柳 川
”さながら 水に浮いた”ような町 水郷の城下町
柳川のまちあるき
明治大正期の詩人 北原白秋は、故郷 柳川の町を、「さながら水に浮いた灰色の棺である。」 と詠いました。
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地図で見る 100年前の柳川 現在の地形図と約100年前(明治33年)の地形図を見比べてみます。 明治期の地形図をみると、柳河町と沖端町の辺りに市街地がみられ、本丸周辺には空地が目立ちます。江戸期を通して、柳河町は町屋町で、沖端町は港町、漁師町でした。本丸周辺には武家屋敷地が広がっていましたが、明治期には荒地になっていたようです。 また、堀割りが毛細血管のように縦横に走っていることが分かります。表現上の違いもあるのでしょうが、現在より明治期のほうが堀割りが多いように見えます。 西鉄柳川駅は、旧城下町の東端に昭和初期に開設されましたが、それ以降も、市街地はさほど拡大していないことが分かります。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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柳川の歴史
柳川は近年まで「柳河」と記されていました。 |
柳川の立地条件と町の構造 柳川は、福岡県南部で筑後平野の西南部にあり、筑後川と矢部川による沖積と、有明海の潮汐による海成沖積作用によって形成された地域にあります。 そのため、標高1〜4m程度しかない低い平坦地の地盤は非常に軟弱で、20〜30mもの深さをもつ海生粘土層のうえに柳川市街地は浮かんでいるといっても過言ではありません。 また、町中の河川はほとんどが感潮河川で、有明海の干満の差が6mもあるために、干潮時には岸辺から数km沖合いまでが干潟となります。 明治期の地形図をみると、柳川の町の周辺には、河川や水路が網の目のように縦横に走っていることがよくわかります。 水郷として名高い柳川には、いまでも、わずか10km四方の市域に(平成の合併前)、延べ470kmもの長さの水路が存在しています。かつての城下町はその中心に位置し、その範囲も堀割りで明確に区分することができます。 現在の地形図にかつての城下町の区域を重ねてみると、面白い幾何学模様が浮かび上がってきます。 本丸、二の丸を中心とした城内(武家屋敷地区)と、その北東にある柳河町(町屋地区)がほぼ同じ正方形で型取ることができ、2つの正方形は重なり合って、柳河町の対角線上に柳河城天守が位置していました。 矢部川から分岐した沖の端川は、城下町の北部と西部を城下町外縁に沿うように流れ、その流れに添うように、2つの正方形を重ねた城下町がありました。 柳河城下町は、大きく分けて「城内」「柳河町」「沖端町」の3つの地域に分かれていました。 本丸(現柳川中学)と二の丸(現柳川高校)、それを大きく取りまく三の丸でほぼ方形の堀に囲まれた武家屋敷群の「城内」は「御家中」とも呼ばれ、柳川の中心地でした。 かつて、五層の天守を要し威容を誇った柳川城本丸は、現在、柳川中学校の一角にひっそりとあります。主郭部分は明治5年に焼失し、石垣は有明海の干拓用石材として流用されたため、城郭遺構はほとんど残されていないことはすでに述べました。 城下町絵図をみると、柳川城天守閣の本丸及び二の丸は、幅約40メートルの堀に囲まれていたようですが、昭和3年から昭和5年にかけて城跡が開田された際に、堀の大部分が埋め立てられたといわれ、現在では堀の痕跡は全く見られません。 高さ2mほどの石垣が当時の遺構のようですが、これも積み方をみると再建されたもののように見えます。
このほか旧城内には、寛永年間(1790頃)の建築と伝えられる戸島家住宅や十時邸など藁葺きの武家屋敷が部分的に保存されていたり、路地のような道沿いに槇垣の家並みや屋敷門があったりしますが、戦災震災にあったわけでもなく、スクラップ&ビルドが頻繁に行われた都市でもないのに、町中にはかつての武家屋敷地の痕跡はあまり残されていません。 そんな中にあって、御花とよばれる旧藩主別邸「松涛館」は町の文化遺産として大切に保存されています。
城内の北東に位置する「柳河町」は「町小路」とも呼ばれ、柳河道(久留米往還)とよばれた街道が北から東に抜けていました。大部分は町屋で構成され、部分的に下級武家地と寺社が立地していたようです。 所々にかつての町屋や土蔵が残されていますが、町歩きの範囲では町屋が軒を連ねる街道筋という風景は見当たりませんでした。
柳川のなかで最も城下町時代からの特徴を残しているのは沖端町かも知れません。 沖端町は、城内の南西部で沖端川沿いに位置しています。 城下町時代から柳河藩の重要港であり、領外との取引や漁港として使用されてきました。 潮の匂いと漁船、朽ちかけた橋と下目板張りの民家など、沖端町はいまでも漁港であり、城下町時代からの港町の匂いが色濃く残っています。
柳川駅近くの船着場から始まる柳川下りは、沖端町の堀にある水天宮付近の船着場で終点となります。 この付近は川下りの終点にあたるため、往時の町並みがきれいに復元されており、御花も近いことから柳川観光の拠点ともいえます。
柳川の町にはかつての城下町らしさがあまり感じられません。 戦災震災を受けることもなく、市街化が大きく進展することもありませんでしたが、町中には城郭の残存や町屋が軒を並べる光景は見られません。 また、同じ有明粘土層に浮かぶ旧城下町の佐賀とも風景がまったく違います。 佐賀と柳川では、中心部に残る本丸内堀の広さ、佐嘉神社に代表される寺社の大きさ、そして市街地の大きさにおいて比べものにならず、また、佐賀は県庁所在地であるため、ビルやマンションなどの高層建物が目立ち、都市としての賑やかさもあります。 一方柳川は、掘割りの美しさを除けば、どこにでもある地方都市のひとつといえます。 低く平らな市街地に、水面の高い掘割が縦横に走る点で、佐賀と柳川は似ていますが、石垣やコンクリートで護岸が固められた佐賀に比べて、柳川の堀割りには、柔らかさと楽しさがあります。 堀割りの土手は緑に縁取られ、そこに水郷に住む人々の生活が垣間見れます。 時には水門跡をくぐり抜け、手の届きそうな石橋の下を通り、煉瓦造の並倉をみて、所々で「くんずば(汲水場)」とよばれる水汲み場が現れ、それら一つ一つの光景が、川下りに一層の風情を添えています。
柳川出身の詩人 北原白秋は、26歳のときに発表した第二詩集「思ひ出」のなかで、 「(水郷柳河は)・・・さながら水に浮いた灰色の棺である」と詠い、 「そうして静かな廃市の一つである」といいました。 「思ひ出」は、故郷柳川と破産した実家への懐旧の情が高く評価された詩集として有名です。 北原家は、沖端町にある江戸時代以来の海産物問屋で、白秋の生まれた明治中期には酒造業を営んでいましたが、やがて破産します。 また、当時、すでに柳川城は焼失し、鉄道ルートからも外れ、時代の波に取り残された感のある柳川は、白秋の目には「灰色の棺」で「静かな廃市」に映ったのかもしれません。 しかし、いまでも満々と水を湛えた掘割りが狭い街中を網の目のように走り、柳川は、”さながら水に浮いた”町であることに変わりはありません。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2007.5 参考資料 @「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」 平凡社 A「伝統的文化都市環境保存地区整備事業計画」 柳川市 使用地図 1/25,000 「柳川」平成5年修測 「羽大塚」平成10年修測 1/20,000 「柳河」「沖端」明治33年測図
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