宇和島


四国の終着駅  陸の孤島  伊達藩十万石の城下町




 

 


 

宇和島のまちあるき


宇和島は、四国の「終着駅」「最果ての地」などといわれています。南伊予の険しい山々を抜けて辿り着く終着駅には、南国の強い日差しと狭い平野部に広がる小ぶりな城下町がありました。

宇和島市街地は、三層の現存天守を頂く城山を中心に広がっています。
戦災により古い町並みはほとんど残されていませんが、町は静かで落ち着いた佇まいを見せ、城山は苔むした柔らかな石垣がゆっくりと時を刻んでいました。

 


 

地図で見る 100年前の宇和島



明治大正期の地形図が入手できなかったので今回はお休みです。

 


 

宇和島の歴史


宇和島城は、古くは板島と呼ばれ、かつては海岸線に沿った島であったといいます。

その板島に築かれた宇和島城の始まりは判然としないようですが、天慶四年(941)、藤原純友を追討した橘遠保がその功により宇和郡を領したとの記録が残され、いまも天然の良港を有していることから、平安時代には既に海賊の基地のひとつであったと推測されています。

鎌倉前期、この地方は西園寺公経の所領となり、室町末期には西園寺配下の武将家藤監物が板島丸串城に移り城主となったと記録されています。

秀吉による四国平定の後の天正十三年(1585)、小早川隆景が伊予国二十四万石を与えられると板島城はその支城となり、その2年後には大洲城主戸田勝隆の支城となり、板島丸串城には城代が置かれていました。

豊臣秀吉の四国平定の後は、小早川氏、戸田氏と城主が代わり、文禄四年(1595)、藤堂高虎が七万石の領主として入封します。

現在の地に天守が完成したのは慶長6年(1601)で、藤堂高虎が南予に入封してから約6年の歳月をかけ築城したものです。

高虎は入封後に板島を宇和島と改称しますが、高虎は板島の地形を利用して奇抜な縄張りを計画します。
板島の山頂に天守を抱く平山城として、その山麓を五角形に切り取り海と内堀で囲み構えとしたのです。
これが、現在の宇和島城を中心にすえた市街地形状に大きな影響を及ぼします。

慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで東軍についた高虎は加増されて二十万石の大大名となります。
新たな居城として東伊予の今治の地に築城を始め、慶長十三年に今治城が完成するや高虎はそこを本拠として移り住みますが、この年高虎は伊勢国の津二十万石に転封となります。

宇和島には、代わって富田信高が十万石で入部します5年後には改易となり、慶長十九年(1614)、伊達政宗の長男秀宗が宇和島十万石に封じられ、以降、伊達家九代の藩主が維新までつづきます。

秀宗の母親は正宗の正室でなかったため、仙台の本家を継げなかったのですが、大坂冬の陣の戦功として、新たに宇和島十万石の大名に封ぜられたのでした。

当時、宇和島の地はまさしく「陸の孤島」でした。
伊達秀宗の一行が始めて宇和島の地に入ったとき、摂津(大阪府)の湊から船出し、海路で瀬戸内を通り豊後水道を抜けて、板島北側の大浦の浜に上陸したといいます。

江戸初期、城山(板島)の西側はすべて海でした。
現在の朝日町、寿町、築地町、そして枡形町、明倫町なども江戸期以降の埋立地で、伊達秀宗が入部した時には、麓まで海が迫っていた板島は陸繋島でした。
しかも、これを陸から分断するように堀を回し、「陸の孤島」宇和島の中でも、城山は宇和島の中でも孤島だったのです。

宇和島の八代藩主伊達宗城は、殖産興業を中心とした藩政改革を行い、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施するとともに、幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手しました。

宗城は、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、幕末の四賢侯と称され、幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えます。

しかし、宗城も公武合体論から最後まで脱却できず、鳥羽伏見の戦いに及んでも中立をとったので、藩としては新政府の主流に属すことはできませんでした。

「陸の孤島」宇和島が松山や本州と鉄道で結ばれるのは、昭和20年の国鉄予讃線の開通を待たなければなりませんでした。
この年の5月から8月にかけて、断続的に9回もの空襲が宇和島を襲います。特に7月28日の空襲は大規模なもので、3900世帯、13500人が罹災し、市街地の大半を焼失してしまいました。

昭和49年、宇和島と土佐高知を結ぶ国鉄予土線が全線開通し、大正期に3万人だった宇和島市の人口は、昭和55年に7.1万人を越えますが、それからは減少をつづけています。
平成の大合併により、旧北宇和郡の3町と合併して新「宇和島市」が発足、人口は9万人を超えて南予地方の中核都市となりました。
リアス式海岸を生かした養殖水産業(真珠、ハマチなどの魚類)が盛んではありますが、産業経済面では芳しくなく、人口流出が止まりません。「観光立国」掲げる市政の今後が期待されます。

 


 

宇和島の立地条件と町の構造



いくつものトンネルを潜り、いくつもの切り通しを抜けて、JR予讃線の特急「宇和海」は、南伊予の険しい山間を縫うように走り、松山から1時間20分で終着駅・宇和島に着きます。



駅前広場に立つと、眼前に迫る南予の山容と闘牛の彫像が迎えてくれました。10月も終わりだというのに、汗ばむほどの力のある日差しと天まで届くほどのパームツリーが、この地が南国であることを実感させてくれます。


