伊賀上野   −山間に佇む忍びの里の城下町−

伊賀は 遠く大阪湾に注ぐ淀川の支流 木津川の源流域にあたる
周囲を山で囲まれ 大和、山城とも 伊勢とも 隔絶の感がある
ここで育まれた忍びの者たちは 城下町建設時には姿を消したが
かつての城下町には いまでも忍びの里の匂いが消えていない



 

 


 

町の特徴


 伊賀上野は、かつての伊賀国の中心であり、いまも人口10万人の伊賀市(合併後)の中心市街地ですが、戦災を一度もうけていないため、城下町開設時の町割を今でもしっかりと保っています。
 しかし、明治以降、地場産業の隆盛をみたり、陸運水運の拠点として栄えてはいないので、豪壮な商家が軒を並べた町並みが残っているわけではありません。

 周辺地域と隔絶した山間にひっそりと佇む一地方都市だといえます。

 上野城の高石垣に忍者の里、松尾芭蕉を売りにした観光都市を目指しているようですが、小まめに歩くと、町中に散在する江戸期からの長屋門や町屋を見つけることができ、特に、土蔵が数多く残っていることが分かります。
 これらも修復保存して町の活性化に生かすことが望まれます。




左:かつての重臣武家の長屋門  右:上野城 高石垣

 


 

100年前の伊賀上野


現在の地形図と100年前(明治31年)の地形図を見比べてみます。


 明治期の地形図をみると、維新後30年を経た時点でも、上野には江戸期の町割がそのまま残っていて、本丸周辺の上級武家の屋敷が空地になり、その南側には城下町が広がっていたことがよくわかります。

 近鉄上野線は、城下町の中を蛇行しながら通り抜けるように敷かれました。
 旧城下町に鉄道が敷かれる場合、城下を避けるように敷設されることが一般的ですが、上野では、本丸直近に鉄道駅がおかれています。

 明治期の地形図をみると、上野城跡の北側に等高線の集まりが表わされていて、上野城郭が河岸段丘面上にあることがわかります。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

町の歴史


 伊賀上野は、上野盆地の北中央部の台地北端に位置し、現在城跡のある高丘には、後白河法皇の勅願により平清盛が建立したと伝える平楽寺と薬師寺がありました。

 伊賀国は、鎌倉末期まで国土の9割近くが大和東大寺の荘園であり、中央から任命された守護や地頭は、残りのわずかな土地の支配権しかもち得なかったため、伊賀の地侍達は実質的に中央の支配を受けることがありませんでした。
 そして、東大寺の勢力衰退に乗じて、地侍達はそれぞれに東大寺の荘園を侵略したために、室町期においては、狭い伊賀の地を数十もの独立勢力が割拠する特異な状況下にありました。

 戦国期になると、それらの勢力が統合されます。
 北東部で近江甲賀に近い湯舟郷(現、柘植付近)に藤林氏、南部で大和に近い現在の名張の地に百地氏、そして中央部の上野に服部氏が、それぞれ地域の武士集団を統率して、城塞や砦を構えるようになります。

 山深い地にありながら、距離的には京という政争の場に近い地理的要因と、前述したように中央政権の支配を受けることの少なかった歴史的背景は、この地の地侍達を、諜報や謀略を専門とする「しのびの術」に秀でた武士団(いわゆる「忍者」)に育てていったようです。

 天正九年(1581)、旧来勢力の一掃を狙う織田信長は、古来からの「忍」の者達が割拠する伊賀にも大軍を差し向けます。いわゆる「天正伊賀の乱」です。
 織田信雄を総大将に、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷らが、総勢六万もの大軍を率いて伊賀に攻め入り、これにより、旧来からの伊賀勢力はほぼ壊滅状態になりました。
 その後、信長の跡を継いだ秀吉の命により、天正十三年、筒井定次が大和郡山から伊賀上野に二十万石で入封します。

 近世城郭として上野に城が築かれたのはこの時からです。

 天下統一を進める秀吉は、大名の本領を没収して新地へ移封する政策をとり、大阪城を中心とする大名配置を断行します。筒井氏の居城 大和郡山には弟の羽柴秀長をおいて、大和、和泉、紀伊三ヶ国の太守としたため、郡山の筒井定次は伊賀へ移封されることになります。

 定次は伊賀に入ると、平楽寺、薬師寺の跡に新しく近世城郭の工事に着手し、文禄年間(1590頃)に三層の天守閣をもつ城郭を完成させ、同時に、平楽寺の門前町を取り込んだ城下町も整備したといいます。

