内 子   −木蝋商家の豪壮な町屋が並ぶ山間の町−

中世の門前市を起源とする内子は
険しい山間にあって 水陸交通の要所に位置する
南伊予の林産物を背景に隆盛した 木蝋の商人達は
大正期にはすべて姿を消し 山中に豪壮な町屋だけが残された



 

 


 

町の特徴


 江戸後期から明治期にかけて木蝋生産で栄えた内子には、黄色身を帯びた独特の漆喰壁がつづく町並みが残されています。
 江戸中期以降、町を焼き尽くす大火が一度もなく、経済的繁栄により建物の質が良かったことなどから、街道筋に木蝋商家の豪壮な町屋が数多く残されました。

 その中心地が本町(六日市)八幡神社周辺と八日市・護国地区です。
 多彩な漆喰彫刻や虫籠窓など一軒毎に特徴のある町並みは、今では多くの人々を魅了する南予一の観光地だといえます。


 


 

100年前の内子


明治大正期の地形図が手に入らなかったので今回はお休みです。

 


 

町の歴史


 内子は伊予西部の山間部にあって、諸街道と水運河川の結節点で交通運輸の要所にあります。

 そのような地勢を反映してか、内子には、鎌倉期に北条時宗の願成寺が町の南の廿日市に、室町末期には禅宗の高昌寺が町の北端の護国に創建され、ともに江戸期には四国の本山として多く信徒を集めました。

 内子の起源は、この二つの寺の門前町にあったといいます。
 二つの寺とも、今では町から少し離れた位置にあり、門前町の伝承をそのまま受け取ることは躊躇われますが、廿日市、六日市、八日市という地名が示すように、内子が近郷の農産物が集まる市として発違してきたことは確かなようです。

 鎌倉時代、関東の有力御家人であった宇都宮氏が伊予国守護に任ぜられ、その一族は内子、大洲を含む伊予国喜多郡に地頭として根付きました。また、室町期になるとこの地方にも有力な国人が現れ、曽根氏が中山川と麓川に挟まれた高台の城廻(しろまわり)に築いた曽根城を拠点にこの一帯を支配したといいます。

 戦国の世となり、秀吉が四国統一にむけて兵を差し向けると、曽根氏は小早川隆景に降伏したため曽根城は破却され、以降、内子は大洲藩の在郷町として発展することとなります。


 江戸期における内子の主要産業は、大洲半紙とよばれた和紙の生産でした。

 内子は、農産物のほか、木材・竹材・木炭・楮(こうぞ)三椏(みつまた)・櫨(はぜ)の実など林産物の集散地として栄えましたが、特に、伊予などの四国西部は、和紙の原料となる楮・三椏の主産地であり、大洲藩が専売事業として紙漉きを奨励したため、大洲半紙の生産量は大きく伸びて、一時期、和紙による収益は藩の石高の半分近くにも上ったといわれ、藩の財政を支えるのに無くてはならない存在だったようです。

 大洲藩の紙の専売制でその最盛期を飾った内子ですが、明治以降は下火となり、代わって木蝋(もくろう)生産が盛んになります。

 木蝋とは、櫨の果皮から圧搾して得られる脂肪で、蝋燭(ろうそく)のほかに、びんつけ、膏薬(こうやく)の基材、家具の磨き剤など幅広い用途に用いられました。
 明治期には全国総生産量の約30%を占めるほどの活況を呈し、その製品は肱川の舟運を活用して全国に運ばれ、遠くは海外にまで輸出されたといいます。
 六日市から八日市・護国地区にいたる旧街道沿いに残る江戸期からの町並みは、この木蝋生産による富が生み出したものです。

 しかしこの繁栄は長く続きませんでした。
 その原因は、内子周辺での生蝋生産が限界に達したことと、もうひとつは、電灯の普及や石油系の新製品の開発が進んだことによる木蝋そのものの需要減少でした。

 最盛期には白蝋の生産量日本一を誇った老舗の本芳我家も大正8年には廃業し、大正13年には内子に23軒あった木蝋業者は全て姿を消しました。
 そして、その輸送交通手段であった肱川の舟運もまた、蝋と運命を共にしてその姿を消しました。

