白 石


武家屋敷の名残りに水音が重なる小城下町




 

 


 

白石のまちあるき


宮城県の南端にあたる白石市の中心市街地は、伊達家重臣の片倉氏の城下町を起源としています。

平成7年に木造で復元された白石城天守と白石独特の温麺(うーめん)が有名な町ですが、最近は、伊達家の先陣を勤めた片倉小十郎を町のキャラクターとして、城下町の歴史を前面に打ちだした町興しが行われています。

町中には武家屋敷地の雰囲気が色濃く残り、豊かな水量で市街地を流れる沢端川などが、町の至る所で水音が聞かせてくれます。

東北の山間にある小さな城下町の町歩きには様々な発見がありました。



 


 

白石の歴史


白石の歴史は、後三年の役(1080頃)で戦功を挙げた苅田経元が、この地を領して築城したのが始まりだといわれています。

その後、伊達氏の勢力下に入りますが、天正十九年(1591)の秀吉による奥州仕置により、白石は会津若松とともに蒲生氏郷に与えられ、家臣の蒲生郷成が白石城を改修して城主となります。

その後、蒲生氏の宇都宮移封により上杉領となりますが、関が原の合戦の直前、伊達政宗は西軍方に組した上杉氏の白石城を攻略し、この地は再び伊達領となります。

慶長7年(1602)、白石城は、伊達政宗の軍師役を長年務めた片倉小十郎に、仙台城の支城として白石一万八千石とともに与えられ、元和元年(1615)の一国一城令の後も、例外的に「城」としての存続が認められます。
以降、明治維新までの260余年の間、白石の町は片倉氏の城下町として栄えました。

明治維新における戊辰戦争では、東北諸藩の代表が白石城で白石列藩会議を開き、奥羽越列藩同盟が締結される。

慶応四年(1868)、鳥羽伏見の戦いにより戊辰戦争の火ぶたが切られます。

会津藩の救済を求めた仙台、米沢両藩主の呼びかけに応じ、奥羽諸藩の代表により白石城で白石列藩会議が開かれ、これは後に奥羽二十五藩と北越六藩による奥羽越列藩同盟へと発展し、白石城に列藩同盟の公議府が置かれます。
しかし、同盟諸藩の相次ぐ降伏により同盟は瓦解し、片倉家と家臣団は白石城を政府軍に没収され、札幌などの新たな開拓地に移住することとなります。

明治7年に白石城は民間払い下げとなり、以降、随時解体されていき、大手門の土台石や石垣の一部が残るのみとなり、かつての本丸と二の丸跡は益岡公園として市民に開放されました。

明治15年には、白石城大手跡に刈田総合病院の前身である宮城県立病院白石分院が開設され、明治20年には、日本鉄道(現JR東日本)により奥州線(現 東北本線)の白石駅が大手から500m離れた城下町東外れに設置されて、城下町白石の都市構造は大きく変化していきます。

日清戦争後の明治30年頃には、渡辺佐吉などが中心となり、白石商業銀行を初め、白石醸造、白石倉庫、そして200人以上の職工を有する郡立の白石製糸機業会社が設立され、駅前には生糸市場を開設されるなど、白石の近代化は大きく前進します。

一方、明治32年に発生した白石大火は市街地の大半を焼野原にし、復興後の白石町人町では、道幅が約13mに広がり、板屋根や萱葺に代って瓦葺の家屋が増え、土蔵造りの店舗が多くなるなど、白石城下町の旧町屋町景観は大きく変化しました。

昭和48年には東北自動車道白石ICが開通してその2年後には東京と結ばれ、昭和57年に東北新幹線の蔵王白石駅がJR白石駅の東1kmに開業します。
駅名のとおり、蔵王への玄関口となることが期待されての命名ですが、現在は蔵王刈田山頂ゆきの路線バスは廃止され、秋の観光シーズンに臨時運行があるのみで、町の期待は大きく外れる結果となっています。

 


 

白石の立地条件と町の構造


白石は、北西方向に蔵王連峰、南東方向に阿武隈山地を望み、四方を山地に囲まれた白石盆地にあります。

白石は、江戸期における奥州街道の延長にあたる仙台道(明治6年に陸羽街道と改称)が通る東北地方の交通の要所にあたり、現在でも、道路は国道4号線と東北自動車道が、鉄道では東北本線と東北新幹線が通る、東北地方の幹線ルートに位置します。

白石盆地北部を流れる白石川は、蔵王連峰南麓に源を発する河川ですが、七ヶ宿ダムを抜けて白石市街地北側を流れた後は、斎川を合わせた後に国道4号線や東北本線と平行して東流し、約20km下流の槻木付近で阿武隈川に合流しています。



