鞆の浦


海に迫る山容 山裾に並ぶ寺院群
狭小な平地の隘路に並ぶ 豪壮な町屋たち
古来からの海運拠点は 瀬戸内海の潮待ちの港




 

 


 

鞆の浦のまちあるき


瀬戸内海の潮目にあたる場所、そこに天然の良港がありました。
長い日本の歴史の中で、この地理的な偶然が、鞆の浦に「潮待ちの港」として重要な役割を担わせてきました。

古来より瀬戸内海は、京を中心とする畿内と西海諸国を結ぶ交通の大動脈でした。
そして、船運が風と潮の流れを利用していた時代、瀬戸内海の潮の分かれ目となる鞆の浦には、潮の満ち引きを待つ船が集ってきたのです。

古来より、西国に赴任する国司や防人達が寄港し、瀬戸内を舞台にした戦乱の拠点となり、朝鮮通信使や長崎出島の商館長たちが宿し、北前船など多くの商船が入港し、長い歴史の中で、鞆の浦は常に活気に満ち溢れていました。

明治以降の近代化により、海運の要所は鉄道などの陸運経路から大きく外れ、かつて隆盛を誇った町屋や寺院そして港湾施設は、今では穏やかな時の流れの中にひっそりと佇んでいます。

瀬戸内の風光明媚な自然を背景にして、山裾に伽藍を広げる寺院群、常夜灯や雁木が残る港、そして狭い平地にびっしりと建て込んだ古い町並み。

鞆の浦は、歴史の痕跡が一杯詰まった箱庭のような町でした。




 


 

鞆の浦の歴史


鞆の浦の山裾には数多くの寺院が並んでいます。

そこは寺町ともいえる景観を呈し、江戸期の絵図には、福山城下町と同規模の30近い寺院が伽藍を並べていた様子が描かれています。
そのうち、静観寺は大同年間(810頃)の創建といわれ、医王寺も天長三年(826)に弘法大師により創建されたと伝えられ、廃寺となった地福寺とあわせて、9世紀には少なくとも既に三ヶ寺が鞆の地にあったとされます。

また、天平二年(730)、大宰帥(大宰府長官)として九州に赴任していた大伴旅人は、京に帰る途中で鞆に立ち寄り、かつて亡き妻とともに眺めた景色に再び接した歌を万葉集に残しています。
このように、古来より瀬戸内海路の要所であった鞆には、任地へ赴く国司や僻地に向かう防人など、幾多の人々が行き来をしたのでした。

創建から1200年を数える山裾の寺院は、瀬戸内の要所として古来から栄えた鞆の歴史の証人でもあります。


「足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ。」
昔からこの地の歴史家によって語られてきた言葉です。
足利尊氏から十五代将軍義昭まで、200年以上にわたり続いた室町幕府は、ここ鞆の浦において、光厳上皇からの院宣を尊氏が手中にして、京に攻め上ったことから始まりました。 また、最後の将軍義昭は、織田信長によって京を追放され、鞆の浦にて毛利氏の加護のもと「鞆幕府」を開きますが、室町幕府再興の宿願が叶うことはありませんでした。

江戸中期、徳川家宣の六代将軍就任への祝賀のために日本を訪れた第八次朝鮮通信史使節団の首脳部は鞆の対潮楼で宿泊し、鞆の美しい風景を称え望郷の想いを綴った七言律詩(漢詩)を残し、能書家の従事官は「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地という意)六文字を大書しました。
江戸時代を通して、鞆の地は朝鮮通信使の宿泊地ともなり、日本の漢学者や書家らとの交流の場となりました。そして、通信使の残した漢詩や書跡を鑑賞するため、後年、多くの文人墨客が鞆そして対潮楼を訪れたといいます。


海運の要所 鞆の浦には城郭も築かれました。

江戸初期、備後を領した福島正則によって「鞆城」の築城が始まります。
鞆市街地の中央にある小高い丘(現 歴史民俗資料館のある城山)が築城地ですが、これは家康の逆鱗に触れて工事は中止となり、正則は改易されてしまいます。

