土 浦


霞ヶ浦湖岸の低地に広がる城下町



 

 


 

土浦のまちあるき


土浦は霞ヶ浦湖岸の低地に築かれた城下町を起源としています。
城郭は土屋氏九万五千石の居城であり、湖水を引き込んだ堀が縦横に走る水城として知られていました。

明治に入っても発展を続け、昭和60年代まで茨城県南部の中心都市として機能してきましたが、最近はつくば市にその地位を奪われ、都市としては停滞しているようです。

戦災を受けなかったために、町は城下町時代の町割りをよく残していますが、古い町屋や武家屋敷門などはほとんど残っていません。
地方中核都市として、最近まで建物のスクラップアンドビルドが盛んに行われたためのようです。

 


 

地図で見る 100年前の土浦


現在の地形図と約100年前(明治前期)の地形図を見比べてみます。

明治前期の地形図を見ると、土浦城を中心とする城下町は、南北の丘陵地に挟まれた桜川沿いの低地に造られたことが分かります。

南北方向に延びている街道は水戸街道とよばれ、江戸から徳川御三家の居城水戸まで通じ、そこから福島県の浜通りを磐城(いわき市)平(相馬市)を通って仙台まで抜ける常磐の幹線街道で、現在の国道6号線に該当します。

土浦駅が旧城下町の南東約1kmの位置に設けられたため、市街地は駅周辺の大和町、桜町、川口などの霞ヶ浦方向に拡大することとなり、北と西には農地のままとなっています。


 


 

土浦の歴史


霞ヶ浦に面した土浦は、古来から大津郷と呼ばれて霞ヶ浦水運の要衝にありました。
土浦城は、室町後期頃に若泉氏が築城したと伝えられていますが、現在知られている城郭は江戸初期に整備されたものです。

関ヶ原の合戦の後、松平(藤井)信一が、三万五千石を領して土浦城に入り土浦藩が成立すると、信一は土浦城と城下町の本格的な整備に取りかかります。

幕府の命令で水戸街道が城下を貫通して土浦宿が設けられます。土浦宿は水戸街道沿いの旅籠と田町川沿いの船宿に分かれ、水戸街道沿いには問屋町や商人町が形成されました。

松平氏の後は、上野国白井より西尾忠永が二万石、下野鹿沼より朽木稙綱が三万石で入り、寛文二年(1662)、徳川家光に仕えて若年寄に任ぜられた土屋数直が一万石の大名となり土浦城に入ります。その子政直の時には、一旦駿河田中に国替えとなり、松平(大河内)信興が藩主となりますが、5年後には再び土浦藩主となり、徳川綱吉・家宣・家継・吉宗の4代にわたって老中として仕え、所領は九万五千石まで拡大します。
土浦は、常陸国では水戸藩に次ぐ大藩の城下町として栄え、以降、土屋氏が10代世襲して明治を迎えます。

明治維新後、土浦城郭内の大部分の施設が解体される中、残された本丸や外丸の御殿や一部の櫓などは、新たに設けられた新治郡の役所として利用されましたが、本丸御殿と東櫓は明治27年に、外丸御殿が明治38年に火災により焼失し、昭和25年には西櫓が台風被害により解体されてしまいます。

やがて郡役所が移転すると、昭和9年には亀城公園として一般開放されて、櫓門と霞門、土塁と内堀をだけが残ることとなりました。

昭和4年、土浦の南5kmの阿見原(現 阿見町)に海軍航空隊の基地がおかれます。
ここには通称「予科練」(海軍飛行予科練習生)と呼ばれた海軍航空兵の教育機関がおかれ、全国の青少年の憧れの的となり、土浦は海軍の都市として、敗戦に至るまで料亭や遊郭その他の休養施設が多く立地して栄えます。

昭和末期まで、土浦市は茨城県南の行政・経済・交通の中心都市として機能してきました。

明治28年に日本鉄道海岸線(現 常磐線)が開通して、霞ヶ浦舟運に替わって鉄道で東京と直結します。
大正7年には、土浦から岩瀬(現 桜川市)まで筑波山西麓を巡る筑波鉄道が開通します。
真壁の石材と筑波山への観光客の輸送を目的としたものですが、行楽シーズンには上野から土浦経由で直通列車が筑波に乗り入れていました。その後この路線は、常総筑波鉄道を経て、昭和40年に関東鉄道の一路線となってから分社して、昭和62年に国鉄民営化と同日に廃止されます。

金融機関では、明治11年に第五十国立銀行(現 五十銀行を経て常磐銀行と合併して常陽銀行・県内シェア1位)が、昭和27年には関東銀行(現 つくば銀行と合併して関東つくば銀行・県内シェア2位)が、ともに土浦を本店として設立され、茨城県下を代表する銀行となっています。

また、昭和15年、真鍋町と土浦町が合併して土浦市となり、水戸市と土浦市より一年先んじた日立市に次いで県下で3番目に市となり、茨城県の出先機関も集中して県南の行政中心となっていました。

