< 宇治

宇 治


京への交通の要所  数々の戦乱の舞台
宇治川の清流が創りだした 平等院と御茶師の町




 

 


 

宇治のまちあるき


平等院 と 宇治茶

宇治の名を世に知らしめた2つの観光資源は、宇治の町の歴史を語る上での最も重要なキーワードでもあります。

平安貴族たちの別荘地であった宇治の地に、平等院鳳凰堂が建立されたのは末法の世といわれた平安後期でした。
大和から京への街道が渡河するこの地は、京の覇権を巡る戦乱の地となりましたが、平等院が数多の戦を潜り抜けて現存していることはまさに奇跡といえ、千年にわたる宇治の歴史の生き証人でもあります。

また、鎌倉時代に栽培が始まった宇治茶の歴史は、日本の喫茶の歴史そのものであり、室町時代以降の宇治茶の隆盛は、宇治の町の歴史そのものでもありました。
川霧が立ち込み冷涼で霜の少ない気候が薫り高い茶葉を生み出したとされ、かつて宇治周辺の丘陵には茶畑が広がっていました。

宇治の源は宇治川にあり、宇治橋から眺める清流は、宇治の歴史風景そのものなのです。




宇治橋から望む宇治川の清流

 


 

地図で見る 100年前の宇治


現在の地形図と約100年前(明治42年)の地形図を見比べてみます。

明治期の地形図をみると、宇治川左岸の奈良街道を中心に町並みが形成され、その北側を沿うようにJR奈良線が敷設されたことが分かります。

この、宇治橋、JR宇治駅、平等院に囲まれた三角形の範囲が、かつての宇治茶の御茶師屋敷が集積していた地域です。大正初期に開設された京阪宇治線はまだありませんが、奈良鉄道(現 JR奈良線)と奈良街道(現 府道京都宇治線)がくっきりと表現されています。

現在の地形図では、宇治駅の北側にユニチカ宇治工場が大きな面積を占め、沿線には住宅地が大きく広がり、宇治が京都のベッドタウンになっていることが分かります。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

宇治の歴史


古来より、宇治は畿内の交通の要衝に位置していました。
陸路では大和国と山城国を結ぶ奈良街道が通り、水運としては宇治津が近江国と大和国木津や山城国を結ぶ拠点として機能してきました。

京都盆地に平安京が定められると、宇治はその風光明媚さに魅せられた貴族たちが別荘を設け、「源氏物語 宇治十帖」に代表される王朝文化の舞台として嵯峨野(嵐山)と競い合うことになります。

現在、世界遺産に登録されている平等院鳳凰堂は、平安初期、に光源氏のモデルといわれる左大臣 源融が営んだ別荘を起源とし、平安後期に藤原道長の別荘となった宇治殿を、その子の頼通が永承七年(1052)に仏寺に改め、翌年に建立した阿弥陀堂が現存しているものです。

頼道から寄進された数多の荘園により支えられ、鎌倉期には藤原氏の氏寺として宇治一帯に壮大な伽藍を広げますが、古来からの交通の要衝にある宇治は、京の都を巡る幾多の歴史に残る戦場ともなります。

平安末期の源平の争乱においては、源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、頼政は平等院境内の扇芝で自害、その子の仲綱も阿弥陀堂(鳳凰堂)内で切腹します。そして、佐々木高鍋と梶原景季の先陣争いで知られるように、曽義仲軍と源義経軍による宇治川の戦いの場となります。

建武の新政における楠正成と畠山高國の宇治合戦では、楠軍の放火によりほ堂宇のほとんどを焼失し、阿弥陀堂、鐘楼、北大門だけが残ったと「太平記」には記されています。

そして、応仁の乱においては、その余波を受けた山城の国一揆により、宇治は山城国人衆と農民達の自治するところとなり、寺運は一気に衰えてたのでした。

明応年間(1500頃)、中世を通じて天台宗寺門派の影響を強く受けていた平等院に、浄土宗の僧侶がはいり復興に努めたため、江戸期以降は、天台宗系の最勝院と浄土宗系の浄土院が、輪番で平等院の管理にあたることとなり、これが現在まで受け継がれます。


中世末期から宇治の町を支えてきた地場産業が「茶業」であり、茶業の発展に直接の力となってきたのが「御茶師」と呼ばれる人達でした。

宇治における茶の栽培は、栂尾高山寺の明恵上人によって始められたと伝えられます。
上人は師匠の栄西禅師が中国宋から持ち帰った茶の種子を、京都の北方にある栂尾の地に播き、その後、茶の普及のため宇治の地に茶の木を移植、それが、宇治茶の始まりとなります。

