仙 台


複雑な段丘地形にダイナミックに展開する 「杜の都」




 

 


 

仙台のまちあるき


仙台は、人口100万人を擁する東北地方における圧倒的な大都市です。
戦災により古い町並みはひとつも残されていませんし、「杜の都」の象徴のように語られる街路樹も戦後に植えられたものです。

それでも、仙台は楽しい町歩きができます。

仙台町歩きの面白さは、複雑な地形上にダイナミックに展開する市街地景観にあります。

大きく蛇行し荒々しい河岸をみせる広瀬川、その60m上の断崖上にあ仙台城本丸、そこから一望できる大都市仙台は、市街地を囲む丘陵地にある寺社との位置関係を基準にして、広瀬川の河岸段丘上に広く展開しています。

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定禅寺通りのケヤキの街路樹  右:仙台駅前


愛宕神社から見下ろせる仙台市街地

 


 

地図で見る 100年前の仙台


現在の地形図と約100年前(昭和3年)の地形図を見比べてみます。


昭和3年の地形図をみると、仙台城下町が、北西南を山地形に囲まれた懐深い場所に建設されたことが分かります。

市街地は北東南の3方向に大きく進展していますが、特に南北の山地形がまったく消えてしまい、郊外住宅地が一面に広がっているのが特徴的です。

東京方面から北上する東北本線は、広瀬川を垂直に渡河し、S字に大きくカーブして仙台駅に着いた後は、再び北東方向に北上していきます。旧城下町を横断せず、仙台中心部に極力近い場所に仙台駅を設置したため、このようなルートになったのだと思います。
山形へ向かう仙山線が、仙台駅をでた後に一旦北東方向に大きく迂回し、それから台原や北山の尾根筋を西方向に進むのも、かつての城下町を避けたためだということがわかります。  ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

仙台の歴史


伊達政宗による城下町建設


関が原の戦い直後の慶長六年(1601)、奥州の雄 伊達政宗が新たな築城の地に選んだのが青葉山麓で、広瀬川から高さ60mを超える断崖の上に山城を築き、そこから見下ろす対岸の河岸段丘上に城下町を開きました。

仙台平野は東北地方の中心にあり、陸奥国府の多賀城(現 多賀城市)を始め、古代中世の城郭、寺社が多数立地していた地域でしたが、仙台平野西山麓の青葉山付近には、天満寺虚空蔵堂(現 太白区愛宕山)や龍川院(現 若林区新寺龍泉院)などの寺院があった程度で、それ以外は谷地と原野だったといいます。

戦国の余慾を胸に秘めた34歳の政宗は、この地に、東西百三十五間(245m)、南北百五十間(267m)に及ぶ広大な本丸をもつ仙台城と、人口5万人余りを要する巨大な城下町を造り上げます。

仙台城郭の規模は、佐竹氏の久保田城(秋田)、最上氏の山形城など、大規模な城郭が多い東北地方にあっても群を抜き、恐らく当時の諸大名の中で随一の広さだといわれています。
また、「仙台」の呼び名も、中国古代の首都長安の郊外にある丘の名前から、築城時に命名されたとされ、政宗の大きな抱負を伺わせます。


寛永十五年(1638)、二代藩主忠宗により、大手門の奥で本丸から50m低い平地に二の丸(現 東北大学川内キャンパス)が造営され、幕末まで政務場及び藩主館として機能します。
現在、仙台市博物館のある三の丸もこの頃に造営されたといわれ、仙台城は築城から約40年たって形を整えたようです。

承応三年(1654)、忠宗は家康を祀る東照大権現を勧請し、そこにあった天神宮を榴岡に移します。東照宮の門前には御宮町が生まれ、仙台駅東の榴岡には今につづく天神宮が遷座することになります。

