桐 生


日本のマニュファクチュア先進地
「西の西陣 東の桐生」といわれた絹織物の町




 

 


 

桐生のまちあるき


足尾山系の南麓に展開する桐生は、古来より絹織物の産地として名を馳せてきました。

江戸後期には、渡良瀬川と桐生川の豊かな水を引き込み、多くの水車を回し、町の至るところで機音を響かせていました。桐生は、日本におけるマニュファクチュアの先進地域でした。
日本の主要輸出品が生糸と絹織物であった明治期に建てられた数多の織物工場の鋸屋根がみられ、天満宮を基点とした本町通りには、土蔵造り商家や和洋混在建築が残こされ、かつての繁栄の面影を偲ばせています。

 


 

桐生の歴史


絹織物の里 桐生の誕生

「桐生」の名が歴史に登場するのは平安末期、新田義重(鎌倉初期の武将で源八幡太郎義家の孫)の末子とする桐生六郎忠利(頼忠)の名が記録に見られ、地名としての「桐生」もこの時期には存在していたと考えられています。

南北朝期には、佐野氏(平安末期から江戸初期にかけて下野国を中心に栄えた藤姓足利氏の一族)の系統とされる桐生国綱が柄杓山(城山・桐生中心部の北5km)に城を築いたとされ、これを平安期の前桐生氏とは別系統であるため後桐生氏とよびます。

戦国時代の桐生助綱の代に全盛期を迎えた後、上野国の戦国大名である由良成繁によって滅ぼされ、以降柄杓山城は由良氏の本拠となりますが、江戸幕府の成立とともに天領のひとつに組み込まれます。


桐生が歴史的に有名になったのは、京都西陣とならぶ絹織物の町として名を馳せためです。

桐生では古来から仁田山絹という白絹が織られてきたといわれます。
桐生中心部の北5kmの山中に仁田山(川内町)という集落がありますが、ここに「白滝姫の伝説」が残されています。
京に夫役に来ていた山田夫が、官女の白滝姫を娶り仁田山に戻り、絹織の技術を里人に伝えたというもので、それ以降、桐生地方で絹織物が盛んになったといいます。

その後、桐生の村々は、新田義貞の旗絹や足利義輝の御用織物などを献上することとなりますが、なかでも関ヶ原の戦いを前にした徳川家康への旗絹献上が特に有名です。

上杉討伐のため小山に在陣していた家康が、石田三成の西軍を迎え撃つために関ヶ原に向け急遽西進することを決めますが、その際に不足した軍旗を短時間で揃え献上したのが桐生の村々でした。

当時すでに、桐生には一定量の絹織物を短期間に揃えられる組織された生産力が備わっていたことを示しています。


近世における絹織技術の発達

江戸期に入り、桐生は絹機業の在郷町として発展します。

江戸の繁栄に歩調を合わせるように桐生の絹織物の生産量は拡大し、江戸前期には絹買継商とよばれる桐生商人が、京都や江戸の絹問屋と取引きを始めたようです。

元文年間(1740頃)には、京都西陣から高機の技術が伝わり、問屋制家内工業、続いて工場制手工業(マニュファクチュア)が導入され、その数年後には、西陣から技術者を招き縮緬製造も行われるようになります。

高機(たかはた)とは「鶴の恩返し」にもでてくる手織機のことですが、これにより「紋織物」も生産できるようになり、絹織物産地としての発展を促しました。
紋織物とは、タテ・ヨコの糸の織りなし方によって、文様を浮き出させる織物のことですが、生糸を先染めして織り出すこととなり、生糸が細くていたみやすいことから、生糸を何本か撚り合わせる「撚糸」の工程が必要となります。

縮緬(ちりめん)とは、表面に波を打ったような細かい「ちぢれ(しぼ)」ができるように織った高級着物地ですが、緯糸(よこいと)に強い撚りをかけた生糸(強撚糸)を使って織られます。

このように、江戸中期以降、絹織物生産には「撚糸(ねんし)」が不可欠となり、これを水車動力を利用して大量に製造する技術が桐生で生み出されます。
それが、天明年間(1780頃)に岩瀬吉兵衛が完成させた八丁撚糸機です。