 関ヶ原の戦いの後、大阪城の秀頼と誼を通じている定次は、徳川家康から領地を没収され、家康の信任厚い藤堂高虎が、伊賀十万石、伊勢のうち十万石、伊予のうち二万石の合計二十二万石の大名として入封します。

 木津川流域で、京都と奈良の文化圏にあった伊賀国が、現在、三重県側に属するのはこの時からです。

 高虎は、豊臣氏の大坂方との決戦に備えて、城郭の大改修に取り掛かります。
 筒井定次の城は、大阪城の出城として、大坂を守る形をとっていたのに対して、高虎は西側に重点をおいた、大坂に備えるための城として改修がなされました。

 高虎が建設したのは、高さ十五間(約30m)の高石垣と五層の天守をもつ壮大な城郭だと伝えられますが、天守は完成目前に暴風雨で倒壊してしまいます。それ以降、上野城本丸には館がおかれるだけとなり、高虎の建設した天守は記録に残されることなく、現在までその全貌は分かっていません。

 藤堂家二十二万石は、伊勢国の津を本拠としたため、元和元年(1615)の一国一城令により上野城は再建されることはなく、寛永十七年(1640)から城代家老の藤堂采女(服部半蔵の甥)が預り、上野城は津の支城の位置づけとして明治維新を迎えることとなります。

 戊辰戦争においては、津藩は討幕軍の一員として東下したため、上野城下は戦場となることはありませんでした。また、第2次大戦でも米軍の空襲に見舞われることはなく、城下町時代からの町割を保ったまま現在に至ります。

 古来より忍びの里としての佇まいをみせた伊賀にも、近代交通網により大都市と直結することとなります。
 明治28年、名古屋から現在の柘植駅までの間が開通し、その3年後には柘植から伊賀上野駅を通り大阪までの路線が開通、そして、大正5年には、伊賀軌道が現在の伊賀上野駅から現在の上野市駅までを開業し、上野は大阪、名古屋の大都市圏と始めて鉄道で結ばれることとなります。
 その6年後、上野市駅から現在の伊賀神戸駅までが全通し、現在のように、JRにより加茂、木津、京田辺を通り大阪京橋と結ばれる関西本線と、名張、大和八木、大和高田を通り大阪天王寺を結ばれる近鉄大阪線の2方向で結ばれることとなりました。

 また、現在の伊賀上野城は、昭和10年に川崎克氏が私財を投じ、3年の歳月をかけて、かつて藤堂高虎が築いた基台に、木造建築により模擬復興したものです。

 平成の大合併により、かつての伊賀国は伊賀市(人口10万人)と名張市(人口8万人)に統合されました。
 名張市が昭和50年頃まで人口3万人程度だったのが、郊外大規模住宅地の建設ラッシュにより平成10年頃には現在の人口となりましたが、上野市は昭和30年頃から10万人前後で大きく増加していません。

 ちなみに、東京の上野の地名は伊賀の上野からきています。
 江戸期において、東京上野には津藩主藤堂家の邸があり、この地が伊賀の上野に似ているというので「上野」という地名を与えたといわれており、藤堂氏がこの地を返して染井に移った後に、幕府が天海僧正のために寺を建立しました。
 これが東京上野の東叡山寛永寺で、天海僧正を開基としている江戸元禄期の花見の名所となり、幕末期には彰義隊の兵火に焼かれ、戦後は東京芸術大学と西郷さんの銅像と動物園で有名になっています。

 


 

町の立地条件と構造



 伊賀上野は、上野盆地の北中央部の台地北端に位置し、北に服部川、柘植川、南に久米川、西に木津川の本流が流れ、城と城下町を大きく取り囲んでいます。

 木津川は、この先の月ヶ瀬口で名張川と合流して山城国に入り、木津の地で北流して、京都の淀で、琵琶湖からくる宇治川、京都盆地を流れてくる鴨川、丹波から保津峡をへて南流する桂川、この3つの河川と合流して淀川となります。
 その源流は、伊勢国の津、松阪などとを隔てる布引山脈の西麓と青山高原であり、伊賀盆地の水は、すべて木津川に集められて京都を通り大阪湾に注いでいるのです。

 そのため、伊賀はもともと京都・奈良の文化圏にありましたが、現在のように三重県の一部に取り込まれたのは、藤堂高虎が伊賀国を含む津藩主に任じられて以降であることは既に述べました。




 藤堂高虎の築いた上野城天守は建築中に暴風により倒壊し、それ以降、再建されることはありませんでした。
 現在ある天守は、昭和10年に地元の名士が私財を投じて往時の基台に建築した、桃山様式の三層、高さ23mの木造による模擬天守です。
 本格的な木造の建造物ですが、絵図などが一切残されていない中での再建なので、ほぼすべてが想像によるものなのだと思います。