福島氏に代わり、水野勝成が備後福山藩に入封すると、鞆城跡には嫡男勝俊と重臣を配した奉行所が設置されます。
その後の水野氏断絶により福山藩は廃藩となり、一時的に天領となりますが、松平氏を経て、宝永七年(1710)に阿部氏が福山藩主となると、以後、廃藩置県まで十代161年間に渡り在封することになります。


明治維新以降の近代化は、物流輸送の主役を帆船から機関船そして鉄道へと変化させ、潮待ちを必要としなくなった時代、鞆の浦は、豪壮な町屋や港湾施設など数多の歴史的建造物を残したまま、沼隈半島の先端にひっそり佇む町となりました。

鞆には、数百年来の刀鍛冶、海運の町としての船釘や錨などの船具加工といった伝統産業がありましたが、それが大正期の製鋲、伸鉄(建築用材)生産の急伸により、鉄工業の町としてひとときの隆盛を見ることになります。
昭和43年には町の入口部に「鞆鉄鋼団地」が埋め立て造成され、舟鍛冶の伝統が引き継がれています。

 


 

鞆の浦の立地条件と町の構造



鞆の浦は、福山市の南12km、備後灘に突き出た沼隈半島の先端にあり、瀬戸内海のほぼ中央に位置しています。

瀬戸内海は、東西に約450km、平均水深38mほどの内海ですが、東端で鳴門海峡と明石海峡(大阪湾を経て友ヶ島水道)、西端で豊後水道の豊予海峡、関門海峡の4箇所によってのみ外海と通じているところに大きな特徴があります。

この地理的な特徴は、瀬戸内海に大きな干満差をつくりだします。
干満差は瀬戸内海の奥に行くほど顕著になり、最奥部(瀬戸内海中央部)における干満差は大潮の日に最大4メートル近くにもなります。そのため、一般的に瀬戸内海の潮流は強く、場所によっては川のように流れている所もあり、鳴門海峡では渦潮を発生させています。


古来より、瀬戸内海沿岸には数多くの湊がありました。
下関、柳井(山口県)、御手洗、尾道、鞆の浦(広島県)、下津井、牛窓(岡山県)、室津(兵庫県)など、江戸時代に繁栄した湊は数多くありますが、潮流の境目(潮目)に位置していたのは鞆の浦だけでした。

「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流であった時代、沼隈半島沖の瀬戸内海を渡っていくには、鞆の浦で潮流が変わるのを待つ必要がありました。

そして、鞆の浦には、潮待ちに相応しい天然の良港があったのです。



福山上空を飛ぶ飛行機の窓から見た鞆の浦



天然の良港にはいくつかの地形的条件があります。

まず、一定の水深があることですが、それには、砂浜海岸ではなく山の迫る急崖の海岸線が必要です。近くに河口があると川の運ぶ土砂で水底が上がるので不向きですし、一方で、適当な平地もないといけません。
また、湾や島影といった荒天時に船が波風を避けられる地形が必要で、最適なのは入り江になっていることです。

鞆の浦はこの条件にぴったり当てはまるだけでなく、瀬戸内海の潮目の海域に突き出した半島の先端に位置していました。

まさに、鞆の浦は、偶然の産物としかいいようのないほどの、「潮待ちの港」に相応しい立地条件をもった湊でした。


鞆の浦には、東西約600m、南北は1kmにも満たない狭い範囲に市街地が密集し、山容が海際まで迫り、湾があり小高い独立丘(城山)まであります。

この複雑な地形は、自然豊かな瀬戸内海にあって、実に風光明媚な風景を創りだしています。


鞆城跡からみた港全景


江戸時代、この風景を愛でた人々が滞在したのが対潮楼でした。

天暦年間(950頃)の創建と伝わる真言宗福禅寺の本堂に隣接する対潮楼は、江戸元禄年間(1690頃)に建てられた客殿で、国の史跡に指定されています。
座敷からの海の眺めは素晴らしく、朝鮮通信使の李邦彦により「日東第一形勝」と賞賛されたことは既に述べたとおりです。