桐生の町は、渡良瀬川の左岸の足尾山系の麓にあり、それに合流する桐生川の右岸に展開しています。
この二河川の水を町中に引き込み、水路に水車を並べてその水力で撚糸機を回すことで、桐生は絹織物の一大産地に発展します。明治期には、町中を走る水路にはおびたたしい数の八丁撚糸機の水車が並び絹織物産業の基盤を担いました。


日本の基幹産業の町

明治期以降、群馬県は日本の基幹産業である絹織物産業の中心になります。

明治5年、前橋の南西20kmに位置する富岡に、わが国初の官営製糸工場の富岡製糸場が建設され、見渡すかぎりの桑畑の中に、製糸工場の巨大な煙突が林立する風景が出現しました。
日本からの輸出額の半分が生糸、さらにその1/3が群馬県産という時代の始まりを告げる記念碑でした。

明治中期の調査によると、群馬県内の57%の世帯が養蚕農家で、この状況は大正期まで続きます。製糸や織物を含めた蚕糸業全体であれば、県内世帯のほとんどが何らかの形で蚕糸業に関係していたといえ、昭和30年代調査でも、県内農家の2/3が養蚕農家だったようです。

この年を境に養蚕農家は減少に転じますが、現在でもこの地方には煙出しのついた大屋根をもつ養蚕農家が所々に見られます。
ほとんどが養蚕業全盛期の明治大正期のものですが、赤城山南麓であることから「赤城型農家」ともよばれる寄棟の建物で、二階に乾繭倉庫をもレンガ造りに瓦屋根の大きな建物です。

明治21年、両毛で生産された生糸、絹織物の輸送を目的とした両毛鉄道が建設され、桐生は、足利、佐野、栃木を通り小山から東北本線へとつながり、翌年には伊勢崎、前橋を通り高崎から上越本線にもつながります。

この鉄道を利用して、横浜港から世界に向けて出荷される織物製品の出荷高は、当時の国家予算の1/3近くに達していたといわれ、大正10年には県内で初めて市制が布かれるほど著しい人口増加を示しました。

大正5年に官立桐生高等染織学校が本町に設置されますが、これが現在の群馬大学工学部の前身であり、群馬県下で唯一の国立大学へとつながります。

明治期、伝統的な高機に替えて西欧からジャカード織機や力織機などの技術が導入され、生産量は飛躍的に増大します。
また、明治23年に日本織物(株)が自家用の水力発電所を設置したことに始まり、大正期には力織機や撚糸機の動力は徐々に水力から電力に移り、市内の水路に並べられていた水車は姿を消していきます。
これに替わって、市内に増えてきたのが鋸屋根の織物工場でした。

戦後から昭和40年頃までの繊維産業全盛期、桐生には鋸屋根の工場が所狭しと立地して織都桐生は隆盛を誇りますが、それ以降は、日本の繊維産業自体が安価な海外製品に押されて衰退するのに歩調をあわせて、桐生の町も活気を失っていきます。

昭和50年にピークを迎えた人口は、13万人台から徐々に減少に転じ、平成の大合併前の同一地域比較では、現在は11万人程度になっています。

群馬県下で人口10万人以上の市は5つあります。
県庁所在地の前橋市、上越本線・新幹線の通る高崎市が30数万人、伊勢崎市と太田市が20万人の規模ですが、桐生市だけが30年前からの人口減少が止まりません。

繊維産業全盛期に建築された鋸屋根の工場も、今ではその姿を市内の至るところに残し、朽ちるに任せているものが多いようです。

 


 

地図で見る 100年前の桐生


現在の地形図と明治前期の地形図とを交互に見比べてみます。

明治期の地形図は、両毛線が開通する明治21年以前のものですが、この頃の桐生の町は、扇状地の扇央部に位置する桐生天満宮の門前町のような形をしていたことが分かります。
門前町の通りが現在の本町通りであり、これが桐生の町の背骨にあたります。