室町時代には、足利義満により後に「宇治七名園」と呼ばれる茶園が宇治に開かれ、宇治茶の名は全国に広がりました。
秀吉による醍醐や北野の大茶会に代表されるように、「喫茶」が武家社会に深く浸透していくにつれて、御茶師には幕府や諸大名などの政治権力と結びつく者が現れます。丹波上林郷(京都綾部市)の土豪を祖とする上林一族は、秀吉から宇治茶の総支配を命じられ、江戸期に宇治は幕府直轄領となり、上林家は宇治郷の代官に任じられます。

そして、江戸幕府への献上品として壺に入れた宇治茶を運ぶ「御茶壺道中」が始まります。
正式には「宇治採茶使」といい、寛永十年(1633)から約230年にわたり毎年欠かすことなく続けられた大行列で、上林家は道中の総責任者「茶頭取」を任じられてきました。
動揺「ずいずいずっころばし」に「茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ」という歌詞がありますが、これは御茶壺道中の行列を煙たがった沿道の住民達が、戸をピシャンと閉めて家にこもってしまう様子を歌ったものだといわれています。

明治初期、宇治市や京都市の周辺には、1,300haの茶園がありましたが、時代の経過とともに茶園面積は減少の一途をたどり、現在、宇治市内には100haもない状況となっているようです。

明治29年、奈良鉄道(現 JR奈良線)が延伸されて宇治は京都と鉄道で結ばれ、大正2年には京阪電鉄宇治線も宇治まで延伸されます。
沿線には、宇治だけでなく、醍醐寺、黄檗山万福寺、三室戸寺などの名刹が多く、明治天皇の桃山御陵もあるため、参拝と観光の路線として賑わってきたようですが、近年は沿線の宅地が進行して通勤通学の路線となっています。

 


 

宇治の立地条件と町の構造



宇治は、琵琶湖から流れ出て鹿跳渓谷などの山峡を抜けた瀬田川(宇治川)が、広い京都盆地に流れ出る場所にあり、ここに架かる宇治橋は、大和国の木津から通じる奈良街道にとって重要な渡河の地点であり、古来から京都南部の水陸交通の要所として位置付けられてきました。

古来より、地方から京都(盆地)に入るには4つの主要な通過地点がありました。

近江大津や東国方面からは、東海道(現在の国道1号線)が通る日岡峠と逢坂峠がそれに該当し、大坂や西国方面からは、西国街道(現在の国道171号線)の通る大山崎、亀岡や山陰方面からは、亀岡街道(現在の国道9号線)が越える老ノ坂峠、そして、木津や奈良方面からは、奈良街道(旧の国道24号線)が宇治川を渡る宇治が、地方から京都への交通要所になってきました。
ちなみに、淀を通る現在の国道1号線は、秀吉による淀川堤防の文禄堤ができて以降の新道です。

宇治は、このような立地にあったために、古来から京の支配権を巡る数々の戦乱の舞台ともなってきたことは既に述べたとおりです。

現在、奈良街道(大和街道)とよばれる道路は2本あります。

一つは現在の国道24号線で、近鉄奈良線と平行して広大な農地(小椋池干拓地)を突っ切って走る街道で、いま一つは現在の府道京都宇治線で、JR奈良線・京阪宇治線と平行して山裾を迂回して走る街道です。
前者の街道は、慶長期に秀吉による伏見城築城と同時に築造された小椋池の堤を利用した道で、両街道は、大久保広野から分岐して伏見の観月橋で合流しています。


明治期の地形図には干拓前の小椋池がみられ、新旧の奈良街道と市街化される前の等高線がくっきりと表されています。
この等高線を基に、中世における小椋池の湖面を想像して記入したのが下図です。

山間部を縫うように流れてきた宇治川が小椋池に注ぎこむ場所で、山麓を通る古来からの奈良街道が交差して、そこに平等院や宇治上神社、そして宇治の町が展開していたことが分かります。



京都の交通防衛の拠点だった宇治は、平安時代の貴族たちにとって、京都近郊の風光明媚な別荘地というもう一つの顔をもっていました。
平等院は平安初期の左大臣・源融の別荘を起源としていますが、この時代、宇治川の左岸には他の貴族たちの別邸もあったのではないかと想像されます。

今でも、宇治橋からみる山側の景色は、嵐山の渡月橋からみる桂川の風景によく似て、豊かな水量と山々の緑が、見る者に心地よい清涼感を与えてくれます。
また、当時、反対方向には広大な小椋池(現在は干拓により消滅)の湖面が広がっていたはずで、その風景は平安貴族たちの旅情を誘ったことは想像に難しくありません。

宇治橋は、大化二年(646)に元興寺の僧道登により初めて架橋されたとされる日本最古の大橋ですが、「万葉集」以来、多くの宇治川の渡りを詠んだ和歌が伝えられ、「源氏物語 宇治十帖」や「平家物語」など、多くの古典に宇治橋は登場しています。