このように、土浦は江戸期から昭和末期まで茨城県南部の要衝でしたが、平成にはいり急速に衰退していきます。
昭和60年に開催されたつくば万博以降、県南の中心都市として新たに台頭してきたつくば市の発展に押されたためでした。

土浦駅周辺では、平成8年以降、西友(西友の1号店)、小網屋(地元百貨店)、丸井が相次いで閉店し、東武や京成の電鉄系ホテルも閉鎖し、平成9年に開業した再開発ビル「ウララ」(イトーヨーカ堂がキーテナント)だけが駅前の商業機能を支えている状態です。

現在の土浦市の人口14万人は、大きな減少はないものの、平成の大合併以降では、水戸市、つくば市、日立市、ひたちなか市、古河市に次いで県下6番目となっています。

 


 

土浦の立地条件と町の構造



土浦は、北の新治台地と南の筑波稲敷台地に挟まれた桜川低地にあり、霞ヶ浦のうち土浦入りとよばれる水域の最深部に位置しています。

桜川低地は、日光連山を水源とする古鬼怒川の旧河道の跡といわれています。 古鬼怒川は、その後に流れを西に変えたため、河道跡には岩瀬町を源とする桜川が流れるようになりました。

琵琶湖に次いで日本2位の水域面積をもつ霞ヶ浦は、海がせき止められてできた海跡湖で、平均水深4m程度と極めて浅い湖であり、縄文期の海進により、桜川低地の谷に堆積作用が働いたことで、浅くて広い干潟が形成されました。

土浦の代表農作物に生産量全国1位を誇るレンコンがありますが、これは霞ヶ浦湖岸の低湿地帯の特性を生かしたもので、霞ヶ浦沿岸と桜川低地には蓮田が一面に広がっています。




明治前期の地形図に旧城下町の範囲を記したのが上図ですが、これをみると、土浦城周辺一帯の他には、水戸街道沿いの大町と真鍋宿に市街地が形成されているのが分かります。

ここは、桜川低地と霞ヶ浦の境界部で、干潟の中に砂や泥が堆積して形成された自然堤防にあたり、周囲の低地からわずかに高くなっています。
桜川低地の中でも、土浦城と水戸街道は微高地を選んで建設されたのでした。

低地に築かれた平城の土浦城は、多くの濠が城郭内や周囲に巡らされた水城でした。
そして、桜川と湿地帯に囲まれた土浦城下町は、水戸街道によってのみ外部とつながっていたのです。


現在、土浦城本丸跡は亀城公園として整備され、江戸時代からの遺構として太鼓櫓門と霞門が現存しています。本丸内にある西櫓は平成2年に、東櫓は平成10年に復元されており、本丸土塁上には漆喰塗り込めの白塀が連なり、かつての城郭の景色を再現しています。


亀城公園に残るの堀と本丸跡の土塁上の白塀


左:本丸跡に残る土塁  中:再建された東櫓  右:現存する太鼓櫓門


亀城公園  本丸跡地



もともと土地が狭かったためなのか、短期間に石高が増加したため城郭拡張が追いつかなかったためか、九万五千石の大名の居城としては、いささか狭い感じがします。

二の丸跡地には昭和63年に建築された土浦市立博物館があります。
博物館のマッシブなデザインは城郭をイメージしたとのことですが、こじんまりした土浦城の跡地に建てるには似つかわしくない大きさの建物です。
しかし、展示の内容はすばらしく、霞ヶ浦と土浦の歴史を分かりやすく伝えてくれます。


左:土浦市立博物館  中:博物館内部  右:博物館にある土浦城の復元模型



現在の地形図に、旧城下町の範囲、堀、街道などを重ねたのが下図です。

「発掘された土浦城」(編集・発行:上高津貝塚ふるさと歴史広場)の地図を使用して、江戸末期の城下町絵図を参考に、町屋町の範囲や水戸街道などを書き入れたものです。

土浦城は、桜川から引き込んだ濠が幾重にも取り囲む水城であり、城下町も同じく濠に囲まれ、出入り口も水戸街道の2ヶ所に限られた、さながら「水に浮かぶ町」の様相を呈していたようです。

市街地は、阿見原の海軍航空隊基地を除けば、ほとんど戦災を受けていないために、町の構造は城下町時代の町割りをよく残していますが、城下町を蜘蛛の巣のように廻っていた濠は、旧城郭周辺を除いて全て埋め立てられ、跡地は大部分が道路となっています。

明治以降、土浦は茨城県南部の中心都市となったため、都市化の進展により次々と埋め立てられたようですが、仮に交通の要所から外れて、維新後の発展がなかったなら、柳川(福岡県)のように水郷の町となっていたかも知れません。



城郭の東を迂回する水戸街道に沿って、本町、中町、中城町などの町屋町は整然と区画されていました。城郭の不整形な郭配置に比べて、町屋町のほうは江戸初期の街道整備と同時に新たに町割りされたものと思われます。

