宇和島
四国の終着駅 陸の孤島 伊達藩十万石の城下町
宇和島のまちあるき
宇和島は、四国の「終着駅」「最果ての地」などといわれています。南伊予の険しい山々を抜けて辿り着く終着駅には、南国の強い日差しと狭い平野部に広がる小ぶりな城下町がありました。 |
地図で見る 100年前の宇和島 明治大正期の地形図が入手できなかったので今回はお休みです。 |
宇和島の歴史
宇和島城は、古くは板島と呼ばれ、かつては海岸線に沿った島であったといいます。 |
宇和島の立地条件と町の構造 いくつものトンネルを潜り、いくつもの切り通しを抜けて、JR予讃線の特急「宇和海」は、南伊予の険しい山間を縫うように走り、松山から1時間20分で終着駅・宇和島に着きます。 駅前広場に立つと、眼前に迫る南予の山容と闘牛の彫像が迎えてくれました。10月も終わりだというのに、汗ばむほどの力のある日差しと天まで届くほどのパームツリーが、この地が南国であることを実感させてくれます。
観光パンフレットには、宇和島は、四国の「終着駅」、「最果ての地」などと書かれています。 高松(讃岐)から松山を通り宇和島に至る予讃線と、高知県(土佐)窪川からくる土讃線、両路線の終着駅であるためこう呼ばれているようです。 宇和島城本丸跡から遠くに望む深く入り込んだ宇和島湾と特急の車窓から見えた南予の険しい山々は、ここが正に「陸の孤島」なのだということを思い知らせてくれます。 江戸初期、伊達秀宗が、仙台から遥か遠い南伊予の地を与えられ、陸路海路の長旅の末に宇和島湾に入り、その奥にある猫の額ほどの平地しかない宇和島に上陸した時、彼の胸中はどのようだったのか想像に難しくありません。
市街地の中心部、標高80m余りの独立丘陵地に宇和島城はあります。 この城山は、かつて板島とよばれ、伊達秀宗の入封時には麓まで海が迫っていた陸繋島だったことは既に述べました。 いまでも、麓に沿って周囲を巡る道路からは、緑の木々で覆われた、そそり立つような急斜面を仰ぎ見ることができます。 現在の地形図上に、元禄期の城下町絵図をもとに江戸期の町割りを重ねてみたのが下の地図です。 宇和島城(城山)の周囲には海水を引き込んだ内堀が回り、南に武家屋敷地、東に町屋町が配されて、それを挟むように辰野川と神田川が天然の外堀の役目を果たしていました。 そして、二河川の上流域に宇和津彦神社を中心とした寺町が形成されて、山側からの守りとしていました。 城の西側はすべて宇和島湾で、現在、市役所や宇和島道路のある場所は、江戸期以降の埋立て地にあたります。 かつて板島とよばれた城山は、その名前の如く、江戸期以前は宇和島湾に浮かぶ島であり、城下町は辰野川と神田川の運んできた堆積土砂の上に形成されたのでした。 城山(板島)にある宇和島城は、全国に12ある現存天守のひとつですが、今でも車で入ることはできず、入口の桑折長屋門や上り立ち門から徒歩でしか登城できません。 桑折長屋門は、かつての大手門に位置し、中央町にあった旧家老桑折家の長屋門を移築したものですが、とても窮屈な場所に置かれていて、可哀想に思えてきます。長屋門には、周囲を睥睨するように、どっしりとした構を見せてほしいものです。
登城路には苔むした石段や石垣が続きます。 石垣の荒々しさを苔の柔らかな緑が包み込み、築城から400年、堆積した時間は、無骨な岩を優しい石に変えてくれたようです。 急な石段をあえぎながら登ると、やがて天守が見えてきます。 山頂の本丸跡からは、市街地を眼下にして遠くは宇和島湾までが見渡せます。 周囲の市街地を見下ろして、苔むした石垣の上に佇み、ただ一人超然としている天守の姿は、「天空の城」と表現しても過言ではありません。
城山は平面的には五角形をしています。 これは藤堂高虎の縄張りといわれ、五角形は侵入してきた敵を欺くためといわれていますが、周囲の市街地も、この五角形に合わせて町割りがなされています。 城山の南側がかつての武家屋敷地です。 京町付近には、今も大きな屋敷地が数多く残されています。野面積みの石垣と刈り込まれた生垣が並び、立派な屋敷門も数多く見られ、かつての武家屋敷の名残が随所に見られる場所です。
城山東側の辰野川に挟まれた地域で、現在の中央町や新町がかつての町屋町にあたります。 その中心は、現在「きさいやロード」とよばれる天蓋付きの商店街で、江戸期は海岸沿いの道路でした。 いまでも宇和島の商業中心地として賑わっているようです。
宇和島は、戦時中に幾度もの空襲を受けたため、古い町屋はほとんど残っていませんが、江戸期以降に埋め立てられた寿町や枡形町には、縦目板張りの家屋が目につきます。 土壁や漆喰壁ではなく、湊の町に多い板張り外壁が、この地域の家屋の代表的な外壁だったのかもしれません。
辰野川は、寺町と武家屋敷地を北流して錦町で直角に流れを変え、城山の北側を通り海に注いでいます。 宇和島城下の外堀の役割りを担っていたようですが、この河道は城下町建設時に現在の場所に付け替えられたのだと思います。 辰野川畔の山際はかつての寺町で、現在でも数多くの寺院が伽藍を広げています。 数ある寺社の中で最も古いものが宇和津彦神社です。 延暦十一年(792)の創建と伝えられる古社で、宇和島城下の総鎮守として初代藩主秀宗が城下町建設時に再建しました。 この他に、枯山水の西江寺や選仏寺、伊達家の菩提寺である等覚寺、伊達家の廟所がある大隆寺、大超寺などが河畔に建ち並んでいます。
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まちあるき データ
まちあるき日 2007.10 参考資料 @「歴史発見の旅 四国の城と城下町」 使用地図
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