佐 原
利根川水運で栄えた「江戸まさり」の在郷町
佐原のまちあるき
千葉からJR成田線の銚子行きに乗ると、約1時間20分で列車は佐原駅に着きます。成田線は、成田空港への分岐点となる成田駅までは頻繁に電車が走りますが、その先から銚子までの間は、2時間に1本程度しか列車の通らない超ローカル線になります。 |
地図で見る 100年前の佐原 明治大正期の地形図が手に入らなかったため今回は休みです。 |
佐原の歴史
鎌倉・室町時代、佐原一帯は、千葉氏一族の矢作城主国分氏に領されてきましたが、天正十八年(1590)、秀吉による小田原征伐に合わせて徳川方に攻められた矢作城は落城し、これに伴い家臣のだった伊能氏が帰農して佐原村新宿を開拓したことに始まります。 |
佐原の立地条件と町の構造 佐原の町は、北側の利根川低地と南側の谷津に刻まれた下総台地の境界に位置します。 利根川は、「坂東太郎」の異名をもつ日本三大暴れ川の一つであり、北関東(常陸、上野)と東関東(下総、武蔵)との国境を形成して流れる、日本一の流域面積をもつ大河です。 江戸初期まで利根川は東京湾に注いでいましたが、徳川家康は、利根川を東隣を流れていた渡良瀬川につなぎ、その先をさらに鬼怒川水系の下流方面へとつなぐことにより、現在のように銚子から太平洋に流れ出るよう数十年の歳月をかけて河道を変える一大土木事業を行います。これを「利根川東遷事業」といいます。 これにより、銚子から利根川を上り、関宿(千葉県野田市関宿)から江戸川に入り江戸に到達する利根川水運が開けます。 利根川水運の利用は、房総半島を回っていく海上輸送の危険を回避し、舟運行の距離を短縮することとなり、東北地方や北関東地方の物資などが利根川水運を利用して江戸に運ばれ、利根川は物流基盤として重要な存在となります。 銚子、小見川、木下、関宿、野田、流山、行徳、浦安などは、このような利根川水運の河川港として栄えた町であり、この中で佐原も重要な中継拠点になります。 また下総台地は、千葉県の北部一帯に広がる関東ローム層で形成された台地です。生活・農業の用水確保が難しいため、古来からさほど集落は形成されず、江戸期には「小金牧」や「佐倉牧」などの幕府の馬の放牧地が広がっていました。 台地縁辺部では侵食により枝状の谷が切れ込んで複雑な地形をみせており、北西から南東に下るにしたがって標高が上がり、市原市、茂原市付近からは房総丘陵とよばれています。 佐原から東3kmにある香取神社は、下総国一宮であり、日本全国に約400社ある香取神社の総本社でもあります。 平安時代に成立した延喜式によると、江戸時代以前から「神宮」と称されたのは伊勢神宮・鹿島神宮・香取神宮の三社だけであり、その創建は神武天皇十八年(紀元前643)と、神代の時代まで遡ります。 香取神宮と鹿島神宮(茨城県鹿嶋市・常陸国一宮)は、ともに蝦夷に対する大和朝廷の前線基地だったのではないかと言われています。 佐原は、市内を南北に流れる小野川 によって、大きく東の本宿と西の新宿に分かれています。 小野川右岸の本宿は中世からつづく町集落で、本宿の氏神の八坂神社は、取訪山近郊の天王台に鎮座していた牛頭天王を江戸初期に現在地へ遷宮したものといわれています。 左岸の新宿は、天正年間(1590頃)に、伊能氏が領内の農民を率いて開発した集落で、氏神の諏訪神社は、中世に下総大須賀荘(現 成田市伊能)を与えられた大神氏が信濃諏訪大社を勧請したものを、伊能氏が佐原新宿に勧請したものです。
夏に行われる八坂神社の祇園祭と秋に行われる諏訪神社の秋祭りを合わせて「佐原の大祭」と呼ばれています。 2つの祭りは、その歴史的由来は異なるものの、上部に大人形と飾りつけた総欅作りの重厚な十数台の山車が、佐原ばやしの音と共に町中を曳廻される点で全く同じもののようです。 大人形は身の丈5m近くもある巨大なもので、神武天皇、菅原道真といった歴史上の人物が中心で、山車の周囲に施された関東彫りの彫刻とともに、江戸後期から昭和初期にかけて、江戸・東京の名工たちが腕を振るったものといわれています。
