静 岡


霊峰富士を背にして 西国に睨みを利かせた
戦国覇者の居城をもつ 東海一の都市




 

 


 

静岡のまちあるき


静岡は、徳川家康の駿府城築城に伴う城下町建設を起源としています。

昭和15年の大火とその5年後の空襲により町は壊滅状態となったため、町中に古い町並みを見ることは一切ありません。
また、現在では、清水市との合併に伴い人口70万人を超える政令指定都市として、東海一の大都市となりましたが、町の構造は城下町時代の骨格をしっかりと受け継いでいます。

グリッド状の端正な街路構成をもつ旧町屋町は今も繁華街として賑わい、静岡浅間神社門前の浅間通りは今も変わらず人通りが絶えません。
静岡駅前にひっそりと佇む寺社は城下町時代の寺町の名残りであり、戦国の覇者の座した雄大な城郭は今も町の中心にありました。




左:復元された巽櫓、東御門と背後にみえる静岡県庁  右:浅間通りの入口に立つ浅間神社一の鳥居

 


 

地図で見る 100年前の静岡


現在の地形図と約100年前(明治22年)の地形図を見比べてみます。

明治22年の地形図をみると、ほぼ正方形をした広大な駿府城とその南に展開するグリッドパターンの市街地の存在が確認できます。
駿府城の南側に広がる市街地が旧町屋で、その他の疎らな部分が旧武家屋敷です。

この地形図が測量された明治22年に開業した静岡駅は、旧城下町の東端におかれたことが分かります。
当然のことですが、駅前にはまだ市街地は形成されておらず、むしろ静岡駅とは反対側の静岡浅間神社の門前のほうが賑わっていたのではないかと思います。
静岡市街地の西側を流れる安倍川は、広い川幅に比べて、細い流路が蛇行しているのが認められますが、これは現在でも変わらないようで、富士川や大井川などと同じく暴れ川の特長ともいえます。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

静岡の歴史


静岡は、徳川家康の隠居城がおかれた江戸幕府ゆかりの地です。

律令時代には、駿河国府がおかれて国分寺も建立されており、室町中期の頃から「駿府」とよばれるようになりました。

室町時代からは駿河今川氏の居館地となって城下町が整備されたとされ、第九代義元の時代には、「東国の京」と呼ばれるほどに栄えたといわれます。

その今川義元が、永禄三年(1560)、桶狭間の戦いにおいて織田信長に討ち取られた後、駿河は一時的に武田氏の支配下におかれますが、慶長十年(1605)に将軍職を息子の秀忠に譲った徳川家康が、自らの隠居城として駿府城を築き、城下町を大規模に拡張整備します。

現在の静岡市街地は、家康入部に伴う城下町建設を起源としています。

家康の死後は、一時期、第三代将軍 徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐など五十万石を領して駿府藩主となりますが、忠長の改易後には廃藩となり、以降は天領として駿府城代・駿府町奉行所がおかれました。
江戸期を通して、駿府城下には東海道19番の宿場府中宿(現在の伝馬町)がおかれ、駿府城の西側一帯に広がる町屋町は、「駿府九十六ヶ町」と呼ばれるほどの繁栄を誇ります。

寛永十二年(1635)に城下町で発生した火災は、駿府城にも延焼して、天守閣や御殿、櫓などの大半を焼き尽くし、以後、天守閣は再建されずに現在に至っています。

明治維新に伴い下野した駿府藩主徳川家達により、駿府は静岡と改名され、廃藩置県により誕生した静岡県の県庁がおかれます。
明治22年の市町村制施行と同時に静岡市となり、同年には東海道線の静岡駅も城下町の東隣に開設されます。

明治30年、広大な駿府城郭の払い下げを受けた静岡市は、この地に陸軍を誘致します。

本丸と二の丸の跡は、陸軍歩兵第34連隊の駐屯地となり、それを取り囲む三の丸跡には、県庁、師範学校(現 静大付属小中学校、城内中学校)、刑務所(現 文化会館、体育館)、衛生病院(現 葵小学校)などの公共施設が立地し、旧駿府城郭は再び静岡の中心地としての形を整えます。

維新以降、無禄士族に対する救済策として、牧之原台地に多くの士族が入植して開拓作業が始まります。ここでは茶樹を植えることが推奨されたため、現在のような茶畑が広がる日本一の製茶地帯になっていきます。
ここで摘まれた茶葉は静岡城下安西の茶問屋街に集められ、駿府の外港にあたる清水港から船積みされて、東京や大阪に出荷されました。