明治期における絹織物業の発展とともに、桐生の町は狭い扇状地の隅々まで広がり、現在では渡良瀬川を越えて大きく広がっています。

明治前期の地形図には、本町のほかには、東側の安楽土村(現 東町)、南側の新宿村(現 新宿、浜松町)付近に疎らな集落が見られます。
この頃の撚糸機を回していたのは水力であり、村々には渡良瀬川や桐生川の水を引き込んだ用水が流れ、八丁撚糸機を動かす水車が所狭しと並んでいたと思われます。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

桐生の立地条件と町の構造



桐生は、関東平野の北西部にあり、根本山、三境山、鳴神山など標高1000m級の急峻な山々が連なる足尾山系の南東麓を水源とする桐生川の扇状地に広がっています。
南には、日光との境界にある皇海山(すかいさん)を源流とし、古河にて利根川と合流する渡良瀬川が流れています。

そのさらに南で、渡良瀬川の右岸には、茶臼山を中心とした広沢丘陵が横たわり、これが渡良瀬川と利根川の流域を分けています。




桐生川扇状地の扇央には桐生天満宮が位置し、これが桐生の町の基点となっています。

荒戸原とよばれた天満宮前に桐生新町が造られたのは天正年間(1590頃)のことで、ここを基点とし、絹織物業の発展とともに町は広がっていきました。天満宮鳥居前が本町一丁目となっているのはそのためです。

天満宮の社伝によると、景行天皇の時代(71年〜130年)に天穂日命を祀る神社として創建され、南北朝期の桐生綱元が現在地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となったとします。寛政年間(1790頃)に再建された切妻流破風造りの本殿は見事で、北野天満宮の山門にもみられる象などの彫刻が施されています。


本町通りの基点にある桐生天満宮


天満宮  左:拝殿  中:本殿  右:本殿の見事な彫刻


天満宮の東隣には、大正5年に設立された官立の染織学校を前身とした、群馬大学工学部があります。
創立時に建築された工学部同窓記念会館(旧染織学校本館・講堂)や守衛所が現存しており、ともに瓦葺の切妻屋根をもつ下見板張の木造建築です。

教会建築風の記念会館は、梁間方向3スパンのうち、中央部の小屋組にハンマービーム架構が用いられ、その両側に2階建部が添えられています。天井が張られているためタイバー(梁間を繋ぐ金物)の有無や小屋組み形式は分かりませんが、ファサードにハンマービームを見せているのが特徴的です。


群馬大学工学部  左:守衛所  中右:同窓記念会館


天満宮から真っ直ぐ南南西に延びるのが本町通りで、鳥居前の本町1・2丁目には、いくつもの旧商家や土蔵、石造倉庫などが残されています。




本町通りを中心とした町並みの中には、重厚な観音開扉と目塗り台をもつ土蔵や、立派な箱棟と影盛付き鬼瓦を頂く商家もあり、かつての桐生の繁栄が偲ばれます。 ただ、豪壮な棟と桟瓦屋根をみせても妻面が下目板張りであったり、川越の土蔵商家に比べると中途半端な感は否めません。

本町通り沿いで最も気に入ったのが、赤い「やまと生命」の看板が可愛い旧森合資会社(大正3年建築)です。
木造平屋のタイル張りに瓦葺の和洋混在建物ですが、庇だけでなく破風や軒隠し(樋隠しか?)にも銅板を葺いており、シンメトリのファサードがとても印象的です。


有鄰館 旧矢野本店  横の近江辻小路には下目板張りの蔵が並ぶ


左:本町1丁目の天満宮前の町並み  中:旧森合資会社社屋と土蔵    
    右:見事な観音開扉と目塗り台、箱棟と影盛付き鬼瓦を頂く土蔵商家


有鄰館や旧金谷レース工業など、往時の姿でしっかりと保存されている建物はほんの一部で、ほとんどの古い建物は、正面が改装されたり、朽ちるままに放置されたりして、保存状態は必ずしも良好とはいえません。


左:本町通り沿いの旧商家  中:正面を回想している土蔵  右:旧金谷レース工業


土蔵造り商家と同じく桐生の町に多く残されているのが鋸屋根の織物工場跡です。

北に開いた天窓から入る変化の少ない柔らかい光が、場内の手作業に適していただけでなく、直射日光に晒さないことで生糸や染料の品質が守れたといいます。
桐生市内に現存する鋸屋根は二百数十棟といわれますが、その数は年々減少しており、飲食店や芸術工房、博物館などへの再利用が進められています。


