山形   −蔵王山麓の扇状地に広がる県庁所在地−

出羽の太守 最上義光は広大な城郭を 蔵王山麓の扇状地に残した
それから400年 町は県下一の近代都市となった
しかし、都市の狭間には かつての城下町の名残りが散在する
山形のまちあるきは 意外と面白かった


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町の特徴


 山形の町は、江戸初期の出羽の太守 最上氏五十七万石の藩都を始まりとして、戦災を受けることなく現在に至っていますが、明治期においては、かつての城内は陸軍司令部として大きく改変され、駅は城下町の中心におかれて鉄道が町を貫通し、県庁がおかれて官公庁や教育施設が立地して、かつての城下町は県下一の都市となりました。
 そのため、かつて隆盛した紅花商家が競う合うように軒を上げたであろう土蔵造りの町並みや城郭内の櫓や門、石垣などはほとんど残されていません。

 しかし、二の丸を縁どる柔らかな堀と土塁の桜並木、市街地内に散在する旧三の丸の名残り、旧街道沿いの紅色瓦を載せた蔵造りの商家など、街中をこまめに歩くと歴史の痕跡を随所に見つけることができ、とても面白い「まちあるき」ができる町だと思います。




左:霞城公園(旧山形城二の丸)の堀と線路  右:旧奥羽街道沿いに残る土蔵造りの商家

 


 

100年前の山形


現在の地形図と100年前(明治36年)の地形図を見比べてみます。


 山形の町は、蔵王連峰を源流とする馬見ヶ崎川の扇状地に造られましたが、明治期の地形図では、扇状地に町屋がコの字の形で市街地を形成していました。
 コの内側はかつての武家屋敷ですが、明治期には陸軍練兵場と疎らな市街地、そして桑畑になっていたようです。
 現在、市街地は旧城下町の四方に均等に広がっていますが、概ね扇状の形をしているのが分かります。 ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史


 「山形」の地名は、古代の「山方郷」に由来するとされ、南北朝期、出羽探題として派遣された斯波兼頼が、蔵王山麓から流れる馬見ケ崎川の扇状地に築城したのが、山形の町の始まりといわれています。

 その後、斯波氏は最上氏を名乗り、室町期には山形城を拠点として領内を支配し、戦国期の最上氏第11代義光の代には、最上川中流域の最上地方と村山地方にわたる領国形成が進み、上流域の置賜地方米沢の伊達氏、下流域の庄内地方鶴岡の大宝寺氏・上杉氏と対峙します。

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置においては、小田原征伐に参陣したことで本領二十四万石を安堵され、関ヶ原の戦いの契機となった家康による上杉氏征伐での論功により、庄内郡などが所領に加わり五十七万石の太守となります。

 文禄四年(1595)、豊臣秀次切腹の際に、愛娘の駒姫が秀次の側室であったために、駒姫は京都三条河原で16歳で処刑され、義光自身も謹慎となりましたが、義光夫妻の悲嘆は激しく、後の関ヶ原の戦いで東軍についたのも、この件が一因であるとされています。その後、義光は専称寺などの寺院を建立して駒姫を供養しています。

 山形城は、東北地方では有数の広大な城郭をもっていました。それが義光の時代、所領増加に伴い拡張されたことは間違いありませんが、最上氏改易のために具体的な堀普請の過程を知る記録ぱ残されていないらしく、その時期や規模などは明らかではありません。

 義光の死後、最上家では家督をめぐっての抗争が絶えず、義光の後を継いだ家親は元和三年(1617)に謎の急死を遂げ、義光の孫・最上義俊が後を継ぎますが、最上家中はまとまらず、結局、最上家は家中不届きであるとして、義光の死からわずか9年後に改易となってしまいます。

 最上氏改易により旧領は四分割され、庄内地方の酒井氏庄内藩(鶴岡藩)の14万石、最上地方の戸沢氏新庄藩の6万石、村上地方南部に能見松平氏の上山藩4万石、そして山形には鳥居忠政が24万石で福島平から転封されてきます。

 最上氏以降の譜代大名による藩主交代は12家とめまぐるしく、またその石高は下がる一方でした。広大な山形城郭を維持することが難しくなり、石高が十万石を切った江戸中期以降は、藩主すら本丸を捨てて、二の丸大手門前に居住するようになります。

 鳥居忠政が入部した後は、寛永十三年(1636)には長野高遠から保科正之が20万石、寛永二十一年(1644)福井大野から松平直基が15万石、その40年後には堀田氏が10万石で、さらに60年後には松平氏が6万石で、最後の藩主水野氏は静岡浜松から5万石で入部します。

 このように、山形藩は譜代大名の「左遷の地」のような状況だったようです。


 明治維新後、荒廃した本丸と二の丸は、山形県の所有となり、三の丸とともに旧士族及び民間に払い下げられましたが、その後、本丸、二の丸は山形市が買収します。
 明治29年、山形市はこれを陸軍に寄付して歩兵第32連隊を誘致し、本丸と二の丸の跡地は連隊司令部、その南の三の丸跡の一部は錬兵場となりました。明治期の地形図にはその頃の様子が描かれています。