宇治橋  左:平等院の鳥居前からみる宇治橋  右:京阪宇治駅前(下流側)から遠望する宇治橋


宇治橋から眺める宇治川の清流


宇治川右岸の風景  石垣に緑が映える落ち着いた町並み



永承七年(1052)、関白藤原頼道は父道長から譲り受けた別邸を寺院に改めて平等院と号し、翌年には阿弥陀堂を落成させ、堂内には仏師定朝によって制作された阿弥陀如来坐像を安置し、極楽浄土をこの世に創りだします。

平安後期、日本では「末法思想」が広く信じられていました。

釈尊の入滅から2000年目以降は、仏法が廃れて天災人災が続き世の中は乱れる、とする思想ですが、平等院が創建された年は、当時の思想ではまさに「末法」元年にあたり、京都の貴族たちは、極楽往生を願って西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を祀る大規模寺院を数多く造営しました。

藤原道長は無量寿院(後の法成寺)を建立したと伝えられ、平等院創建以降では、白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が現在の岡崎あたりに相次いで建立されたといいます。しかし、記録に名を留めるこれらの寺院も今は跡形もなく、その所在すら定かではありません。

そんな中で、数多の戦いが繰り広げられた宇治の地において、平安時代建立の寺院が、建物だけでなく、仏像、壁画、庭園まで含めて残存しているのは、歴史的に見て非常に稀有な事例だといえます。



左:平等院参道の鳥居  中右:参道には土産物屋が軒を並べる


平等院鳳凰堂はほぼ真東を向いていて、堂前の池の対岸(東側)から西岸の鳳凰堂を望むと、扉を通して阿弥陀如来坐像を礼拝することができ、仏典に描かれる浄土の楼閣を想像させる優美で軽快な鳳凰堂は、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土を表象しているといわれています。

鳳凰堂は中央の堂宇(中堂)と左右の翼廊からなっています。
中堂は屋根を大きく張り出した入母屋造りの重量感ある建物ですが、大屋根の下にある裳階(もこし)と左右の軽快な翼廊によってバランスが保たれ、まさしく「鳳凰」が飛び立つような力強さと優美さを表現しています。


宇治千年の歴史を伝える平等院鳳凰堂と復元された阿字池


左:大きな庇と裳階が特徴的な重量感ある鳳凰堂中堂  右:軽快な翼廊


鳳凰堂の周囲を取り巻く阿字池(あじのいけ)は、近年の発掘調査に基づき復元されたもので、穏やかな州浜と浅い池が広がる開放的な庭園となっていますが、敷地は宇治川左岸の堤防から3〜5m程度低くなっていて、宇治川の岸辺をほぼ同じ高さにみえます。

現在のような高い堤防がなかった時代、宇治川の増水時には池の水位も相当上がったはずで、そのために、中堂の基壇は高く、翼廊はピロティ形式になっているのだと思います。




宇治川を挟んで平等院と向き合うようにあるのが、平等院と同じく世界遺産に指定されている宇治上神社です。

起源は必ずしも判然としないようですが、麓にある宇治神社とともに古来よりこの地にあったようで、明治維新までは両方合わせて宇治離宮明神と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮、宇治上神社を上社・本宮とし、延喜式にも「宇治神社二座」とあります。
近年の年代調査によれば、宇治上神社本殿は平等院創建とほぼ同時期のものと判明し、現存最古の神社建築であることが裏付けられると同時に、2つの古社は平等院創建との深い関連性が指摘されています。


左:宇治上神社  中:宇治七名水のひとつ桐原水が湧く  右:宇治上神社本殿 見えるのは覆殿


宇治上神社の後背にある仏徳山展望台からの宇治市街地の眺め


宇治上神社と同じく宇治川沿いの山麓にある興聖寺は、道元禅師を開祖とする曹洞宗寺院ですが、鎌倉前期に伏見深草に建てられたものが途中廃絶し、江戸前期に淀城主・永井尚政によって、宇治七名園の一つの朝日茶園であった現在の場所に再興されました。

紅葉の名所として知られる参道は「琴坂」とよばれています。
脇を流れる谷川のせせらぎが、琴の音に似ていることから付けられました名前ですが、宇治川に向けて一直線に下る道沿いには、削られた荒々しい岩肌と砕いた岩を積んだ粗野な石積みがみられます。


興聖寺  左:山門は黄檗宗寺院のようにみえる  右:興聖寺本殿


琴坂  左:宇治川に面する参道入口  中右:沿道の岩肌と粗野な石積み


宇治上神社と興聖寺の間には関西電力の宇治発電所があります。

歴史薫る宇治の地に発電所があるとは驚きですが、この水力発電所は琵琶湖の用水を利用した大正初期稼動のもので、ある意味、これも歴史的建造物だといえます。
琵琶湖の出口、瀬田川洗堰の上流360m地点で取水して、11kmに及ぶトンネルなどの導水路により引水し、宇治川との標高差を利用した落水により発電しています。

