから渡良瀬川、利根川、江戸川を経て、江戸と結ばれていました。
巴波川の河岸は、川舟で運ばれてきた塩、肥料、雑貨等と、近隣の物産である麻、米穀、薪炭等の取引で栄え、いまも旧河湊の名残として、湊町や入舟町の町名が残っています。


現在の巴波川は、舟の運行が絶えて久しく浚渫がされていないためか、水深がとても浅く、舟運が開かれていたのが不思議に思えます。
舟荷は、都賀船(米五十俵積み)で渡良瀬川合流部近くの部屋(現 下都賀郡藤岡町)まで下り、そこで高瀬船(米二百〜三百俵積み)に積みかえて江戸に向かったといいます。

また、川は水量が多く流れが速いように見えます。
荷舟の下りは速いでしょうが、上りは曳き舟となったようです。
河辺の両側に、道路より一段低く幅1m程度の岸辺が続いていますが、これは「綱手道」とよばれる舟曳き道で、風が少なく帆が使えないときは、かこ水主達が舟につけた綱を曳いた道でした。


巴波川の両岸につづく綱手道


舟運で財を成した回船問屋は、明治末期から大正期にかけて、巴波川沿いに立派な土蔵や黒塀などを建てました。

幸来橋のたもとで、120mに渡り黒塀と白壁の土蔵が並ぶ塚田歴史伝説館は、かつて木材回漕問屋だった塚田家の屋敷を博物館にしたものです。近隣の山村から切り出された木材は、ここから筏に組まれ巴波川を下り、江戸深川の木場まで運ばれたといいます。


塚田歴史伝説館(旧 木材回漕問屋 塚田家)


水戸藩士だった横山定助が、栃木の地において、下野特産物の麻を主力にした荒物商で成功をおさめた後、金融業にも進出して大成し、明治後期に建築したのが現在の横山郷土館です。
建物正面に向かって右側では麻苧真縄問屋を営み、左側では栃木共立銀行を開いていました。


横山郷土館  大谷石の蔵がシンメトリーに並ぶきれいな旧商家


開運橋のさらに上流には平柳の河岸跡があり、船着場の面影を残しています。
河岸には数棟の土蔵が残り往時の姿を今に伝えてくれます。


平柳の河岸跡には数棟の土蔵が残る



廃藩置県後、栃木県が設置され栃木は県庁所在地となり、旧市街の西側に新たに県庁が整備されました。
長方形に切り取られたような県庁には、東西240m 南北300mの堀が廻り、まるで江戸期の陣屋のような構をみせています。
かつての城郭や陣屋の跡地に県庁を置くことが多かった維新騒乱の時代、在郷町の栃木に新たに造られた政庁は、四周に堀を巡らした砦のようにもみえます。

現在、県庁跡は栃木高校、第二小学校、栃木市役所となっていますが、四周の堀は2〜3mの水路幅で見事に残っています。

巴波川と水路で繋がり、堀の水は常に巴波川から供給されているため、県庁がなくなって堀の維持管理が覚束なくなった後も、水路としては存在してきたのでしょう。


左中:四周に残る堀跡  右:旧県庁内の様子


左:巴波川とつながる水路にある荷揚げ場  右:旧県庁敷地内に残る大正10年建築の旧栃木町庁舎



栃木駅から北に真っ直ぐ延びる県道は、かつての日光例幣使街道で、現在では「蔵の街大通り」と呼ばれています。

大通りは幅員が広く、沿道には土蔵造りの商家が数多く残されています。
商家の数は川越ほどではありませんが、道幅は川越の蔵造り通りよりも広く、点在ではあるが商家は両側に残されているので、後世に拡幅されたのではなく、江戸期からこれだけ広い道幅があったようです。

また、大通りは無電柱化されていますが、電線類の分岐BOXは焼板風の黒い覆いで隠されており、歴史的町並みの保全に対する意気込みが感じられます。


蔵の街大通りの町並み


大通り沿道の商家は、間口は揃っているが、軒高も構造も不揃い


近世初頭から六斎市が開かれていたといい、通りの南北両端には木戸があり、道の中央には用水が通っていました。
防火帯としての広小路だったのか、例幣使街道なので広かったのか、定かではありませんが、明治後期の写真をみるとやはり相当広い通りだったことが分かります。


左:明治後期の大通り(「蔵の街のんびり散策マップ」より転載)  右:現在の大通り中心部



蔵の街大通りの中心部に山車会館があります。

隔年で秋に開催される「とちぎ秋祭り」に繰り出される山車を、常設展示している観光博物館です。
山車は日本武尊や静御前など人形山車で、佐原の大祭と非常によく似ていますが、江戸期から盛んだった佐原の祭りに比べて、栃木のそれは明治時代に始まっていますし、山車の数も十数基と佐原の半分以下の数です。

明治期、繊維産業の隆盛に沸く町の始めたイベントだったようです。


左:山車会館  右:「とちぎ秋祭り」の様子(「とちぎ山車会館」パンフレットから転載)



街の中心部・倭町交差点から幸来橋までの通りには、蔵の街には相応しくない町並みがみられます。

3〜4階建てで壁面位置と軒高のそろった平面的なファサードは、昭和30〜40年代の道路拡幅事業によって生まれた典型的な町並みです。狭い道に面した町屋が取り壊されてRC建物に建替えられ、1階にアーケードをもった店舗、2・3階に事務所や住居が設けられたビル群は、高度成長期を象徴する再開発手法でした。


倭町交差点付近の再開発ビル群



大通り沿いには、土蔵商家だけではなくモダンで瀟洒な西洋風建物も残されています。


若松理容所は、白い外壁に黒いサッシと越壁を組み合わせ、柔らかな曲線と水平線を強調した、昭和前期のモダニズム建築を模したもので、2階の角には曲面ガラスが使われています。

日専連(日本専門店会連盟)栃木ビルは、戦前のRC建物(にみえる・・・)をガラスブロックを組み込んだファサードに改修した洒落た建物です。


左:若松理容所  右:日専連栃木ビル


小江戸そばで有名な大通り沿いの好古一番館は、呉服商の安達家が大正12年に建てたもので、木造2階建て、銅板葺の寄棟マンサード屋根に屋根窓を設けた、典型的な大正期の洋風建築です。

舘野家は、昭和7年に建てられた木造2階建の商家ですが、ファサードに洋風の柱やアーチ窓をあしらった典型的な看板建築です。何風といっていいのか分かりませんが、あえていえば、芝居の舞台建物風(つまり適当に洋風ということ・・・)の外観といえます。


左:好古一番館  右:舘野家



大通り沿いではなくても町中にはお洒落で目を引く建物が数多くあります。

大場医院は、ベージュ色を基調とした下目板張りと縦長でリズム感ある上下窓がとてもかっこ良い木造建築です。外壁の保存状態があまり良くないのが残念ですが、いまも現役で使用されています。

また下右の写真は、大谷石(にみえる)を外壁に使用した土蔵ですが、張り石の幅が不均一であること、目地巾が広いこと、そして破風や軒にも石が用いられていることろに特徴があります。
大谷石(風?)の外壁をもつ土蔵は両毛地方では珍しくありませんが、この石の張り方はとても珍しいと思います。


左:大場医院  右:大谷石(風?)の外壁をもつ土蔵

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年6月


参考資料

@「蔵の街のんびり散策マップ」栃木市観光協会・栃木市商工観光課
A「とちぎ山車会館」パンフレット

使用地図
@1/25,000地形図「栃木」「小金井」平成13年修正測量
A1/20,000地形図「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年 」


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