左:対潮楼  右:日東第一形勝と賞された対潮楼からの眺め


鞆の町の中心にあって、鞆の港を一望できる場所にあるのが、かつての鞆城跡のある城山です。
現在、ここには歴史民俗資料館と運動公園がありますが、城郭といえるほどの広さはありません。鞆の浦全域を見渡して、瀬戸内の海を遠望する、物見櫓的な機能をもった砦のような役割をもっていたのかも知れません。


左:鞆城跡  右:歴史民俗資料館


鞆の浦の山裾には19の寺院が並び、ひとつの寺町とも言える様相を呈しています。
その宗派も6つにわたり、中世から近世にかけては、今日よりも多い30もの寺院が伽藍を並べていたといい、これだけの寺社を維持するだけの経済力が鞆にはあったことを証しています。


山裾に広がる寺町の町並み


寺町のなかで最も重要なのが沼名前(ぬなくま)神社と医王寺です。

沼名前神社には、大綿津見(おおわたつみ)命を祀る渡守神社と須佐之男(すさのお)命を祀る祇園社が一緒に祀られています。

大綿津見神は、神産みの段でイザナギ・イザナミの二神の間に生まれ、日本神話で最初に登場するワタツミ(海神)ですが、海路の安全を祈りこの地に祀られたようです。
沼名前神社は寺町の中央で最深部に位置して、他の寺院を従えるように配置されていますが、維新以前の神仏習合の時代においては、他の寺院を統べる立場にあったのかも知れません。


左:神社前の鳥居  中:参道  右:拝殿と本殿


天長三年(826)に弘法大師が創建したと伝えられる医王寺も特殊な場所に立地しています。
寺町の南外れにありながら、寺町どの寺院よりも高い山の中腹に位置し、鞆の町と湊を一望できる場所に座しています。


左:城山からみた医王寺(山腹にある建物)  右:医王寺からの眺望


山腹にある医王寺境内



鞆の港町には、海運により大きな経済力が蓄えられ、多くの人々が集住しましたが、その一方で、良港であるがゆえに山容が海に迫り、狭い平地は必然的に過密市街地となり、狭隘な沿道に狭い間口の町屋が隙間なくびっしりと軒を並べる町並みが形成されました。




狭隘な道路沿いに隙間なく軒を並べる町並み


江戸時代の絵図をみると、鞆の町は沼名前神社と参道そして城山を中心にして構成され、その周囲に市街地が展開しているように描かれています。
絵図はいくらかデフォルメされていますが、人々の空間認識として、沼名前神社と城山が中心にあったことが絵図に表現されたと思われます。


江戸時代の絵図(「鞆の町並と商家の賑わい」から転載)


現在の市街地内には江戸期から戦前までに建築された家屋が400棟以上存在するそうですが、そのうち、280棟が城山の南側一帯に集中しています。
福山市が重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)の指定を目指している、市街地南側の8.6haには、江戸時代に建築されたものが105棟、明治時代が85棟、大正から昭和前期までが84棟の歴史的建築物が現存しているそうです。

東西約600m、南北は1kmにも満たない狭い市街地に、これだけの数の古い町屋が残されていることは驚きですが、町中を歩いていてもそれほどの数の存在を感じないのは、町中に残る古い建物の隅々にまで、十分な修復保全の手が届いていないことに原因があるのかもしれません。

