桐 生
日本のマニュファクチュア先進地
「西の西陣 東の桐生」といわれた絹織物の町
桐生のまちあるき
足尾山系の南麓に展開する桐生は、古来より絹織物の産地として名を馳せてきました。 |
桐生の歴史
絹織物の里 桐生の誕生 |
地図で見る 100年前の桐生 現在の地形図と明治前期の地形図とを交互に見比べてみます。 明治期の地形図は、両毛線が開通する明治21年以前のものですが、この頃の桐生の町は、扇状地の扇央部に位置する桐生天満宮の門前町のような形をしていたことが分かります。 門前町の通りが現在の本町通りであり、これが桐生の町の背骨にあたります。 明治期における絹織物業の発展とともに、桐生の町は狭い扇状地の隅々まで広がり、現在では渡良瀬川を越えて大きく広がっています。 明治前期の地形図には、本町のほかには、東側の安楽土村(現 東町)、南側の新宿村(現 新宿、浜松町)付近に疎らな集落が見られます。 この頃の撚糸機を回していたのは水力であり、村々には渡良瀬川や桐生川の水を引き込んだ用水が流れ、八丁撚糸機を動かす水車が所狭しと並んでいたと思われます。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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桐生の立地条件と町の構造 桐生は、関東平野の北西部にあり、根本山、三境山、鳴神山など標高1000m級の急峻な山々が連なる足尾山系の南東麓を水源とする桐生川の扇状地に広がっています。 南には、日光との境界にある皇海山(すかいさん)を源流とし、古河にて利根川と合流する渡良瀬川が流れています。 そのさらに南で、渡良瀬川の右岸には、茶臼山を中心とした広沢丘陵が横たわり、これが渡良瀬川と利根川の流域を分けています。 桐生川扇状地の扇央には桐生天満宮が位置し、これが桐生の町の基点となっています。 荒戸原とよばれた天満宮前に桐生新町が造られたのは天正年間(1590頃)のことで、ここを基点とし、絹織物業の発展とともに町は広がっていきました。天満宮鳥居前が本町一丁目となっているのはそのためです。 天満宮の社伝によると、景行天皇の時代(71年〜130年)に天穂日命を祀る神社として創建され、南北朝期の桐生綱元が現在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となったとします。寛政年間(1790頃)に再建された切妻流破風造りの本殿は見事で、北野天満宮の山門にもみられる象などの彫刻が施されています。
天満宮の東隣には、大正5年に設立された官立の染織学校を前身とした、群馬大学工学部があります。 創立時に建築された工学部同窓記念会館(旧染織学校本館・講堂)や守衛所が現存しており、ともに瓦葺の切妻屋根をもつ下見板張の木造建築です。 教会建築風の記念会館は、梁間方向3スパンのうち、中央部の小屋組にハンマービーム架構が用いられ、その両側に2階建部が添えられています。天井が張られているためタイバー(梁間を繋ぐ金物)の有無や小屋組み形式は分かりませんが、ファサードにハンマービームを見せているのが特徴的です。
天満宮から真っ直ぐ南南西に延びるのが本町通りで、鳥居前の本町1・2丁目には、いくつもの旧商家や土蔵、石造倉庫などが残されています。 本町通りを中心とした町並みの中には、重厚な観音開扉と目塗り台をもつ土蔵や、立派な箱棟と影盛付き鬼瓦を頂く商家もあり、かつての桐生の繁栄が偲ばれます。 ただ、豪壮な棟と桟瓦屋根をみせても妻面が下目板張りであったり、川越の土蔵商家に比べると中途半端な感は否めません。 本町通り沿いで最も気に入ったのが、赤い「やまと生命」の看板が可愛い旧森合資会社(大正3年建築)です。 木造平屋のタイル張りに瓦葺の和洋混在建物ですが、庇だけでなく破風や軒隠し(樋隠しか?)にも銅板を葺いており、シンメトリのファサードがとても印象的です。
有鄰館や旧金谷レース工業など、往時の姿でしっかりと保存されている建物はほんの一部で、ほとんどの古い建物は、正面が改装されたり、朽ちるままに放置されたりして、保存状態は必ずしも良好とはいえません。