 藤堂高虎は、宇和島城、今治城、篠山城、津城など数々の名城を手がけた築城の名手でしたが、高虎が伊賀に残した上野城の見ごたえは、本丸西側のある高石垣にあります。



左:現在の擬似天守  中:天守から内堀と望む  右:高石垣


高石垣上の本丸跡地から北西 木津方面を望む



 筒井定次が大阪城の出城としての位置付けで築城した上野城を、高虎は大坂方への備えの城として造り変えたことは既に述べました。
 そのため、大阪、京都方面への眺望を確保するために、本丸を西に拡張して、本丸の東寄りにあった天守を西端に移したといわれています。
 高石垣はこの時造られたものです。

 現在の三層天守の最上階からみる風景は、なるほど、この城の築城意義が分かるような気がします。
 城下町を一望できることはもちろん、北西の木津川と旧大和街道方面、そして南西の名張街道方面も見渡せ、大坂方面からくる敵の進軍が遠望できたことと思います。



現上野上天守から望む京、奈良、大坂方面  稜線の切れ目が木津川の流出口



 天守から西に見下す上野高校はかつての御屋敷跡であり、その南側には藩校 崇広堂がおかれました。
 文政4年(1821)、十代藩主藤堂高兌が、津の藩校有造館の支校として創建たもので、幕末期に全国諸藩が競うように藩校を設けたもののひとつですが、往時の建物が現存するのはとても珍しいことです。

 国道25号線は、城下町時代は大名小路とよばれた城郭内の道でしたが、本丸と大名小路の間には扇の芝とよばれる広い芝地で馬場があり、上野高校、西小学校、市役所はすべて扇の芝跡に建設されました。

 大名小路の南には重臣の屋敷が建ち並んでいたようですが、現在ここには近鉄上野線が縦断しています。



左:崇広堂 屋敷門  中:旧大名小路(国道25号線)  右:近鉄上野線は建物間をすり抜けるように走る



 丘陵地の北端にある上野城の外堀から南側一帯に城下町は広がっていましたが、その中心は、現在の上野市駅の南側の東西三筋と南北三町でした。




 現在、上野駅の南にあり伊賀線と並行する中町の辺りがかつての外堀にあたり、その外(南側)に本町筋、二之町筋、三之町筋の三本の東西方向の道路と、南北方向に、東之立町、中之立町、西之立町の三町(通り)を配して、方格状のプランの町屋地区を基本としていました。

 城下町プランの起点となったのは、城下町東端の上野東町にある天神社(菅原神社)と南端の上野愛宕町にある愛宕神社の2つのようです。



左:中之立町のアイストップとなっている 愛宕神社  右:本町筋の起点  天神社



 天神社は、本町筋の東の基点であり、愛宕社は、本町筋に直交する中之立町の基点であり、ともに筋(通り)のアイストップとなっています。
 しかし、直交する本町筋と中之立町は、東西南北の方位と微妙にずれていますが、この角度の振れの理由はよくわかりません。

 高虎による城下町建設より以前に、この地には平楽寺や薬師寺の門前町が既に形成されていたようなので、その門前町形成の時代にが、何らかの理由で天神社と愛宕神社の位置関係が規定されていたのかもしれません。
 また、町の西端にある蔵王神社も中町筋のアイストップとなっていて、江戸期には馬場だった中町筋の配置にも影響を与えてたのかもしれません。


 上野の町は、幕末期から太平洋戦争まで、戦災を一切受けていないため、江戸末期から明治大正期にかけての町屋や土蔵などが数多く残されています。

 中之立町通りの本町筋(中町)から二之町筋(小玉町)には、がっしりした大きな町屋が残されていますが、土壁が黒く塗られており、洗練された京風というより大和の重厚な感じがあります。



町中に残る町屋



 また、町屋町の中に数多く残る土蔵には、現代風に修復して上手く利用している例がみられます。


左:山車倉のようです  中:土蔵風の新築住宅にもみえます・・・  右:こんな蔵が数多くあります



 三之町の南側には、忍町とよばれる武家屋敷地区が配され、いわゆる「伊賀者」と称されたもの達の屋敷があったといわれます。
 大坂夏の陣では、戦闘要員として伊賀者50人が召抱えられたとの記録があるようですが、江戸期にはいり太平の世が続くようになると、伊賀者の数は次第に減ったようで、享保年間の城下町絵図には伊賀者の屋敷は見当たらなくなり、町名だけが残されたようです。

 忍町の南には、鉄砲組の居住地の鉄砲町が配置されています。
 かつての城下町には、どこにも鉄砲町といわれる町域がありますが、その中にはかつての下級武家屋敷の匂いを残しているものがあります。
 狭い路地と黒い板塀は、その地域で数百年に渡り受け継がれてきた町並みへの伝統文化のように思えます。