一方で、城下町南端の大町、田宿町や北の真鍋宿の付近では、街道が城方向を向いていますが、これは城からの見通しを重視した配置だったのかも知れません。


土浦城郭の南土浦幼稚園の門前は不整形な広場になっていますが、ここにはかつて大手門と堀がありました。不動院脇の小道が堀跡ですが、ここは一段低くなり堀の名残として細い溝があります。


土浦城 大手門跡地



城下町時代の町割りはよく残っているものの、一方で、町中に古い町並みはほとんど残っていません。

昭和60年代まで茨城県南部の中心地として栄えたため、町屋の建て替えが進んだとも考えられます。
土浦駅からも適度に距離をおいているので、もう少し残っていると思っていましたが、真鍋宿付近と「まちかど蔵」として利用されている中城町の店蔵群を除けば、水戸街道沿いにも古い町屋はほとんど見られませんでした。


水戸街道沿いの中城町は土浦の町屋町の中心地であり、天保十四年(1833)の大火以降に建築された土蔵造りの商家が残されています。

街道に面して向かい合う2棟が、「土浦まちかど蔵」として観光案内所などに活用されています。

その一つ「大徳」は、江戸時代より続く商家の「尾形屋」が呉服商を営んできた江戸後期建築の店蔵で、一方の「野村」は、江戸時代からの商家「野村家」が明治頃より砂糖商を営んできた安政七年建築の店蔵ですが、ともに、平入り二階建てで下目板張りの店蔵と観音開き戸をもつ土蔵が隣り合って水戸街道に面しています。


旧水戸街道 中城町


左:土浦まちかど蔵「野村」  右:土浦まちかど蔵「大徳」



まちかど蔵の隣に残っている矢口家住宅は、土浦では最も重厚な店蔵です。
一階は引き違いの木製ガラス戸となり、金樋が付けられるなど改造されてはいますが、二階には観音開扉が、屋根には箱棟やカゲ盛が残されています。
まちかど蔵に比べて、外壁などの保存状態は悪く、二階の破風も外れていますが、躯体は頑丈にできているようなので、一刻も早い修復保全が待たれます。


水戸街道沿いに残る 店蔵「矢口家住宅」


水戸街道沿いに残る土蔵には、ユニークな改造が施されているものがあります。

下左の土蔵は外壁全面に煉瓦タイルを貼ったものですが、蛇腹の破風や鼻隠しにまで貼っているのは徹底しています。
下右の家屋は看板建築の一種ですが、中途半端な隠し方がとても愉快です。


左:煉瓦タイル貼りの土蔵  右:いわゆる「看板建築」


大町は、水戸街道に沿って享保十三年(1728)に造られた町屋町です。
街道は微高地にあるため、大町は隣の桜町から1m程度高くなっていますが、ここから桜川の堤防はさらに3m程高くなっていて、土浦の町が低地に造られたことが実感できます。


左:桜川  中:桜川堤防から見た大町は低くなっている  右:桜町



大正14年、旧城下町の南の湿地帯を造成した新たな埋立地に、それまで町中に散在していた料亭、芸妓置屋などが集められました。
現在、桜町とよばれる新市街地一帯は北関東最大の歓楽街となっていて、ここのソープランドの店舗数は川崎市堀之内に次いで関東で2番目に多いといわれています。


桜町の歓楽街  店の規模は小さい  昼過ぎなのでひっそりしている



土浦には旧城下町を貫いて全長3kmほどの高架道路が通っています。

これは土浦ニューウェイと通称される高架橋で、土浦駅からつくば科学万博会場へのシャトルバス通行路として昭和60年に建設されたものですが、都市高速道路と見間違うようなコンクリート造の橋脚と桁が連続して、地方都市の長閑な市街地の中にあって、周囲を圧倒するボリューム感を誇っています。

こんな巨大な自動車専用道が必要になるほど市内交通量があるはずもなく、私にはバブル経済の到来を告げた歴史遺産のようにも見えます。
なお、車道には路肩(車道端の余裕代)がないため狭いのですが、これはガイドウェイ(専用車道の両側にガイドレールを通して自動操舵運転を可能にする運行システム)などの将来的な「新交通システム」への転用が見込まれていたためのようです。


土浦の町を貫通する土浦ニューウェイ  小さな町に似合わない高速道路

 


 

まちあるき データ


まちあるき日    2008年11月

参考資料
@ 「発掘された土浦城 −地中に眠る知られざる歴史−」 上高津貝塚ふるさと歴史広場
A 「霞ヶ浦に育まれた人々のくらし」 土浦市立博物館

使用地図
@ 1/25,000地形図 「土浦」平成19年更新  「常陸藤沢」平成18年更新
A 1/20,000地形図 「明治前期関東平野地誌図集成 1880(明治13)年-1886(明治19)年」


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