四代藩主 綱村の元禄期(1700頃)には、新たに城下の東郊外の榴岡に釈迦堂が、北に黄葉宗萬寿寺、南に同宗大年寺が建立されて、城下町はより外延部に広がります。

元禄期における城下町の人口は約6万人と推定され、これが人口においても城下町域においても最盛期だといわれています。


杜の都 仙台


仙台は「杜の都」といわれています。

江戸期の仙台藩武家屋敷地においては、隣地との境界には生垣があり、庭には桃・柿・梨・梅などの果樹が植えられ、菜園からは四季折々の野菜が収穫され、裏庭には竹藪があって笥が食膳にのぼったといわれます。

これらの屋敷林は明治期にはいっても保持され、寺社の樹林や広瀬川の河畔そして青葉山などが一体となって、終戦直前の仙台空襲により町が焼失するまで、町全体が緑に包まれた仙台は「杜の都」と称されるようになりました。

このような屋敷林を育てたのは、城下を縦横に流れる四ツ谷用水でした。
城下町外れの大崎八幡付近から広瀬川を2.4km遡った郷六に取水口があり、4つのトンネルをくぐって城下町に水を供給していました。
郷六取水口から用水本流の端(東照宮付近の梅田川合流地点)まで、7.2kmの距離を標高差25m(勾配 1,000分の3.5)で流し、本流、支流、枝流なども入れた用水路総延長は44kmにもあったといわれ、段丘上に位置する城下町に豊かな水の恵みをもたらしたのです。

戊辰戦争において、仙台伊達藩は奥羽越列藩同盟の盟主に担ぎ上げられますが、同盟の瓦解によりなし崩し的に恭順、開城となり、明治政府より賊軍盟主の責任を問われ、二十八万石に減封されてしまいます。

維新後、仙台には東北鎮台がおかれ、これが第2連隊へと継承され、明治21年には第2師団となり、司令部が仙台城旧二の丸(現 東北大学川内キャンパス)におかれて、以降、仙台は軍都としての歩みを始めます。
第2師団は、日露戦争において黒木第1軍下で遼陽会戦、奉天会戦などに参戦して大量の戦死者を出し、これを祀うため仙台城本丸跡に招魂社(護国神社)が建立されました。

招魂社建立を契機にして仙台城本丸が一般開放され、市民たちは初めて、城郭から緑に包まれた仙台旧城下町を眺めることができました。
仙台の発展と本丸跡の一般開放が重なった明治後期から、仙台は「杜の都」と称されるようになり、大正期には仙台の異名として定着したのでした。


昭和20年7月10日未明、123機に及ぶB29の空爆は約1000人の死者と12000戸の罹災家屋を生み出し、仙台都心部全域が焦土と化して杜の都は姿を消します。

戦後、失われた屋敷林に代わって、仙台の杜を復活させたのは街路樹でした。

戦災復興事業により、仙台都心部では城下町時代からの道が大幅に拡幅され、広瀬通り、青葉通り、定禅寺通りに代表される大通りが縦横に整備されます。

青葉通りでは、昭和25年頃から街路樹に順次ケヤキが植えられていき、徐々に仙台の杜は復活していきます。道路拡幅工事や地下鉄工事が行われるたびに、撤去と植樹、植え替えが繰り返され、昭和51年の路面電車の廃止により、拡幅された歩道と中央分離帯に植樹が進みました。

いまでは、道路を覆いつくすほどの木々に育ち、屋敷林に代わり街路樹が「杜の都」の代名詞になりました。
特に、定禅寺通りの4列のケヤキ並木はまったく見事で、夏にみられる緑のトンネルは恐らく日本一の並木だと思います。
そして、昭和53年に日本レコード大賞を受賞した、さとう宗幸の「青葉城恋歌」は、仙台に「杜の都」のイメージを定着させ、その知名度を全国的に上げる契機となりました。


東北における巨大都市 仙台


明治20年に東北本線が塩釜まで開通して仙台は東京と直結します。
仙台駅が城下町の東端に開設され、国分町の宿場としての機能は低下する一方で、駅に近い東一番丁と中央通りが発展しだします。

