山形 −蔵王山麓の扇状地に広がる県庁所在地−
出羽の太守 最上義光は広大な城郭を 蔵王山麓の扇状地に残した |
町の特徴
山形の町は、江戸初期の出羽の太守 最上氏五十七万石の藩都を始まりとして、戦災を受けることなく現在に至っていますが、明治期においては、かつての城内は陸軍司令部として大きく改変され、駅は城下町の中心におかれて鉄道が町を貫通し、県庁がおかれて官公庁や教育施設が立地して、かつての城下町は県下一の都市となりました。 |
左:霞城公園(旧山形城二の丸)の堀と線路 右:旧奥羽街道沿いに残る土蔵造りの商家 |
100年前の山形 現在の地形図と100年前(明治36年)の地形図を見比べてみます。 山形の町は、蔵王連峰を源流とする馬見ヶ崎川の扇状地に造られましたが、明治期の地形図では、扇状地に町屋がコの字の形で市街地を形成していました。 コの内側はかつての武家屋敷ですが、明治期には陸軍練兵場と疎らな市街地、そして桑畑になっていたようです。 現在、市街地は旧城下町の四方に均等に広がっていますが、概ね扇状の形をしているのが分かります。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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町の歴史
「山形」の地名は、古代の「山方郷」に由来するとされ、南北朝期、出羽探題として派遣された斯波兼頼が、蔵王山麓から流れる馬見ケ崎川の扇状地に築城したのが、山形の町の始まりといわれています。 |
町の立地条件と構造 山形県は最上川の流域がそのまま県域になったもので、北は鳥海山を隔てて秋田平野、東には急峻な奥羽山脈を控え、南には吾妻連峰により会津盆地喜多方と接し、朝日岳を中心とする朝日山系により下越地方とも接してます。 山形の県域は上流から河口まで、大きく4つの地域に分かれます。 米沢を中心とする「置賜(おきたま)地方」は、最上川上流域の米沢盆地で、「村山地方」は蔵王連峰の西麓にあり、その南寄りに位置する山形を中心として最上川の支流須川の流れる盆地にあります。最上川中流域にあたる「最上地方」は、戸沢氏の城下町 新庄を中心としており、北流してきた最上川はここから月山を巻きこむようにして流れて日本海に向かいます。 最上川の河口にあたる「庄内地方」は、酒井氏14万石の城下町 鶴岡を中心としますが、最上川河口にある酒田は、北前船と最上川舟運の結ぶ湊町になり、水運の拠点として栄えてきました。 山形の町は盆地の南東部、蔵王北麓を源流とする馬見ヶ崎川が盆地に流れでた扇状地に位置します。 現在の市街地は、地形に沿うように扇状に広がっていますが、かつての城下町はその真ん中に位置し、奥羽街道は山形城を避けるように鉤型にまがり、城下町を南北に貫通していました。 馬見ヶ崎川が、盃山の麓で不自然に曲がっています。 元々、馬見ヶ崎川は盃山の麓(現山形大橋付近)から郷土館文翔館(旧県庁)のあたりを流れていましたが、最上氏移封後に入部した鳥居忠政により付け替え工事が行われ、盃山の麓が削られ、流路を大きく北に振り現在の河道となりました。 今でも、盃山の麓には削られた山肌が確認できますし、旧河道は江戸期を通して八ヶ郷堰として利用され、現在でもそこには水路が流れています。
馬見崎川の堤防は山形市内の桜の名所として有名で、山水画のような標高470mほどの小高い千歳山の麓を広い川幅でゆったりと流れ、緩やかにカーブする川岸に見事な桜並木が並んでいます。 山形市内の桜の名所は、この馬見崎川堤防敷と、いまひとつが、かつての山形城の本丸と二の丸にあたる霞城公園です。 山形は最上氏五十七万石の藩都として、それに見合った規模の城下町が築城されたものの、その後の歴代藩主の石高は次々と低くなり、幕末期の水野忠弘は五万石で維新を迎えたことは既に述べました。 そのため、山形は、石高や家臣数などの藩勢に比べて、城下町が広いという特徴をもっていました。 かつての城下町絵図をみると、城郭は、本丸、二の丸、三の丸がそれぞれ土塁と堀に囲まれた同心円の三重構造になっていましたが、現在では、二の丸の土塁と堀が残るのみで、本丸と三の丸のそれは埋め立てられて残っていません。 三の丸の東で扇状地の標高の高いほうに町屋地区がおかれ、奥羽街道が屈曲しながら南北に抜けていました。また、寺町はその東の外延部に配置されていました。 扇状地の川下、平野部からの攻撃の備えるよう、城郭の西側に町屋と寺町を配するのが一般的な考え方のように思えますが、東の山方向への構えになっています。 仙台の伊達氏への備えを重視した配置だったのかもしれません 東北の春は遅く、まちあるきした4月の中旬でも、約2000本あるといわれる霞城の桜は、五分から七分咲きといったところでした。 旧二の丸の堀端にも多くの桜が花を咲かせていましたが、石垣ではなく土塁の堀は、それだけで柔らかく、桜があることで、よりやさしい印象を与えます。