右:宇和島駅と闘牛像  左:駅前広場に迫る急峻な南伊予の山々


観光パンフレットには、宇和島は、四国の「終着駅」、「最果ての地」などと書かれています。
高松(讃岐)から松山を通り宇和島に至る予讃線と、高知県(土佐)窪川からくる土讃線、両路線の終着駅であるためこう呼ばれているようです。

宇和島城本丸跡から遠くに望む深く入り込んだ宇和島湾と特急の車窓から見えた南予の険しい山々は、ここが正に「陸の孤島」なのだということを思い知らせてくれます。

江戸初期、伊達秀宗が、仙台から遥か遠い南伊予の地を与えられ、陸路海路の長旅の末に宇和島湾に入り、その奥にある猫の額ほどの平地しかない宇和島に上陸した時、彼の胸中はどのようだったのか想像に難しくありません。


天守からみる宇和島湾  伊達秀宗はここから宇和島に入った


天守から東の山々をみる  江戸期の宇和島の平野部はこの広さしかなかった


市街地の中心部、標高80m余りの独立丘陵地に宇和島城はあります。
この城山は、かつて板島とよばれ、伊達秀宗の入封時には麓まで海が迫っていた陸繋島だったことは既に述べました。
いまでも、麓に沿って周囲を巡る道路からは、緑の木々で覆われた、そそり立つような急斜面を仰ぎ見ることができます。

現在の地形図上に、元禄期の城下町絵図をもとに江戸期の町割りを重ねてみたのが下の地図です。



宇和島城(城山)の周囲には海水を引き込んだ内堀が回り、南に武家屋敷地、東に町屋町が配されて、それを挟むように辰野川と神田川が天然の外堀の役目を果たしていました。
そして、二河川の上流域に宇和津彦神社を中心とした寺町が形成されて、山側からの守りとしていました。

城の西側はすべて宇和島湾で、現在、市役所や宇和島道路のある場所は、江戸期以降の埋立て地にあたります。
かつて板島とよばれた城山は、その名前の如く、江戸期以前は宇和島湾に浮かぶ島であり、城下町は辰野川と神田川の運んできた堆積土砂の上に形成されたのでした。

城山(板島)にある宇和島城は、全国に12ある現存天守のひとつですが、今でも車で入ることはできず、入口の桑折長屋門や上り立ち門から徒歩でしか登城できません。

桑折長屋門は、かつての大手門に位置し、中央町にあった旧家老桑折家の長屋門を移築したものですが、とても窮屈な場所に置かれていて、可哀想に思えてきます。長屋門には、周囲を睥睨するように、どっしりとした構を見せてほしいものです。


窮屈な場所にある旧桑折家長屋門


搦め手門にある上り立ち門  その背後が城山


登城路には苔むした石段や石垣が続きます。
石垣の荒々しさを苔の柔らかな緑が包み込み、築城から400年、堆積した時間は、無骨な岩を優しい石に変えてくれたようです。

急な石段をあえぎながら登ると、やがて天守が見えてきます。
山頂の本丸跡からは、市街地を眼下にして遠くは宇和島湾までが見渡せます。
周囲の市街地を見下ろして、苔むした石垣の上に佇み、ただ一人超然としている天守の姿は、「天空の城」と表現しても過言ではありません。





苔むした石垣と石段


城山は平面的には五角形をしています。
これは藤堂高虎の縄張りといわれ、五角形は侵入してきた敵を欺くためといわれていますが、周囲の市街地も、この五角形に合わせて町割りがなされています。

城山の南側がかつての武家屋敷地です。
京町付近には、今も大きな屋敷地が数多く残されています。野面積みの石垣と刈り込まれた生垣が並び、立派な屋敷門も数多く見られ、かつての武家屋敷の名残が随所に見られる場所です。


旧武家屋敷地の京町周辺の町並み


城山東側の辰野川に挟まれた地域で、現在の中央町や新町がかつての町屋町にあたります。
その中心は、現在「きさいやロード」とよばれる天蓋付きの商店街で、江戸期は海岸沿いの道路でした。
いまでも宇和島の商業中心地として賑わっているようです。


左:木屋旅館(明治44年築)  中:商店街「きさいやロード」  右:商店街は辰野川を跨いでいる


宇和島は、戦時中に幾度もの空襲を受けたため、古い町屋はほとんど残っていませんが、江戸期以降に埋め立てられた寿町や枡形町には、縦目板張りの家屋が目につきます。
土壁や漆喰壁ではなく、湊の町に多い板張り外壁が、この地域の家屋の代表的な外壁だったのかもしれません。


町中に目立つ縦目板張り外壁の家屋


辰野川は、寺町と武家屋敷地を北流して錦町で直角に流れを変え、城山の北側を通り海に注いでいます。
宇和島城下の外堀の役割りを担っていたようですが、この河道は城下町建設時に現在の場所に付け替えられたのだと思います。

辰野川畔の山際はかつての寺町で、現在でも数多くの寺院が伽藍を広げています。
数ある寺社の中で最も古いものが宇和津彦神社です。
延暦十一年(792)の創建と伝えられる古社で、宇和島城下の総鎮守として初代藩主秀宗が城下町建設時に再建しました。
この他に、枯山水の西江寺や選仏寺、伊達家の菩提寺である等覚寺、伊達家の廟所がある大隆寺、大超寺などが河畔に建ち並んでいます。


竜崋山等覚寺の山門と寺町


辰野川の緑と寺町

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.10


参考資料

@「歴史発見の旅  四国の城と城下町」

使用地図


ホームにもどる