土蔵造り商家と同じく桐生の町に多く残されているのが鋸屋根の織物工場跡です。 北に開いた天窓から入る変化の少ない柔らかい光が、場内の手作業に適していただけでなく、直射日光に晒さないことで生糸や染料の品質が守れたといいます。 桐生市内に現存する鋸屋根は二百数十棟といわれますが、その数は年々減少しており、飲食店や芸術工房、博物館などへの再利用が進められています。
本町通りを南に下り4・5丁目辺りになると、昭和の初期から40年頃までに建てられた建物が増えてきます。 その代表格は本町5丁目にある金善ビル(大正15年建築)ですが、全体的には、かつて栄えていた町の哀愁が漂う地区ともいえます。 2〜3階建ての建物が軒を並べる本町通り沿いには、モダニズム風のRC集合住宅、庇と窓台がリズム良く並ぶRCのファサード建築などが見つかりました。 東に一筋入った仲町には、10万人都市には不釣合いなほど大きな繁華街もあり、かつての桐生の町の隆盛をいまに伝えているようです。
桐生本町には問屋が、その周辺には機織工場が立地しましたが、桐生川右岸(東側)の安楽土村(現 東町)や南の新宿村(現 新宿)付近には紺屋や撚糸業者が数多く立地していました。 桐生の町は、渡良瀬川の左岸で桐生川沿いにありますが、この二河川の水を町中に引き込み、水路に八丁撚糸機などの水車を並べてその水力で撚糸機を回すことで、桐生は絹織物の一大産地に発展したことは既に述べたとおりです。 特に渡良瀬川から取水する青岩用水は、現在の織姫町辺りから取水し、新宿、浜松町、境野町を分流して渡良瀬川や桐生川に流れ出るもので、明治期、用水にはおびたたしい数の水車が並んでいました。 現在では、用水の大部分が暗渠になっていますが、錦町2丁目付近からは開渠のまま残され、2m程度の川幅できれいな水が流れています。 また、新宿1丁目付近では、かつて水車の置かれていた跡が残され、遊歩道のようにきれいに再整備されています。その先、用水は朝倉染布や土田産業などの繊維工場の敷地内を流れていき、用水が多くの織物工場の動力源であった名残を見せてくれます。
このほかにも、梅田町一丁目付近の桐生川から取水していた大堰用水があり、天神町付近は撚糸水車の集積地だったといいますが、現在は取水堰を取り壊したため堀としての機能はありません。 桐生川は、扇状地河川のため川床が高く流路が不安定で、加えて大堰用水など幾筋もの水路が流れていたため、東2丁目付近から大きく左にカーブしている箇所の右岸下流側の東町は、昔からの洪水頻発地でした。 いまでも河川護岸工事と川床浚渫工事などが頻繁に行われています。
また、渡良瀬川から分水している新川の右岸にあたる新宿付近も洪水頻発地でした。 新川は、中世の頃、桐生氏により堀として開削された水路といわれ、かつては下静堀と呼ばれていたようですが、昭和50年前後に洪水対策のために暗渠化され、今では河川の形状は残っているものの水は地下を流れるいるそうです。
昭和22年、全国で2000人近い死者・行方不明者をだし、約40万棟もの浸水家屋を数えたキャサリン台風では、桐生においても1万戸の浸水(床上床下の合計)100人以上の死者を記録していますが、その時の被害もこの2地区に集中したといいます。 これらの地区には、江戸後期から撚糸機などの動力水車が集中していましたが、水防技術の未発達な時代においては、幾度となく洪水被害に悩まされてきたのではないかと思います。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2008年1月 参考資料 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス「桐生」 A1/20,000地形図「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年 」
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