左中:鉄砲町に見られる黒板塀  右:忍町にはかつての「しのび」の匂いはまったくありません



 忍町の南一体は萱町とよばれ、城下町建設当初は農地でしたが次第に枝町が形成された場所で、現在の恵比須町、日南町、愛宕町、池町がこれに該当します。
 同様に、旧城下町の東側にも、大和街道を中心として枝町が形成され、現在の赤坂町、車坂町、田端町がこれにあたります。

 高虎による城下町形成後の経済発展の中で、城下町は南と東に大きく広がり、南方向では本町付近の東西軸街区による構成が南北軸に変化しており、東側にも奈良街道を基軸にして大きく町域は広がっていったようです。


 町中には長屋門もいくつか残されているようですが、その保存状態はよくありません。
 小名小路には、かつての千石取りの重臣 成瀬平馬家の長屋門が残されています。とても重厚な屋敷門で、旧上野城下で現存する最も大きなものだと思いますが、その傷み具合はひどく、一刻も早い行政の援助による修復が待たれます。



左:成瀬平馬家の長屋門  中右:ほかにも長屋門は町中に散在しています。



 一方で、寺町に並ぶ寺社はきれいに修復保存がなされています。
 住宅や駐車場などのほかの用途に転用されることもなく、境内もしっかりと確保されていて、かつての寺町の町並みを残しています。

 


 

歴史コラム

 

伊賀の忍者と服部半蔵



 現在、「忍町」という名が残る三の町筋南側の一角には、忍術使いの「伊賀者」と称されるものの屋敷町がありました。

 忍術は、中国の兵法を起源として、仏教の伝来とともに日本に伝わり、役小角(役行者)を開祖とする修験道に始まるといわれています。
 「しのび」は、戦場にあって敵陣に深く潜行することから「忍」と呼ばれ、諜報、謀略や戦法などの兵法の基本要素のひとつとして活用され、その修得者は時代と共に、修験道の僧から次第に戦闘専門家である武士へと移っていきました。
 源義経や楠正成などは、「忍」を巧みに利用した武将といわれています。

 忍術が最も発達したのは戦国時代で、多くの流派が生まれますが、その中で最も名を馳せたのが伊賀と甲賀(近江南部で伊賀に隣接)でした。
 両地域とも、長年にわたり忍術に長けた小武士団が統一されることもなく各地に割拠し、伊賀では、服部、百地、藤林の三大忍家が台頭して、それぞれ独立組織をもち家人として忍者を養いました。
 その中でも徳川家康に使えた服部半蔵は、隠密組織を作り、全国諸大名の動向を監視し、徳川幕府の基盤を支えたといいます。

 服部半蔵の本名は石見守正成といい、服部半蔵と名乗る忍者も一人ではありません。
 世間一般に知られている服部半蔵は、家康の家臣「徳川十六将」の一人で、この服部半蔵正成のことです。

 正成の父・保長は、初代の服部半蔵として将軍足利義輝に仕え、石見守を称しましたが、やがて伊賀から松平(徳川)氏のいる三河へと移ることになります。

 家康の祖父・清康、父・広忠に仕えた保長は、幼い正成に忍術ではなく槍術を教えます。
 伊賀同心を支配したことから、一般には徳川家に仕える忍者の首領とみられることが多い服部正成(半蔵)ですが、実際は槍術使いとして活躍した諜報活動の戦闘指揮官でした。

 正成を歴史的に一躍有名にしたのは、家康の「伊賀越え」でした。
 本能寺の変の直後、家康がわずかな供だけを連れて堺に滞在していた際、伊賀出身の人脈を生かして伊賀者を味方につけ、家康を伊賀を抜けて伊勢、三河へと無事送り届ける「伊賀越え」を先導して成功させます。

 この功により正成は八千石の旗本となり、天正伊賀の乱で離散した伊賀者を召抱えた伊賀同心を編成します。また、家康が江戸城に入封すると、正成は江戸城西の門の警備を任せられ、彼の警備した門は「半蔵門」の名で呼ばれるようになります。

 フィクションの世界で伊賀忍者、あるいは伊賀忍軍の首領として登場する服部半蔵はこうした正成のイメージがモデルになっています。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.3


参考資料
@「太陽コレクション 城下町古地図散歩4 大坂・近畿[1]の城下町」 日本城郭協会
A「近畿の町並み」 町並み保存研究会

使用地図
@1/25,000地形図「上野」平成元年修正
A1/20,000地形図「上野」明治31年測図


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