川 越 −「小江戸」は蔵造りの町並みを残す要害の城下町−
武蔵野台地の北端に位置する要害の城下町 川越 |
町の特徴
川越は、「大江戸」に対して「小江戸」とよばれています。 |
左:蔵造りの町並み 右:大正期から昭和初期の数々の洋風建築 |
100年前の川越 現在の地形図と100年前(明治40年)の地形図を見比べてみます。 明治40年の地形図をみると、城下町は川越城の西に広がり、南から伸びてきた鉄道が城下町の南端の本川越駅を終点に止まっています。 旧城下町の北側には、入間川が大きく蛇行して流れていますが、その間には昔と変わらず今も水田地帯が広がっています。 この入間川沿いの低地が旧城下町の西北東の三方にあるため、市街地は本川越駅を越えて南方向にだけ拡大したようです。 川越は、武蔵野台地の北西の端にあたり、南東の端にある江戸城に対して、北の守りの要となる戦略上重要な場所だったのです。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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町の歴史
川越の地に城が築かれたのは、徳川家康の江戸入封から遡ること約150年前、長禄元年(1457)のことです。太田道真・道灌父子が主君 上杉持朝の家臣の命をうけて築城したものです。 |
町の立地条件と構造 川越城下町は、武蔵野台地の一部である川越台地の東北端に位置して、台地の周囲を赤間川(現在は新河岸川と改称)が取り囲むように流れています。 川越城下町は、三方を川と低地で囲まれ、低地に比べて10m以上の比高をもつ場所に築かれましたが、城郭が川越台地先端の東寄りにおかれたため、城下は城郭の西側から南にかけて展開することになりました。 秩父山地を源流とする入間川は、川越台地を回り込むように南西から南東に流れ、台地の裾の低地を荒川とほぼ平行に南東に流下し、現在は、東京都北区の岩淵水門付近で隅田川に合流しています。 その内側を流れる新河岸川は、昭和9年、かつての最上流の河岸場であった仙波河岸跡から川越旧市街地に沿って開削され、旧城下町の北側で、南西(狭山方面)から伊佐沼に向かっていた赤間川につながれ、現在の新河岸川の流れが完成しました。 明治40年の地形図では、新河岸川は伊佐沼と大仙波から流れでていて、旧城下町の北端に沿うように流れる赤間川と直接つながってはいません。 上図で新河岸川と記載されている河川は、現在、九十川とよばれていて、上河岸で現新河岸川(旧赤間川)と合流しています。 東上線(現、東部東上線)は川越市駅の先、入間川の手前で止まっており、地図上では「たのしさば」駅と記載されています。川越鉄道(現、西武新宿線)も東上鉄道も川越台地(武蔵野台地)の上を通り、台地の先端の川越で止まっていたのです。 川越の町に行くには、西武新宿線からの終点本川越駅か東急東上線、JR埼京線の川越市駅が最寄り駅となりますが、いずれも旧城下町からは南の外れに位置しています。 まちあるきは、川越市駅からクレアモールを通り本川越駅を左にみて、旧城下町に入ることにします。 川越駅から北へ伸びる商店街「クレアモール」(川越サンロード商店街と川越新富町商店街の統一名)は、県内でも屈指の集客力をもつ商店街といわれていて、地元の若年層や近隣から通学してくる高校生を中心に人通りがとても多く賑わっています。 その先に何があるわけでもないのに人通りがとても多く、道幅も狭く天蓋もありません。もともとの町屋通りではなく、大正初期の川越市駅の開設と戦後の丸広百貨店川越本店が開店したことを契機に、自然発生的にできた商店街のようです。
一方で、かつて川越街道とよばれた江戸からの往還道は、明治大正期まではかなりの賑わいを見せていたようですが、現在では南北方向の幹線道路の一つとなっています。 クレアモールを抜けて人通りが途切れると、ぼちぼち蔵造りの商家と洋風レンガ造りの建物が目立ち始めます。
蔵造りの町並みがよく残されているのは、仲町交差点付近から札の辻(ふだのつじ)交差点にいたる一番街商店街のあたりです。 この一帯には、店蔵(二階建てで道に面して商店を営むもの)、袖蔵(付属屋)、塗家(外壁をしっくいで塗りかためた家)など、60棟ほどの蔵造りや塗家づくりの建物が軒を連ねて、そこに大正期以降の洋風建築もまじっていてなかなか壮観です。 箱棟と影盛りに鬼瓦、観音開扉、目塗台に軒蛇腹、こうしたものが店蔵の基本的パターンですが、やはり、巨大な鬼瓦と黒漆喰の無骨な造りが江戸風土蔵造りの真髄だといえます。