明治末期からこのルートに沿って順次鉄道が敷設され、昭和初期には問屋街の安西地区から清水港までの全線が開通して、現在の静岡鉄道の前身となります。

昭和15年に発生した静岡大火は、木造家屋が密集する中心市街地を西から東へ横断するように焼き尽くし、これにより城下町の風情が残されていた街並みは焼失してしまいました。
そして、大火後の復興区画整理事業が堵についた矢先の昭和20年、米軍の静岡大空襲により被災世帯25000世帯、死亡2000人に及ぶ被害をだして、静岡市街地は再び灰燼に帰します。

平成15年に、旧静岡市と旧清水市が合併して新静岡市が誕生しました。
現在では、高山市、浜松市、日光市、北見市に次いで、全国で5番目に面積の広い市となり、人口も70万人を超えたことにより、現在は政令指定都市となっています。

 


 

静岡の立地条件と町の構造


静岡市街地の西端を南北に流れる安倍川は、市街地から40kmほど上流の安倍峠、梅ヶ島温泉付近に源をもつ河川で、富士川や大井川などの県内主要河川と同様に、河川勾配の急な荒れ川の性格をもっています。
その安倍川の形成した東西7kmに及ぶ扇状地状三角州に静岡の町は立地しています。

気候の温和な静岡市内には、縄文時代の遺跡が分布しており、駿府城跡から南東約3kmの位置にある約1800年前弥生時代後期の登呂遺跡は、当時の農耕文化を知る貴重な史跡としてとても有名です。




駿府城下町は、賤機山(標高172m)と谷津山(標高108m)の2つの小高い独立丘陵に挟まれた平城 駿府城を中心にして展開していました。
徳川家康により城下町が計画された時代は、すでに全国統一が完成していたので、小高い山頂に築城することもなく、城下町全体を堀や土居で囲む「惣構」とする必要もありませんでした。
戦国の覇者がすわる城は、その権勢を誇るかのように、雄大な城郭をもち、端正な構成をした城下町をもっていたのです。



飛行機窓から撮影した静岡市街地と富士山




駿府城下町の軸線は富士山の方角を基準としたようです。

駿府城大手門の南側に展開していた町屋町は「駿府九十六ヶ町」とよばれたほど大きく、整然としたグリッド状に区画割りされた道路網は、現在の地形図においても見ることができますが、昭和15年の静岡大火以前の地形図では、よりはっきりと確認することができます。(次の明治22年地形図)



駿府城南の町屋町に、8行5列の方形の道路網が形成されているのが分かりますが、この軸線は概ね富士山の方向を向いています。また、道路網はみごとに整形で、城下町によくみられる道路のくい違いや鉤の手などは一切認められません。

この方形の軸線に無関係なのが、浅間神社の参道にあたる現在の浅間通り、藁科街道からつづく茶問屋の並ぶ安西通り、府中宿(現 伝馬町)から江戸に通じた東海道、の3本の道路で、これらはいずれも浅間神社に通じていました。
今川氏の駿河入封以前から駿府の中心に鎮座する古社と、そこに通じる3本の街道の形成する地域に、家康は新たに方形の城下町を重ねたのかも知れません。

8行5列の町屋町の南側の東海道沿いに、少し大きな家屋群が確認できますが、これは、明治期以降も存続していた「二丁町遊郭」とよばれた遊郭街です。

江戸期の駿府城下には7つの遊郭町があったといわれ、やがて5町は江戸吉原に移ったため、残った町数から二丁町遊郭とよばれたのですが、戦争末期の空襲で焼失したため、今ではその名残は全く見られません。
幸町神明宮から本通と新通を越えて南東方向に歩いた場所、現在の駒形通5丁目付近が遊郭跡に該当します。


駿府城下町は駿府城を中心にすえて、西側の低地に町屋町が、東側の高地に武家屋敷地が配され、寺町は町屋町の西・南の端と浅間神社付近に集中していました。
安倍川を渡り西から城下に入る東海道は、大手門前の札の辻を右折して東(江戸の方向)に向かっていました。

そして、霊峰富士山を背に、京の朝廷と西国大名達に睨みを利かせるかように、安倍川を前衛の守りに据え、巨大な城下町を従えるように駿府城は座していました。




駿府城郭は、3重の堀をもつ輪郭式の平城で、本丸北西角に五層七階の堂々たる天守がありましたが、江戸前期の大火により焼け落ちた後、再建されずに現在に至っています。
理由は分かりませんが、本丸を包むように配置された二の丸、三の丸は、それぞれの軸線を微妙に傾けているのが印象的です。