塔の島の対岸に、発電所用水の宇治川への合流口が見えますが、穏やかな宇治川の流れに対して、大量の用水が水音を立てて宇治川に流れ入る様子には、少しの違和感を感じてしまいます。


発電所用水の宇治川への合流口



宇治川には2つの中の島があり、それぞれ「塔の島」と「橘島」と呼ばれています。

中の島には、現存する日本最古の石塔とされる「浮島十三重石塔」、義仲と義経による宇治川の戦いにおける先陣争いの碑、平安時代の文献にもみられる鵜飼漁など、古来から受け継がれてきた宇治の歴史の名残が数々みられますが、いま、この付近の河川改修計画が長年の関西における治水の懸案事項として挙げられています。


左:右側の岸が塔の島  右:塔の島の北端から望む宇治川


琵琶湖は滋賀県全域を流域とし、淀川水系全流域の約47%を占めることから、関西の水瓶といわれていますが、一方で淀川沿岸の低地は洪水頻発地域でもあり、水瓶からの流出水の制御は洪水対策上の重要課題でした。

このため宇治川(瀬田川)には、瀬田にある洗堰(昭和36年完成)と宇治の上流部にある天ヶ瀬ダム(昭和39年完成)の2つの堰が設けられ、長年にわたり琵琶湖からの流出水量の調整を行ってきました。

一方で、余呉湖などの琵琶湖内湖の干拓化、沿岸部水田の宅地化と森林の伐採などにより、近年は琵琶湖及び沿岸地域のもっていた保水機能が著しく低下して、琵琶湖沿岸の市街地は洪水時の浸水に悩まされるようになります。

つまり、大雨の時に、瀬田の洗堰を開放して滋賀県の雨水をそのまま流すと淀川沿岸が浸水し、洗堰を閉塞して流れを止めると琵琶湖沿岸が浸水するという、痛し痒しの構造となってしまっているのです。

そこで、淀川の洪水が収まるまで洗堰で水量を調節し、その後、洗堰を全開して琵琶湖の水を速やかに排水して琵琶湖の水位を下げるというのが、治水の基本方針となっています。
そして、「速やかに排水」するためにネックとなるのが、天ヶ瀬ダムと塔の島付近の小さな流下能力でした。

宇治川の中でも塔の島付近は河床が浅く最も溢れやすい場所であり、河道断面の拡大(掘削)が必要不可欠とされていますが、それには、歴史景観、自然環境、鵜飼など宇治の歴史的遺産や観光資源への様々な影響が考えられ、長年にわたり喧々諤々の議論が続き、なかなか工事着手には至らないようです。


左:塔の島にあるかつての観光用桟橋  右:塔の島左岸に係留されている鵜飼舟


左:浮島十三重石塔  右:塔の島左岸の鵜飼の舟屋




江戸時代を通じて、御茶壺行列を仕立て、天下に名だたる宇治茶を支えた御茶師の経済力は、宇治の町通りに豪壮な屋敷が連なる町並みを作り出しましたが、幕府の庇護を失った明治期以降その数は激減していったといいます。

江戸末期、新町通り(奈良街道)には16もの御茶師屋敷が長屋門を連ねていましたが、その後の茶業の廃業とともに御茶師の構えは次々に失われ、町並みは大きく変貌してしまいました。
そして現在、かつての御茶師の面影を偲ばせてくれるものは、新町通りに残る上林春松家の長屋門など、いくつかの町屋だけとなっています。


新町通り(奈良街道)に残る上林春松家の長屋門  左側が大正時代に倒壊したため右袖のみとなっている


新町通りにいくつか残る古い町並み


かつて御茶師屋敷が集まっていたのが、JR宇治駅と平等院の間にある、新町通り(奈良街道)、県神社前の県通り、本町通りに囲まれた三角形の地区でした。
現在この付近には、古い町並みはほとんど残されていませんが、入り組んだ狭い路地や所々に残る古い町屋に、かつての御茶師屋敷の匂いを感じることができます。


左:県通り  中右:県神社
県神社は、律令以前の大和朝廷成立時、宇治の属した栗隈県に社名の起源があるといわれます。



かつての御茶師屋敷の町並み

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2009年1月


参考資料
@「歴史の町なみ 京都篇」保存修景計画研究会
A「平等院 パンフレット」

使用地図
@1/25,000地形図「宇治」平成8年修正
A1/20,000地形図「宇治」「淀」明治42年修測

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