小野川を挟んで起源の異なる両町が江戸期に一体となり、利根川水運の隆盛により、「江戸まさり」と自称するほど大きく経済的発展を遂げた名残だといえます。 「江戸まさり」の名残は町並みにもみられます。 香取街道が小野川を渡る場所には「忠敬橋」と呼ばれる橋が架かっています。 もともと佐原大橋とよばれ、町の中心でしたが、交通量の増大にともない現在の橋に付け替えられたときに、郷土の偉人から名をとりました。 忠敬橋から100m程上流に架かる樋橋は、その両側から流れ落ちる水音から「ジャージャー橋」とも呼ばれています。 もともとは、江戸初期に、灌漑用水を小野川の東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり架けたのが始まりで、後に大樋を箱型にして人道橋に改修されたようです。 コンクリート製で復元された現在の橋では、ポンプで水が汲み上げられ、30分毎に5分間流しているそうですが、私が町歩きした時にはすでに営業終了時間で、流れ落ちる水を見ることはできませんでした。
橋の横には川面に下りる「出し」とよばれる石段があります。 往時の船着場の跡のようですが、今でも川を上り下りする観光船の乗舟場として活用されています。 関東地方で最初に指定された佐原の重要伝統的建造物群保存地区は、忠敬橋を中心にして、小野川に沿って約500m、香取街道に沿って約400mの範囲に、凡そ十字形に広がっています。 香取街道沿いには、間口が狭く小規模な切妻平入りの二階建ての町屋が多いのに対し、小野川沿いには、間口が広く比較的大規模な町屋が多く、寄せ棟造りや切妻の平入り・妻入りなどが混在しているのが特徴です。
佐原の町屋の全体的な特徴としては、立派な棟をもつ瓦葺き屋根を載せているにもかかわらず、外壁は下目板張りで開口部の広いものが多く、中には京風の縦格子窓も多く見られ、川越にみられる本格的な土蔵造り商家に比べると、中途半端な感が否めません。
数ある町屋の中で、最も本格的な土蔵造りの商家が、香取街道沿いの正文堂と中村屋です。 正文堂は、忠敬橋の近くにある明治13年建築の商家で、箱棟に影盛をもった鬼瓦を頂き、観音開き戸に目塗台まで備えていて、登り龍と下り龍を配した「正文堂」の看板が印象的です。
重伝建地区以外でも、町中には古い蔵などが残されていますが、土蔵造りの形状に下見板張りの外壁を回しているものが目に付きました。 厚い軒裏と塗り込め扉をもっていますが、これらを覆い隠すように全面板張りの外壁をもち、今風にいうと下目板のサイディングのように見えます。
これら以外にも、かつて醸造業を営んでいた与倉屋の大土蔵(明治初期築)や清水満之助商店(現清水建設)設計施工で煉瓦造の三菱館(旧三菱銀行佐原支店)など、重伝建地区にも様々な建物が混在していて、佐原はとても楽しい町歩きができる町でした。
|
歴史コラム
佐原の町の住所は「香取市佐原イ」
佐原の重伝建地区を含む一帯の住所は「香取市佐原イ ○−○」(○には番地が入る)となっています。 江戸期から続く在郷町の佐原町全域が「佐原イ」という大字になっていて、それに隣接する開拓田一帯が、佐原ロ・佐原ハ・佐原ニという大字になっています。 千葉県の東総地域には、このようなイロハ地名がいくつかみられます。 ・八街市 八街 い〜へ ・山武市 蓮沼 イ〜ロ ・旭市 イ〜ニ ・匝瑳市 八日市場 イ〜ホ などですが、これらイロハ地名の成り立ちには2つのパターンがあるようです。 八街市や山武市の場合は、八街や蓮沼がかつての開拓地・干拓地だったため、新田を分割するためにイロハ地名が誕生したといわれています。 旭市や匝瑳市の場合は、いずれも明治の大合併の際に、それ以前の旧村にイ・ロ・ハと序数をつけたといわれています。 佐原の場合は両方の性格をもっています。 平成の大合併で香取市となる前、佐原市の前身である佐原町が、明治22年に佐原町、篠原村、長島村、中州村、西代村の1町4村の合併により誕生したとき、本来なら、江戸期から続く合併前の旧町名(田宿、上仲町、下宿など)をもって「佐原町田宿」などとなるはずが、何故かは分かりませんが、旧佐原町全域が「佐原イ」となったようです。 そして、周辺の新田一帯には、イに続いてロ・ハ・ニと名づけられたようです。 現代において、序数としての機能を失ったイロハが、千葉県東総地域では地名として生き残っているのです。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2008年4月 参考資料 @「歴史の町なみ 関東・中部・北陸篇」保存修景計画研究会 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス「佐原」
|