久保田城(秋田)も会津若松城も、山形城と同じく石垣は少なく土塁により城郭が構築されています。部分的にみられる石垣は、馬見ヶ崎川の玉石(安山岩)を用いた割り肌を表面に見せる野面積みですが、瀬戸内の石切り場から良質で大型の御影石をもってこれた西日本とは違い、大きな石が取れなかったのかもしれません。 かつての二の丸には大手門が4ヶ所ありましたが、東大手門は山形城の正門にあたり、明治初期の写真を頼りに平成3年に再建されたものです。
現在、山形城では本丸の復元工事が行われています。 明治期、陸軍により埋め立てられた本丸の堀が再び掘り込まれ、本丸の主門である一文字門にそびえていた石垣が積まれ、石垣上にあった櫓も再建されるといいます。 工事は始まったばかりですが、その完成が楽しみです。
かつての三の丸は、南北2km、東西1.5kmにわたる広大なもので、堀の延長は6.5km、三の丸の面積は230haもあったといいます。 明治期の地形図を見ると、三の丸の堀跡がかすかに残っているのが分かるので、市街化の進展に伴い、徐々に埋め立てられていったのだと思われます。 三の丸の土塁の残存は、現在でも市街地に点在しています。 中でも、山形駅の東、十日町の歌懸稲荷神社の隣にある土塁と堀は、築城当時からのものといわれており、駅前の繁華街の裏に、堂々とした木立を残しながら凛とした威容を見せてくれます。
かつての奥羽街道沿いの本町と十日町には、蔵屋敷や蔵店が数多く残されています。 江戸期から明治期にかけて、山形の主要産物に染料に使われた紅花があり、村山地方は全国的に知られた産地だったことは既に述べましたが、その紅花商人たちが残したのが、町中に点在している土蔵造りの商家です。 これらは京や大坂の影響で建てられた蔵座敷や店蔵で、紅色の瓦をのせた2階建てですが、総2階ではなく1階とは別の棟をのせているため、屋敷のような印象を与えます。
ただし、太平洋戦争中に空襲の災禍をうけなかったにしては、蔵の商家が軒を並べるほどの町並みが残されていません。 前述したように、山形駅が旧城下町の中心部におかれ、県庁所在都市にもなったため、市街地のスクラップ&ビルドが促され、旧商家の建て替え、改修が盛んに行われたためだと思います。
山形の寺町は、主に城下町の東側に散在していますが、中でも規模が大きく、ある意味での門前町を形成していたのが専称寺の周辺です。 秀次切腹に連座させられた最上義光娘の駒姫の菩提寺として有名ですが、壮大な本堂と境内の銀杏の老木の立派さには目を瞠ります。 境内には馬見ヶ崎川から分水した御殿堰が流れており、江戸期にはこれが三の丸大手の七日町口から二の丸の東大手門を樋で渡り、本丸御殿まで用水を供給していたといいます。
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山形県郷土館 (愛称:文翔館) 大正5年に建てられた、山形県の旧県庁舎と旧県会議事堂です。 右の旧県庁舎は、煉瓦造りの3階建てで外廻りの壁面は石貼りで覆われ、昭和50年代まで県庁として使用されていました。 どちらも非常に立派で、英国ルネサンス様式を基調とした建物ということですが、一見の価値のある名建築だと思います。 |
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十日町にある土蔵造りの商家 紅色の瓦を載せ、城郭のような、御殿のような蔵造りですが、軒と棟がスマートで、土蔵にしては軽快な印象を与えています。 ただし、個人的にはあまり趣味ではない・・・ |
まちあるき データ
まちあるき日 2007.4 参考資料 @「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス「山形」 A1/50,000地形図「山形」平成4年修正 B1/50,000地形図「山形」明治36年測図
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