 明治34年、福島から米沢を通り山形まで奥羽線が開設されますが、路線は三の丸を縦断し、錬兵場に隣接して山形駅が設置されます。
 明治期に敷設された鉄道は、旧城下町の外延部を通っていることが多く、城郭内を貫通して、内堀の端に駅が設置されることは珍しいようです。
 前述したとおり、広大な三の丸は五万石の藩には使い切れなかったため、明治期には荒廃していたようですし、連隊司令部の誘致には鉄道駅の設置が必要不可欠だったのかも知れません。
 いずれにしても、鉄道により旧城下町は分断されることになりました。

 江戸期から明治期にかけて、山形の主要産業の一つに紅花がありました。
 当時、赤い染料はほとんどなく、口紅や着物染めの原料となる紅花は珍重されていました。東北各地で栽培されてはいたものの、とりわけ村山地方の紅花(最上紅花)は品質が良いうえに生産量も豊富で、全国的に知られた産地でした。紅花は最上川の舟運と日本海西廻りの海運に乗り、その多くが遠く京、大坂へと渡りました。

 東北地方で明治22年の市制施行時に市となったのは、弘前、盛岡、仙台、会津、米沢と山形の6都市でした。山形県では、米沢市が現在人口10万人にも満たないにもかかわらず、特に目立った産業も見当たらない山形市が人口25万人にまでなっているのは、ここに県庁が置かれたためだとおもいます。

 


 

町の立地条件と構造


 山形県は最上川の流域がそのまま県域になったもので、北は鳥海山を隔てて秋田平野、東には急峻な奥羽山脈を控え、南には吾妻連峰により会津盆地喜多方と接し、朝日岳を中心とする朝日山系により下越地方とも接してます。




 山形の県域は上流から河口まで、大きく4つの地域に分かれます。

 米沢を中心とする「置賜(おきたま)地方」は、最上川上流域の米沢盆地で、「村山地方」は蔵王連峰の西麓にあり、その南寄りに位置する山形を中心として最上川の支流須川の流れる盆地にあります。最上川中流域にあたる「最上地方」は、戸沢氏の城下町 新庄を中心としており、北流してきた最上川はここから月山を巻きこむようにして流れて日本海に向かいます。
 最上川の河口にあたる「庄内地方」は、酒井氏14万石の城下町 鶴岡を中心としますが、最上川河口にある酒田は、北前船と最上川舟運の結ぶ湊町になり、水運の拠点として栄えてきました。


 山形の町は盆地の南東部、蔵王北麓を源流とする馬見ヶ崎川が盆地に流れでた扇状地に位置します。




 現在の市街地は、地形に沿うように扇状に広がっていますが、かつての城下町はその真ん中に位置し、奥羽街道は山形城を避けるように鉤型にまがり、城下町を南北に貫通していました。

 馬見ヶ崎川が、盃山の麓で不自然に曲がっています。
 元々、馬見ヶ崎川は盃山の麓(現山形大橋付近)から郷土館文翔館(旧県庁)のあたりを流れていましたが、最上氏移封後に入部した鳥居忠政により付け替え工事が行われ、盃山の麓が削られ、流路を大きく北に振り現在の河道となりました。

 今でも、盃山の麓には削られた山肌が確認できますし、旧河道は江戸期を通して八ヶ郷堰として利用され、現在でもそこには水路が流れています。



削られた盃山の斜面と馬見ヶ崎川


左:駅前の山形テルサからみる馬見ヶ崎川扇央部  右:かつての八ヶ郷堰の名残り



 馬見崎川の堤防は山形市内の桜の名所として有名で、山水画のような標高470mほどの小高い千歳山の麓を広い川幅でゆったりと流れ、緩やかにカーブする川岸に見事な桜並木が並んでいます。


 山形市内の桜の名所は、この馬見崎川堤防敷と、いまひとつが、かつての山形城の本丸と二の丸にあたる霞城公園です。

 山形は最上氏五十七万石の藩都として、それに見合った規模の城下町が築城されたものの、その後の歴代藩主の石高は次々と低くなり、幕末期の水野忠弘は五万石で維新を迎えたことは既に述べました。
 そのため、山形は、石高や家臣数などの藩勢に比べて、城下町が広いという特徴をもっていました。




 かつての城下町絵図をみると、城郭は、本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ土塁と堀に囲まれた同心円の三重構造になっていましたが、現在では、二の丸の土塁と堀が残るのみで、本丸と三の丸のそれは埋め立てられて残っていません。