「蔵造り」は江戸中期から始まり、江戸の問屋からその商圏である関東一円、甲信越、東北地方へと広まったもので、武州川越のほかには、信州松本の中町や奥州会津の喜多方などが有名です。 「蔵造り」とは、土蔵と同じ構造で建てられた家屋または店舗のことで、20〜25cmの壁厚をもっています。土蔵が相当な大火の後にも焼け残るため、倉庫以外でも大切な建物は蔵造りとするようになったもので、商家にとっては「店」が最も大切な建物でったので、蔵造りの建物を店として使用する「店蔵」が生まれました。
また、大正初期以降には、蔵造りにの商家に代わりさまざまな様式の洋風建築が建ち並ぶようになります。 蔵造りの町並みのど真ん中にある旧八十五銀行本店(現、埼玉りそな銀行川越支店)は、大正8年建築で銅葺きのドーム屋根と縞模様の控壁をもつイタリアルネサンス風の建物です。 旧武州銀行川越支店(現、川越商工会議所)は、昭和3年に建てられた古代ギリシャ様式を模したネオクラシズム風の建物で、昭和初期の金融機関の建物のプロトタイプともいえるものです。 このほかにも、三連窓に木製サッシが目をひくコーヒー店大正館や銅版外壁でウィーンゼゼッション風(?)の菓子屋いせや、フランドル風のファサードをもつ建物もみられ、まさに近世ヨーロッパ建築の模倣のオンパレードといえます。
蔵造りの通りの北の端の交差点は札の辻とよばれ、江戸期には高札場となっていた辻で、ここを右に折れると川越市役所があります。 市役所の前はかつての西大手門にあたります。 ここから南に向かうのが川越街道で、この街道沿いの町を江戸町といい、江戸期には道中の人馬継ぎ立てする問屋がありました。 市役所の東にある川越高校は、かつての三の丸の跡で、その北東にある川越市立博物館の場所が二の丸にあたります。
この博物館は、川越の歴史が総合的に理解できる常設展示があり、江戸期の城下町の模型も展示されていて、とても見ごたえがあります。 江戸期、川越城本丸に天守はなく御殿がありました。しかし、明治初年にはそのほとんどが解体され、かつての本丸には、御殿の玄関と大広間の部分のみが残されています。
旧本丸の北側には氷川神社があり、ここが旧城下町の北端にあたります。 毎年10月に行われる氷川神社の祭礼である川越祭りは、関東三大祭りにあげられますますが、これは、松平信綱の治世に始められた歴史ある祭りで、当初は町人町5町、職人町5町の人形山車により行われてきました。 氷川神社の北には新河岸川が流れています。 かつて、この川は赤間川とよばれ、氷川神社の北辺りで東進していたようですが、昭和前半の改修工事により伊佐沼がわ流れ出ていた新河岸川とつなげられ、川越台地をかすめるように流れるようになったことは述べました。 いまも新河岸川護岸は人工的ではありますがコンクリート造りではなく、桜並木の土塁となっています。
本丸の周囲には内堀が巡り、川越市役所前に西大手門、川越第一小学校横には大手門がありましたが、今ではその痕跡を見つけることはできません。 西日本の城郭には必ずある石垣が造られなかった関東平野では、堀が埋め立てられると城郭の境界すら分からなくなるようです。 そんな中、かつての城郭跡を実感させるものが本丸御殿の南にあります。 川越高校の南に住宅地に囲まれて樹木が生い茂った高台があり、江戸期には三層の櫓が建っていたといわれる富士見櫓の跡です。 ここは城内で最も高い場所だったようで、「富士見」の名の如く晴れた日には富士山が見えといわれています。 現在、この地には御岳神社と浅間神社がおかれていますが、周囲の木々が生い茂ったことと、周辺の建物に視線を遮られて、残念ながら眺望はあまりよくありません。
川越城下町には、城下町西側に点在する寺院郡と、本丸の南に広大な敷地を構える喜多院がありました。 喜多院は、太田氏により川越に砦が築かれるはるか昔、天長七年(830)に慈覚大師円仁によって開かれたといわれ、徳川家康に影響力のあった天海僧正がついてから栄えた関東天台宗の本山です。 境内には、寛永十年(1633)に造られた東照宮がおかれていますが、新河岸川の舟運は、東照宮の建材を荷揚げするために使い始められたともいわれています。