白石城は、白石川と斎川に挟まれ、白石市街地の西に位置する標高76m、比高25〜30mのほどの高さの独立丘に城郭の主要部がある平山城です。

平成7年に再建された白石城天守は三階建てで、戦後に復元された白河小峰城(福島県)や掛川城(静岡県)などの木造天守の中でも最大級のものです。

白石城は、南側の尾根筋は空堀(切り通し)で切断し、西側には溜池と湿地帯が広がり、北面と東面を堀と土塁で廻らした城郭でしたが、本丸にだけは高石垣が積まれていました。


大手町にある白石市役所の背後にみえる城山


左:白石城歴史探訪ミュージアムにある城下町模型  空堀(切り通し)も表現され、とても良くできている
右:現在の空堀(切り通し)の様子



元々、本丸の周囲は全面石垣だったようですが、明治初期の城郭解体において、石垣を構成していた石の大部分が持ち去られたらしく、天守再建にあたっては、まず野面積みの石垣から復元工事は始まりました。

木造で再建された望楼型天守の造りは本格的なものです。柱には樹齢数百年の吉野檜や台檜、梁には鳥取産の赤松が使われたそうですが、その一方で鉄砲狭間などのディテールも細かに再現されています。


復元された白石城天守と高石垣


左:木造にて再建された望楼型天守と最上階の内部



白石城の北と東の方向に広がっていた旧城下町を歩いて印象に残るのが、市街地を流れる「用水」とそこから聞こえる「水音」でした。

後小路の武家屋敷跡など東流する沢端川や城山の麓を南流する館堀川は、西益岡町(城下町時代の沼ノ丸・現 白石市営野球場)の手前で流れを分けていますが、ここから1.2km上流の六本松二番の付近において白石川から取水している小川です。



特に市街地を東西に縦断して流れる沢端川は、豊かな水量を誇り市街地の各所で水音が響かせ、白石を「水音のする街」として有名にしています。

沢端川が流れる城下町北部はかつての武家屋敷地で、静かな住宅地になっている付近一帯には、道路沿いに塀が廻り、所々に再建された屋敷門がみられ、今でも武家屋敷地の雰囲気が少しだけ残っています。


沢端川沿いの町並み


旧武家屋敷地の町並み
直線的な道路とブロック塀、所々に復元された屋敷門などがわずかに残った武家屋敷の匂い



なかでも、後小路は中級武家屋敷地の面影をもっとも色濃く残す地区です。
中級武家の屋敷地だった後小路にある旧小関家は後小路南側東端の屋敷で、平成3年に小関家から白石市に寄贈されたのを機に全面的に修復されたものです。


沢端川沿いの旧小関家住宅  屋敷門などが修復保全されている


後小路の旧武家屋敷



一方、館堀川は城山の麓に沿って南に流れています。

城下町絵図をみると、現在の大手町の西側には、苅田総合病院、市役所、ショッピングセンターなどの敷地を南北に貫くように堀割り(内堀)が描かれていますが、ここに水を供給していたようです。
この堀割りが埋め立てられた後、ほとんど小川に近い館堀川は、防衛用の堀割りというよりは、炊事や洗濯など日常生活用水や農業用水に使われたようです。


城山麓を流れる館堀川  左:沢端川との分岐  中右:見るからに人工的な館堀川の流路


二の丸大手門(東口門)の跡  左が本丸・二の丸への上り口、右の崖下に内堀があった



大手町とJR白石駅の間には、かつて町屋町が展開していました。

明治32年の白石大火と駅前商店街として建替えが進んだため、かつての町屋町に古い町並みはほとんど残っていません。
しかし、町中には幾つかの土蔵が散見されますし、駅前通りと本町から中町の交差点に食違いに城下町時代の名残りを見ることができます。


左:本町通りの町並み  右:白石大火後に建築された店蔵が後年に改修された(?)


左:駅前通り沿いに残る土蔵は店舗に再利用  右:駅前通りと本町角の交差点の食違い



道路が食違う本町角は、城下町時代に枡形のあった場所です。
最近まで高甚本店のあった跡地で、現在では綺麗に整備されて「すまi(い)る広場」となっています。
広場に隣接する壽丸(すまる)屋敷は、明治中期の店蔵、数棟の土蔵や書院屋敷、大正時代の母屋などが建ち並ぶ、明治期に興った白石を代表する豪商渡辺家の住宅でした。


本町角の高甚本店跡地に整備された「すまi(い)る広場」


左:中町通りの壽丸屋敷店蔵  保存状態は良好だがアーケードが架かって全貌がよく見えないことが残念
右:店蔵の横にある土蔵も重厚感のある本格的なもの

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年9月


参考資料
@「城下町「白石」 白石城とその周辺」

使用地図
@1/25,000地形図
 「白石」「白石南部」平成12年修測   「白石東南部」「大河原」平成13年修測


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