 三の丸の東で扇状地の標高の高いほうに町屋地区がおかれ、奥羽街道が屈曲しながら南北に抜けていました。また、寺町はその東の外延部に配置されていました。
 扇状地の川下、平野部からの攻撃の備えるよう、城郭の西側に町屋と寺町を配するのが一般的な考え方のように思えますが、東の山方向への構えになっています。
 仙台の伊達氏への備えを重視した配置だったのかもしれません


 東北の春は遅く、まちあるきした4月の中旬でも、約2000本あるといわれる霞城の桜は、五分から七分咲きといったところでした。
 旧二の丸の堀端にも多くの桜が花を咲かせていましたが、石垣ではなく土塁の堀は、それだけで柔らかく、桜があることで、よりやさしい印象を与えます。



左:旧二の丸堀沿いを走る山形新幹線  中右:旧二の丸の土塁



 久保田城(秋田)も会津若松城も、山形城と同じく石垣は少なく土塁により城郭が構築されています。部分的にみられる石垣は、馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用いた割り肌を表面に見せる野面積みですが、瀬戸内の石切り場から良質で大型の御影石をもってこれた西日本とは違い、大きな石が取れなかったのかもしれません。

 かつての二の丸には大手門が4ヶ所ありましたが、東大手門は山形城の正門にあたり、明治初期の写真を頼りに平成3年に再建されたものです。



復元された旧二の丸東大手門と土塁、そして山形新幹線の線路



 現在、山形城では本丸の復元工事が行われています。
 明治期、陸軍により埋め立てられた本丸の堀が再び掘り込まれ、本丸の主門である一文字門にそびえていた石垣が積まれ、石垣上にあった櫓も再建されるといいます。
 工事は始まったばかりですが、その完成が楽しみです。



復元工事の進む山形城本丸の堀と一文字門



 かつての三の丸は、南北2km、東西1.5kmにわたる広大なもので、堀の延長は6.5km、三の丸の面積は230haもあったといいます。
 明治期の地形図を見ると、三の丸の堀跡がかすかに残っているのが分かるので、市街化の進展に伴い、徐々に埋め立てられていったのだと思われます。

 三の丸の土塁の残存は、現在でも市街地に点在しています。
 中でも、山形駅の東、十日町の歌懸稲荷神社の隣にある土塁と堀は、築城当時からのものといわれており、駅前の繁華街の裏に、堂々とした木立を残しながら凛とした威容を見せてくれます。



左:歌懸稲荷神社の隣に残る土塁跡  右:幸町にひっそりと残るかつての土塁跡



 かつての奥羽街道沿いの本町と十日町には、蔵屋敷や蔵店が数多く残されています。

 江戸期から明治期にかけて、山形の主要産物に染料に使われた紅花があり、村山地方は全国的に知られた産地だったことは既に述べましたが、その紅花商人たちが残したのが、町中に点在している土蔵造りの商家です。
 これらは京や大坂の影響で建てられた蔵座敷や店蔵で、紅色の瓦をのせた2階建てですが、総2階ではなく1階とは別の棟をのせているため、屋敷のような印象を与えます。



本町と十日町に残る土蔵造りの商家



 ただし、太平洋戦争中に空襲の災禍をうけなかったにしては、蔵の商家が軒を並べるほどの町並みが残されていません。
 前述したように、山形駅が旧城下町の中心部におかれ、県庁所在都市にもなったため、市街地のスクラップ&ビルドが促され、旧商家の建て替え、改修が盛んに行われたためだと思います。



かつての奥羽街道沿いには土蔵が散在してる



 山形の寺町は、主に城下町の東側に散在していますが、中でも規模が大きく、ある意味での門前町を形成していたのが専称寺の周辺です。
 秀次切腹に連座させられた最上義光娘の駒姫の菩提寺として有名ですが、壮大な本堂と境内の銀杏の老木の立派さには目を瞠ります。
 境内には馬見ヶ崎川から分水した御殿堰が流れており、江戸期にはこれが三の丸大手の七日町口から二の丸の東大手門を樋で渡り、本丸御殿まで用水を供給していたといいます。



左:専称寺周辺の寺町  中:専称寺本堂  右:専称寺境内に今も流れる御殿堰

 


 

まちなみ ブックマーク

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山形県郷土館 (愛称:文翔館)


 大正5年に建てられた、山形県の旧県庁舎と旧県会議事堂です。
 右の旧県庁舎は、煉瓦造りの3階建てで外廻りの壁面は石貼りで覆われ、昭和50年代まで県庁として使用されていました。
 どちらも非常に立派で、英国ルネサンス様式を基調とした建物ということですが、一見の価値のある名建築だと思います。
十日町にある土蔵造りの商家


 紅色の瓦を載せ、城郭のような、御殿のような蔵造りですが、軒と棟がスマートで、土蔵にしては軽快な印象を与えています。

 ただし、個人的にはあまり趣味ではない・・・

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.4


参考資料

@「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「山形」
A1/50,000地形図「山形」平成4年修正
B1/50,000地形図「山形」明治36年測図


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