これだけの歴史的町並みがあるにもかかわらず、未だに重伝建地区に指定されていないことがその主な理由ですが、これについては詳細に後述します。




江戸期・明治期の重厚な町屋が狭い道沿いに並ぶ


数ある町屋建物の中でも、最も重厚でしっかりと保存されているのが太田家住宅です。

この町屋は、江戸時代には薬酒である保命酒など各種の酒造を営んだ中村家の主家と土蔵群で、明治期に太田家が受け継ぎ今日に至っています。

「保命酒」とは、清酒と異なり、餅米を主原料とし焼酎を用いて製造した漢方薬酒で、これに数種類の薬味を漬け込んで製造されるもので、現在では、鞆の浦の名産品となっていて、町中では保命酒屋(鞆酒造)など4つの酒蔵が醸造製造しています。

文久三年(1863)、尊皇攘夷を主張する三条実美ら7人の公家は、8月の京都での政変において薩摩・会津などの公武合体派に敗れて失脚し、長州に下る途中に鞆の浦に寄港しました。
その際に、太田家(保命酒屋)に立ち寄ったとされ、翌年に長州から再び上京した際にもここにに立ち寄り、主屋と別宅の朝宗亭を宿泊所として利用したそうで、この由来から、太田家住宅は「鞆七卿落遺跡」の名でも知られています。


太田家住宅



瀬戸内海沿岸に数多残されている港町の中で、鞆の浦が最も知られている理由は、古い町並みが残されているだけではなく、江戸期における湊の風景をよく残しているところにあります。


港町には必需の港湾施設があります。

その港湾施設とは、風波から港内を守る防波堤、港の入口を示す灯台、船を着岸する岸壁や桟橋、船底修繕のためのドック、船の出入りを管理する事務所などですが、江戸時代においては、「波止(はと)」、「常夜灯」、「雁木(がんぎ)」、「焚場(たでば)」、「船番所」がそれに該当します。
そして、驚くことに、そのいずれの施設も鞆の浦に現存しているのです。

干満の差の大きい鞆の港では、潮の満ち引きに関係なく、いつでも荷船が着岸できるように階段状の岸壁が造られましたが、これを「雁木」をいいました。
現存する雁木は江戸後期に造られたもので、部分的に補修が施されているものの、いまでも十分使えるものです。

また、鞆の港の中心部に位置する「常夜灯」は、港町 鞆の浦のシンボルです。
基礎石からの高さは約10mで、江戸時代の石造の常夜燈では国内最大級であり、雁木とともに鞆の浦の代表的な観光施設となっています。


左:常夜灯  右:雁木


干満差の大きな鞆の浦は「焚場」にも適していました。
木造船には、フジツボやカキなどが付着したり、船虫が付いたりするため、船底を焼いて乾燥させることで、船命を長持ちさせる必要があります。
この作業を「たでる」といい、たでる場所は「焚場」と呼ばれました。
満潮時に船を引き寄せ、干潮時に船底を木の葉で燻したり修理をしていたもので、湾内には現在でも干潮時に石畳の立派な焚場が姿を現します。

大可島から淀姫神社方向に向かって、長大な「波止」が海に突き出しています。
大きな花崗岩を丁寧に積み上げた頑丈な石作りの防波堤で、江戸時代に造られて現存するものとしては日本最大級といわれています。
波止の根元の丘上にあり、港内を見渡すように建っている家屋がかつての「船番所」の跡です。現在も残る石垣は往時のものであり、往時の船番所の面影を残しています。


左:自然石を積んで造られた波止  右:干潮時に姿を現す焚場跡「鞆の町並と商家の賑わい」から転載)



これらの港湾施設以外にも、鞆の町並みにはいくつかの特徴があります。

町の構成で特徴的なのが、隙間なくびっしりと建ち並んだ町中を縫うように走る道路のほとんどが三叉路になっていることです。
鞆の浦の町割りは、江戸初期の福島正則による城下町建設時を起源としますが、その下敷きには中世港湾都市の町割りがあったのだろうと思われます。