連隊司令部のなくなった戦後は駿府公園として整備されて、野球場、テニスコートや児童会館などが立地していましたが、平成に入ってから次々と撤去され、歴史公園としての再整備が始まっています。



県庁展望台からみる本丸・二の丸跡  中央に本丸堀の一部、右に巽櫓と東御門が見える


児童会館などの施設がすっかり撤去された本丸跡


本丸を囲む本丸堀は、連隊司令部として整備された明治29年に埋め立てられましたが、最近の発掘調査により部分的ですがその姿を現し、本丸堀と二の丸堀をつないでいた「二の丸水路」も復元されています。
この水路は、底にも石が敷いていた珍しい構造をもち、本丸堀の水位を保つ役目を果たしていたとされます。



左:発掘され一部復元された本丸堀  右:二の丸水路


また、二の丸南東角にあった巽櫓が平成元年に復元され、続いて東御門が平成8年に復元されて、徐々にではありますが江戸期の姿を取り戻しつつあります。





復元された巽櫓と東御門


歴史公園化を目指して次々と施設が取り払われた本丸・二の丸とは違い、かつての三の丸では、2つの堀に挟まれた緑豊かな環境の中に、静岡県庁などの公共施設が集中していて、周辺の商業業務系の市街地とは隔絶した落着いた雰囲気をだしています。



静岡県庁本館裏手の二の丸堀


静岡雙葉学園付近の二の丸堀


そんな中にあって、城郭東側の駿府町には外堀がなく、新静岡センターの前から水落の交番まで、かつて外堀があったと思われる場所は商店街になっています。
新静岡駅の近くにあり商業施設としては抜群の立地条件なのですが、ほとんどの店はシャッターが閉まったままで、まったく活気のない商店街です。

明治22年の地形図には外堀の存在が確認できるため、明治30年に連隊司令部が設置された際に本丸堀と同じく埋め立てられたのか、または、昭和15年の大火や20年の空襲の後に瓦礫などで埋め立てられたのかもしれません。



左:商店街の下はかつての外堀  右:石垣の切れた箇所が外堀だったと思われる


歴史的にみたときの静岡の町の特長として、江戸期以来の商業中心地が現在でも繁華街として賑わっていることが挙げられます。

明治期に、城下町時代の町屋町に隣接して静岡駅が配置されたことが最も大きな要因ですが、昭和期の静岡大火と戦災が近代都市への都市構造の変換を促したのかも知れません。

現在の市街地の中心繁華街は呉服町と両替町ですが、江戸期においても、その名のとおり、呉服町は商業、両替町は金融の中心地でした。

特に、両替町は「銀座」の発祥地として有名です。
江戸初期、家康によって、この地に銀貨鋳造所(銀座)が設置されますが、隠居後は江戸に移転してしまいます。それが現在の東京銀座であり、銀座は当初「新両替町」と呼ばれていたそうです。



呉服町通りの町並み


左:両替町通りと七間町通りとの交差点にある「静岡銀座街」と書かれたレトロなビル  右:両替町の町並み


伝馬町は江戸期に府中宿のあった町です。
明治元年、新政府軍が江戸をめざして東海道を下った時、慶喜の命を受けた山岡鉄舟と西郷隆盛が伝馬町で会見し、江戸城の無血開城をなしとげたことは特に有名です。
伝馬町一帯に、現在もビジネスホテルが多く立地しているのは、宿場町の伝統が受け継がれているのかも知れません。


昭和15年に発生し、罹災戸数5100戸に及んだ静岡大火は、中心市街地を西から東へ横断するように延焼して、静岡駅を中心とした市街地南東部を焼き尽くしました。
そのため、災害後に立案された復興区画整理事業においては、東西方向の防火帯として2本の大通りが計画されました。

この時の防火帯の一つが現在の青葉通りです。



左:常盤公園  中:青葉通り  右:正面にみえるのが葵区役所


静岡市役所(葵区役所)と常盤公園を両端に配し、広幅員の通りの中央部は公園化されて、水をテーマにした様々な仕掛けがされています。

静岡市役所本館は、外壁の随所に施されたテラコッタ(装飾用陶器)や、市の王冠をイメージしたドームなど、スペイン風の造形美が印象的な建物です。昭和9年の建築とは思えない斬新で画期的なデザインです。