 木蝋生産による富が創りだした豪胆な町屋とその町並みは、かつての繁栄の時を冷凍保存したかのように、南予の山間に残されたのでした。

 


 

町の立地条件と構造


 古来より内子に市が立ったは、この場所が交通の結節点だったからにほかありません。

 江戸期においては、内子の町を中心に、下灘へ通じる豊田往還、広田村へ通じる長田往還、小田へ通じる小田往還が放射状に延び、松山街道、大洲街道、小田街道の諸街道がそれに加わりました。
 大洲街道や小田街道は、江戸期以前からの四国遍路道で、松山街道は、金比羅参道や大洲藩の駅制を兼ねる本街道だったため、江戸期においては、廿日巾には宿場町も形成されてました。




 そして、内子はこの地域の三大河川である麓川、中山川、小田川が集まる場所でもあり、三河川が合流した小田川は、約7km下流で肱川に合流して大洲を通り伊予灘に注いでいます。

 内子は、船運と陸運の結節点に位置し、町は小田川右岸の河岸段丘に形成されたのです。




 内子の北端で町を見下ろす最も高い場所にあるのが高昌寺です。
その前が門前町として発生した護国地区で松山方面からの内子の入り口にあたります。



左:高昌寺山門  右:高昌寺からみた内子町方向を望む



 その先の八日市は、山裾の地形に合わせるように緩やかにカーブしながら枡形とよばれる食い違い道までつづきます。
 この八日市の通りには、江戸後期から明治期までの内子の最盛期に建てられた町屋が数多く残されています。

 現在、木蝋資料館となっている上芳我(かみはが)家、その本家であった本芳我家(宅内は非公開)は、ともに明治大正期に建築された豪壮な町屋です。



左:護国地区につづく八日市の町並み  中:本芳我家  右:旧上芳我家(現 木蝋資料館)


 むしろ、寛政年間(1790頃)に建築された大村家や旧米岡家(現、町家資料館)のほうが、親しみやすく好感がもてました。
 いずれにしても、平入り二階建てで黄漆喰の塗り込め壁が内子の町並みの印象を決定付ける基本のトーンとなっているようです。



左:大村家  中:八日市の町並み  右:旧米岡家(現 町家資料館)



 枡形を過ぎると、街道は小田川に向かって段丘面を一気に下ります。
 ここにも表側を黄漆喰にし、腰を海鼠壁とした町屋が目につきます。

 ここは坂町と呼ばれ、通りの先には小田川に突き出た五十崎の高台がアイストップとして見えます。
 室町期から戦国期まで、ここには竜王城があったといわれ、城廻の曽根城に対峙する城として、内子の盆地だけでなく、小田川の水運と松山から大洲に向かう街道を一望に見下ろせる要害の場所でした。
 坂町を小田川まで下った先には知清橋がありますが、この辺りはかつて小田川の船着場があったところで、船運の拠点と対岸の小田往還(四国遍路道)へとつづいていました。



左:枡形  中:坂町の先には竜王城のあった五十崎の高台がみえる  右:右が大和和蝋燭屋



 坂町を下ったのちは右に曲がり、ここから本町通り(六日町)の町並みがつづいています

 六日町には、明治期を通して木蝋商家が軒を連ねていましたが、明治40年、大洲から松山に抜ける幹線道路が新規に整備された際、八日市・護国では町の外れを通りましたが、六日市では街道(本町通り)を拡幅したため、多くの建物が軒を切り詰め、江戸期からの町並みがすっかり変わってしまいました。



左:本町通りの町並み  中:八幡神社  右:下芳我家


 


 

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上芳我家


 明治期に和蝋燭で財をなした芳我家の分家ですが、本芳我家にも下芳我家にも共通している豪壮さがあります。

 しかし、二階の腰にまで回した海鼠壁、何重にも見える破風板、重々しい妻面の庇など華美な装飾が目につき、実はあまり好きではありませんが、山間の町の豪商の建物らしくて面白いと思います。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.1


参考資料

@「内子新風土記」内子町観光協会
A「図説 日本の町並み 10 四国編」創史社

使用地図
@1/25,000地形図「内子」平成13年更新


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