また、本瓦葺きの家屋が数多く残っていることも鞆の特徴のひとつです。
本瓦葺は平瓦と丸瓦を交互に並べたもので、寺院の屋根に使われてきた高級な瓦葺方式でした。
江戸中期から使われだした桟瓦葺が、軽量で安価のため全国的に普及して、現在では日本瓦の代表になっていますが、鞆の浦では、本瓦葺が一般の町屋にも数多く使われています。
こうした見栄を優先するのが、鞆の浦の町の粋だとする方もおられるようです。


本瓦葺きの家屋


最後に、鞆の浦の市街地に残る洋風建築についても紹介しておきます。


角地の洋風建築の双璧  特に左の平野屋の構造はどうなっているのか見てみたい


左:木造3階建てのファサード洋風建築
右: 少ししつこいですが1階の庇周りやサッシュのディテールがお洒落な鞆一番の洋風建築


 


 

歴史コラム

 

重要伝統的建造物群保存地区

 

昭和50年、文化財保護法が改正され、城下町や宿場町など全国各地に残る歴史的な集落や町並みが、文化財のひとつとして国の政策で保存が図られるようになります。

市町村が、都市計画区域内では都市計画によって、都市計画区域以外では条例によって、それぞれ定める「伝統的建造物群保存地区(伝建地区)」のうち、国が特に価値の高い地区を「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)」として選定し、市町村の保存事業への財政援助などを行う制度です。平成20年6月現在、重伝建地区は83地区が選定されています。

鞆の浦は、昭和50年の制度創設直後から候補に挙げられ、文化庁の助成をうけ地区指定に向けての町並み調査が3度もなされましたが、現在に至っても未だ重伝建地区に選定されていません。 数々の紆余曲折を経て、重伝建地区選定の前提となる伝建地区の都市計画が、平成20年4月になって、ようやく福山市により決定されました。

これだけの歴史的町並みを残す鞆の浦において、「なぜ?」という感が否めませんが、これには理由があります。

沼隈半島を一周する地域幹線道路の県道鞆松永線は、鞆の旧市街地中心部を貫通していますが、この1kmあまりの区間が江戸時代からの狭隘な道路であり、普通車ですら離合が困難な箇所が随所にあるにもかかわらず、最大で時間数百台の車両通行があり市民生活の大きな障害となってきました。そのため、この県道の拡幅は古くから都市計画として決定されてきました。

一方、鞆の浦の中心地を貫通する道路を拡幅することは、そのまま歴史的町並みの破壊につながります。
そのため、重伝建地区の選定には、道路拡幅計画の廃止(別ルートへの変更)が必須条件をなっていたようです。

歴史的町並みを残す道路を拡幅することなく、中心部の交通渋滞を緩和するために、新たに計画されたのが、鞆湾の架橋・埋立て計画でした。これは、鞆港の一部を埋め立て、県道のバイパスを通すと同時に、観光用駐車場の新設と漁港の再整備を図るもので、昭和58年に港湾整備計画として広島県により策定されました。

これにより、鞆の浦の旧市街地は道路拡幅することなく町並み保存が可能となり、県道拡幅計画の廃止と同時に、城山の南側一帯約8.6haを伝建地区としての指定にこぎつけたのでした。

しかし、鞆の浦の歴史景観は、市街地の町並みだけでなく、鞆湾と遠望する瀬戸内海の自然景観が一体となって形成されるものであり、鞆湾の架橋・埋立て計画はこれを壊してしまうものです。
歴史景観を守る市民団体は、県道バイパスのルートを、鞆湾を通るのではなく、背後の山をトンネルで抜けるルートに変更することを要望しているようです。

架橋・埋立て計画とトンネルバイパス変更案の詳細が分からないので、これ以上のコメントはできませんが、鞆の町を歩いてみた素直な感想としては、鞆湾の架橋・埋立て計画は選択するべきではないと強く感じました。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年7月


参考資料

@「鞆の町並と商家の賑わい」福山市鞆の浦歴史民俗資料館

使用地図
@1/25,000地形図「鞆」「常石」平成12年修測


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