まちあるきの考古学 足利氏の本拠であり 世界に名を馳せた足利織物の地であり 日本国中最も大にして最も有名な 坂東の「アカデミア」のあった町
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足利のまちあるき
足利は、源氏正流足利氏の本拠として、中世から近世日本の最高学府足利学校の所在地として、そして、明治大正期の繊維産業の中心都市として、その歴史を残してきた町です。 |
左:かつての織物買継業街の中心に残る建物 右:寛文八年創建の入徳門 |
地図で見る 100年前の足利 明治大正期の地形図が手に入らなかったので、今回は休みます。 |
足利の歴史
現在の足利市街地は、源氏の正流足利氏三代目の足利義兼が本拠とした足利荘を起源としており、鎌倉初期、足利氏は現在の鑁阿寺(ばんなじ・通称:大日堂)の地に屋敷を構えていました。 |
足利の立地条件と町の構造 足利市街地は、北部に足尾山地、南部に関東平野が広がる、山地と平野の接点で渡良瀬川の左岸に位置しています。 JR両毛線では、東北本線の小山と上越本線の高崎・前橋の中間にあり、隣接の佐野市(人口12万人)、桐生市(人口13万人)などとともに両毛地域の都市核を形成して、歴史的にも経済・文化的にもこの地域との繋がりを深くしてきました。 古来からの足利の町は、渡良瀬川の形成した自然堤防上に形成されました。 自然堤防とは、氾濫原において河川の流路に沿って形成される微高地のことをいい、洪水を繰り返す河川の下流部でみられる地形のひとつです。 渡良瀬川は、足利城跡のある両崖山と浅間神社の座する小山の間をすり抜けるように流れていますが、JR両毛線も東部伊勢崎線も同じようにこの間を通り抜けています。 この場所は両毛の地において要害の地だったのかも知れません。 そして、町は両崖山の東麓に位置する鑁阿寺と足利学校を中心に展開しています。 鎌倉初期の足利氏の屋敷跡である真言宗金剛山鑁阿寺は、四周を堀と土塁で囲まれたほぼ正方形をしていて、大日如来を本尊としているため、「大日さま」と呼ばれています。 周囲に土塁と堀をめぐらした寺域はほぼ正方形で約4haもの広さがあり、鎌倉時代の武家屋敷の面影を今に伝えています。大正期には足利氏宅跡として国の史跡に指定されています。
鑁阿寺への参道である大門通り沿いには、大谷石(のようにみえる)で築造された塀や立派な土蔵がいくつか残されていて、この付近が明治大正期における富裕層の邸宅街であったことが伺えます。
明治5年に廃校となった足利学校には、孔子廟と学校門などわずかな建物のみが残されていましたが、平成2年に方丈と庭園が復元がされ、足利学校が江戸時代中期に最も栄えた時代の様子が再現されました。 学校の建物のうち、学校門と孔子廟は寛文八年(1668)に造営された当時の姿を保っています。 特に、明の古廟を模した孔子廟には、孔子坐像、小野篁公像などが納められ、日本に現存する最も古い孔子廟といわれています。
足利には数多くの寺院がありました。 最盛期には「学徒三千」といわれたほどの隆盛を誇った足利学校には、全国の領主層から学生が派遣されてきましたが、在学中、彼らは僧の身分であり、学校周辺の縁のある寺社にそれぞれ身を寄せていました。 いまでも、両崖山織姫公園の麓に多くの寺院が伽藍を並べているのは、その名残ではないかと思います。
足利学校が再興された頃、中世足利の集落は、織姫神社の鎮座する織姫山の南麓、現在の通5・6丁目付近にあったといわれています。 何故この場所に中世足利が成立したのかは分かりませんが、鎌倉初期に足利義兼が設けた居館(現 鑁阿寺)や長尾景人が移した足利学校の場所は、当時の中心からは少し離れた場所にあったことになります。 織姫神社は、両崖山の尾根筋先端に位置し、昭和12年、足利本銘仙が全盛だった頃、織物同業会が皇太子(昭和天皇)誕生記念事業として建立したもので、織物をはじめ産業振興の神として、また縁結びの神としても有名です。
両崖山の山頂には足利城跡があります。 天喜二年(1054)に藤姓足利氏の祖とされる足利成行が築いたもので、小田原征伐後の足利氏断絶とともに廃城となりましたが、足利の町は、足利城の中世城下町を起源として成立したのかもしれません。 足利城築城と同時期に、足利成行により渡良瀬川の対岸に勧請されたのが足利富士浅間神社(上宮)です。 古来より足利富士として信仰され、上の宮と下の宮との二社から成り、上は男浅間、下を女浅間と称し崇拝されてきました。 現在の上の宮は、昭和十年に改築され、下の宮本殿は平成七年に改築された新しいものです。 浅間神社は富士山信仰と結びつくものであり、富士山の周辺や富士山が見える関東一円を中心に分布している社で、木花咲耶姫命を主祭神とし、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)を総本社とする神社です。
奈良東大寺大仏開眼供養に際して、織物が献上されたとの記録もあるほど足利の織物の歴史は古いといわれています。 しかし、足利の織物が地場産業として確立するのは江戸中期以降といわれます。 足利における織物産業は、基本的に江戸期からの問屋制家内工業が中心であって、工場制機械工業はあまり発達しなかったようです。 そのため、町中には桐生に数多く見られる鋸屋根の工場跡はほとんど見あたりません。 そんな中にあって、田中町にあった足利模範撚糸合資会社(現 アンタレススポーツクラブ)は、輸出向け絹織物生産を振興するため、明治36年に模範工場として設立されたもので、生糸を撚る工程では足利最大規模の工場でした。 現在、外壁に大谷石を使った鋸屋根が2棟残されていますが、区画整理事業による取り壊しを逃れて保存されることとなり、スポーツクラブとして活用されています。
足利の織物産業の隆盛を今に伝えるもののひとつに、通3丁目の共益会館があげられます。 通3丁目町内有志による財団法人共益会(明治34年発足)が集会、貸席、貸店舗を目的に建てたもので、木造洋型陶器瓦ぶき3階建ての外装モルタル塗りの建物は、織物買継業街の中心にあり、当時の町衆の繁栄ぶりを象徴しています。 現在は1階に物販店舗が入っているようですが、あまり利用されている様子はありません。 往時の隆盛をいまに伝える「残ってしまった」歴史遺物のひとつです。
足利は、大正期から戦前までの間に、足利本銘仙などの織物産業で隆盛を極めたことは既に述べたとおりですが、前述のスポーツクラブや共益会館だけでなく、町中にはその繁栄の名残りを数多く見ることができます。 街道沿いの町屋には前面のみサイディングが施されたものが多く見られ、昭和前半の繁栄ぶりが伺えますし、外壁の補修もままならない土蔵や大谷石を外壁に使った家屋なども見つけることができます。 通町には、1階の越壁にレンガを使い、整形のガラスを横長に組合わせた木製サッシをはめた、なんともお洒落な建物がありました。現在は使われている気配は全くありませんが、これも足利の歴史遺産のひとつに上げられると思います。
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まちあるき データ
まちあるき日 2008年6月 参考資料 使用地図
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