静岡市役所本館


かつて、城下町の南から真っ直ぐ駿府城郭に向かって延びてきた東海道(現 七間町通り)は、呉服町との交差点(現 静岡伊勢丹の角)で東に折れていました。
この角が、かつて高札が掲げられた札の辻で、静岡城下町のヘソといえます。

七間町通りの突き当たりには静岡県庁本館があります。
昭和12年に完成した帝冠様式の4階建てで、洋風の外壁に和風の瓦を載せて、正面中央にだけ赤褐色の瓦の塔屋を設けて5階建てとし、塔頂を社寺建築風にデザインした和洋折衷の風格ある建物です。



左:静岡県庁本館  右:本館の横にある東館と県警本部の建物


七間町通り沿道には映画館が目に付きます。
東宝会館、東映劇場に加えて静活のピカデリー、ミラノ、オリオン座、有楽座などが軒を並べており、映画全盛期の昭和初期において、七間通りがまさに静岡のメイン通りであったことの証を残していると思います。



左右:七間町通り  少し分かり辛いが両側の建物は映画館


現在の北番町には茶葉の問屋製造業が軒を並べています。
この安西通り茶問屋から、呉服町、鷹匠町(現 新静岡駅)を通り積出港の清水港まで、茶葉を輸送する目的で設立された鉄道が静岡鉄道です。

現在では、安西から鷹匠町までは廃止され、新静岡駅が始発となっていますが、ローカル線の始発駅にもかかわらず、改札口が地下にあるのは、かつてこの駅が途中駅だったことの名残だと思います。

駅前は静鉄バスの一大バスターミナルとなっていて、ビルに囲まれた閉鎖的で不整形な敷地に、数多くの路線バスが発着して、他の都市にはあまり見られない光景がありました。
昭和41年に開業した新静岡センター(商業施設)とともに再開発計画が進んでいるようです。



左中:新静岡駅バスターミナル  右:地下にある改札口


駿府城下町にはいくつかの寺町がありましたが、町屋町の東側にあった寺町は、静岡駅設置により「駅前」となりました。
静岡大火により一旦焼失しましたが、いまでも駅前のビルの谷間にいくつかの寺社をみることができます。



呉服町通りにある小梳神社


左:伝馬町にある宝泰寺  右:御幸町の珠賀美神社   ともに静岡駅から200mほどの場所にある


中町の交差点からは大きな赤い鳥居を見ることができます。
「おせんげんさん」の愛称で静岡市民に親しまれている静岡浅間神社の一の鳥居で、表参道「浅間通り」の入り口にあたります。

神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社からなる静岡浅間神社は、醍醐天皇の勅願によって勧進されたとされ、今川家初代範国が駿河守護になった年に参拝し、観阿弥が能を奉納、徳川家康はここで元服式を行ったと伝えられる格式ある神社です。
文化元年(1804)から60年かけて建築された漆塗り極彩色の社殿群は、国重要文化財に指定されています。



左:中町交差点から見える鳥居  右:浅間神社拝殿


左:浅間神社の境内


家康の葬られた久能山の麓に通じる久能街道、安倍川沿いを北上する安倍街道、安西通りにつながる藁科(わらしな)街道、賤機山の東麓を通り麻機村につづいていた麻機街道など、駿府近郊の街道はすべて浅間通りを起点としており、江戸初期に城下町ができるまで、浅間神社は町の中心地だったのかも知れません。

浅間神社とは、富士山信仰と結びつくものであり、木花咲耶姫命を主祭神として、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市・駿河一ノ宮)を総本社とする神社で、日本全国に約1300社あるといわれ、富士山周辺や富士山が見える関東一円を中心に分布しています。


現在の浅間通りはアーケード街となり、参道らしい雰囲気はさほど感じられませんが、どの店舗もにも来客があって活気にあふれています。
札の辻を静岡市街地の中心とした場合、静岡駅からは反対方向にある町外れに位置しますが、参詣者目当ての古い土産物屋だけでなく、新しい飲食店や服飾雑貨店などの店も数多くみられ、シャッターの目立った駿府町の外堀跡の商店街とは好対照でした。


左:活気のある浅間通り商店街  右:静岡浅間神社の鳥居がみえる

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年5月


参考資料

@「城下町の近代都市づくり」佐藤 滋

使用地図
@1/25,000地形図「静岡西部」「静岡東部」平成9年部分修正測量
A1/20,000地形図「静岡」明治22年測量


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