大谷石を外壁に使用した工場跡


左:北側に天窓がみえる  中:本町通り沿いにある工場跡  右:介護施設に再利用される工場跡


本町通りを南に下り4・5丁目辺りになると、昭和の初期から40年頃までに建てられた建物が増えてきます。
その代表格は本町5丁目にある金善ビル(大正15年建築)ですが、全体的には、かつて栄えていた町の哀愁が漂う地区ともいえます。
2〜3階建ての建物が軒を並べる本町通り沿いには、モダニズム風のRC集合住宅、庇と窓台がリズム良く並ぶRCのファサード建築などが見つかりました。
東に一筋入った仲町には、10万人都市には不釣合いなほど大きな繁華街もあり、かつての桐生の町の隆盛をいまに伝えているようです。


本町4・5丁目の町並み  左:なんとなくレトロな本町通り  中右:なんとなくモダニズム風のRC建物


桐生本町には問屋が、その周辺には機織工場が立地しましたが、桐生川右岸(東側)の安楽土村(現 東町)や南の新宿村(現 新宿)付近には紺屋や撚糸業者が数多く立地していました。

桐生の町は、渡良瀬川の左岸で桐生川沿いにありますが、この二河川の水を町中に引き込み、水路に八丁撚糸機などの水車を並べてその水力で撚糸機を回すことで、桐生は絹織物の一大産地に発展したことは既に述べたとおりです。

特に渡良瀬川から取水する青岩用水は、現在の織姫町辺りから取水し、新宿、浜松町、境野町を分流して渡良瀬川や桐生川に流れ出るもので、明治期、用水にはおびたたしい数の水車が並んでいました。

現在では、用水の大部分が暗渠になっていますが、錦町2丁目付近からは開渠のまま残され、2m程度の川幅できれいな水が流れています。
また、新宿1丁目付近では、かつて水車の置かれていた跡が残され、遊歩道のようにきれいに再整備されています。その先、用水は朝倉染布や土田産業などの繊維工場の敷地内を流れていき、用水が多くの織物工場の動力源であった名残を見せてくれます。


現在の青岩用水
左:水車設置跡がみえる  中:用水は朝倉染布敷地内を流れる  右:大部分はこのように暗渠化している


このほかにも、梅田町一丁目付近の桐生川から取水していた大堰用水があり、天神町付近は撚糸水車の集積地だったといいますが、現在は取水堰を取り壊したため堀としての機能はありません。

桐生川は、扇状地河川のため川床が高く流路が不安定で、加えて大堰用水など幾筋もの水路が流れていたため、東2丁目付近から大きく左にカーブしている箇所の右岸下流側の東町は、昔からの洪水頻発地でした。
いまでも河川護岸工事と川床浚渫工事などが頻繁に行われています。


桐生川 堤防は高く、川床は周囲の家屋より高い


また、渡良瀬川から分水している新川の右岸にあたる新宿付近も洪水頻発地でした。 新川は、中世の頃、桐生氏により堀として開削された水路といわれ、かつては下静堀と呼ばれていたようですが、昭和50年前後に洪水対策のために暗渠化され、今では河川の形状は残っているものの水は地下を流れるいるそうです。


左:新川跡 川の形状は残っているが駐車場やグランドとして利用されている。
右:渡良瀬川 遠方に霞んでみえるのが赤城山


昭和22年、全国で2000人近い死者・行方不明者をだし、約40万棟もの浸水家屋を数えたキャサリン台風では、桐生においても1万戸の浸水(床上床下の合計)100人以上の死者を記録していますが、その時の被害もこの2地区に集中したといいます。

これらの地区には、江戸後期から撚糸機などの動力水車が集中していましたが、水防技術の未発達な時代においては、幾度となく洪水被害に悩まされてきたのではないかと思います。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年1月


参考資料


使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「桐生」
A1/20,000地形図「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年 」


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