城下町の西、現在の蔵造りの通り一番街の西側にはいくつかの寺院が並んでいます。 その中でも、養寿院、行伝寺、妙養寺、蓮馨寺の四ヶ寺は、家康の関東入部前からあった有力寺院で、酒井氏が川越城主となり城下町を建設する時にはすでに門前町を形成するほど寺勢があったといわれています。 これらの寺の前には門前町の名残がみられ、一番街(蔵造り通り)から山門に通じる沿道には蔵造りの商家だけでなく洋風建築の商家や映画館まで軒を連ねていたようです。 なお、現在の養寿院の門前町は、菓子屋横丁として観光客の人気を集めています。
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歴史コラム
武蔵野台地
荒川と多摩川という、遠く秩父山系と多摩山系を水源として東京湾に注ぐ二大河川の間に、武蔵野台地は広がっています。 東京、上野、品川などの京浜東北線の各駅は、武蔵野台地の南東の端に位置し、一方の川越は、荒川の支流入間川を北端とした武蔵野台地の北西辺に位置します。 室町期において、荒川左岸の鎌倉公方足利氏に対抗するために、関東管領上杉氏の意を受けた太田氏により、江戸城が台地の南東端に造られ、川越城は台地の北西端に、そして、その間の岩槻にも城が築かれたことはすでに述べました。 武蔵野台地は地理学的には多摩川の扇状地といわれていますが、台地上の狭山丘陵を除くと、標高150mから20mまでの標高をもち、大きくみると箱根沢の辺りを扇央として、東方向(東京湾)に緩やかに、北方向(荒川)にやや急に、傾斜しているようです。 そのため、入間川を最北の支流として、柳瀬川、黒目川、矢川、石神井川など、武蔵野台地を流れる河川のほとんどが、東流、北流して荒川に合流しています。 逆に、台地の多摩川側は急傾斜地となっていて、今でも多摩川左岸に急坂と斜面地の緑の帯が続き、自然がよく残されることとなりました。 荒川とその支流の隅田川の河口付近は低地で、本所、深川などいわゆる江戸下町がここに位置します。
京浜東北線は、山手と下町とを区切るように、また武蔵野台地の端をなぞるように走っていますが、これは、明治初期の鉄道土木技術の黎明期に、比較的地盤がよく、起伏も少ない場所を選んだ結果なのだとおもいます。 上野から京浜東北線下りに乗ったとき、左手に崖面が見えます。建物が建ち並び分かりにくくなってはいますが、この崖面が、武蔵野台地の東の端で、氷河期後の海進により、台地の端が波に洗われたためにできたものだといわれています。
京浜東北線は赤羽を過ぎると荒川を越えて浦和、そして大宮に着きます。 大宮は江戸期において奥州街道、日光街道、中仙道の主要街道の分岐点であっただけでなく、現在でも東北新幹線や上越新幹線、長野新幹線など、関東平野の交通の一大結節点になっています。 荒川左岸の浦和、大宮は、地理学的には大宮台地とよばれています。京浜東北線が荒川を越えて、浦和の手前で緩やかに登りになりますが、ここで荒川低地から大宮台地に入ったことが実感できます。そして、ここから川越に向かうには、再び大河の荒川を渡らなければならないのです。 川越街道が東京山手から荒川を渡ることなく川越を終点としているのも、大宮からつながる川越線(埼京線延長)の開通が、武蔵野台地上を走る東武東上線や西武新宿線に比べて大きく遅れたのも、このような地理的な理由によることが大きかったのかもしれません。 ちなみに、川越という地名は、西東北の三方を入間川に囲まれ、武蔵野からみて川を越えることの難しい場所という意味なのかもしれません。
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まちあるき データ
まちあるき日 2007.4 参考資料 @「城下町古地図散歩9 江戸・関東の城下町」 A「東京の地理がわかる事典」日本実業出版社 使用地図 @1/50,000地形図「川越」平成8年修正「大宮」平成7年修正 A1/50,000地形図「川越」明治40年測図「大宮」明治45年修正
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