昭和3年には仙石線が石巻まで開通し、昭和12年に仙山線が山形まで全通し、仙台は周辺諸都市の結節点となり、東北帝国大学などの教育機関や国の出先機関などが相次いで設置され、仙台への一極集中が始まります。

市制100周年の平成元年に政令指定都市となり、その10年後には人口が百万人を超えました。現在、仙台に次ぐ東北地方の都市は30万人前後(いわき市・郡山市・秋田市・青森市・盛岡市・福島市)の規模であり、仙台は東北地方で圧倒的な大都市になっています。
ここまでの一極集中は他の地方には見られないもので、東北地方・仙台の特徴だと思います。

また、仙台は東北地方全域の交通結節点でもあります。

昭和57年には東北新幹線が大宮〜盛岡間で開業し、平成19年には仙台空港まで鉄道が延伸(空港アクセス線)、仙台駅と空港が25分程で直結することとなります。

これにより、仙台から東北新幹線を利用することで、東京まで1時間40分、盛岡まで45分、福島まで25分、秋田新幹線により秋田まで2時間30分で結ばれ、従来より仙山線で約1時間の距離だった山形を加え、東北地方の隣接県庁所在都市と直結し、仙台は東北地方における紛れもない交通の要所となりました。


このような立地条件の下で、戦後の仙台は、「杜の都」だけでなく「支店経済都市」「学都」ともよばれるようになりました。

仙台は、東北地方の中心にあり、戦災復興によるインフラ整備が進んだためか、高度成長期以降、全国の大企業が続々と支店を開設していきます。現在では、市内全事業所に対する支店(本社県外)の占める割合が35%にも上り、他の政令指定都市に比べて圧倒的に高くなっています。
これは、都市規模の大きさを表す一方で、基盤となる産業が少ないことも示しています。

また、仙台は、東京、京都に次いで学生比率が高いことから、古くから「学都」と呼ばれてきましたが、入学者の地元出身者比率と卒業後の地元定着率が共に低いことが問題点で、これは支店経済都市であることと無関係ではありません。

仙台にはこのような特徴があるため、企業の人事移動、学校の入学卒業のシーズンである春には、毎年2万人程度の転出入があるといわれています。

 


 

仙台の立地条件と町の構造



東北地方の太平洋側の地形は、岩手県と宮城県と福島県で、様相が大きく異なります。

岩手県の太平洋岸においては、八戸から牡鹿半島まで急峻な北上山地が太平洋に落ち込み、リアス式海岸とよばれる出入りの激しい海岸線が続きます。北上山地の西麓を南流する北上川は、盛岡付近を上流域として、花巻、平泉を通り宮城県石巻にて仙台湾に注いでいます。

福島県の東域にある阿武隈山地はなだらかな山地で、いわき、相馬などの位置する太平洋岸の浜通り地方では、緩やかな海岸線が続きます。福島県の中心は、福島、郡山などが位置し、奥州街道や東北本線が走る中通り地方であり、那須山麓の白河を源とする阿武隈川は、中通り地方を北流して仙台平野南端の名取付近で仙台湾に注ぎます。

一方、宮城県の太平洋岸には、広大な仙台平野が広がり、長浜とよばれるほど長い砂浜の海岸線が続いています。
岩手県から南流してくる北上川と福島県から北流してくる阿武隈川に加えて、奥羽山脈から東流する鳴瀬川や名取川などの河川が仙台平野を形成しているのです。



左:  右:





仙台平野を形成する名取川の支流である広瀬川は、宮城県と山形県を分ける面白山(1264m)に源を発し、仙山線に沿って東流して、青葉山の北東麓を蛇行しながら仙台平野に流れ出ています。


昭和初期の地形図をみると、仙台城下町がどんな場所に立地したのかが良く分かります。

北を台原や北山の丘陵地、西を青葉山や経ケ峯、南を愛宕山や大年寺山など、標高百数十mの小高い山々に囲まれ、東に広がる宮城野とよばれる沖積平野から奥まった場所に、仙台城下町は開かれました。




奥羽山脈から宮城野に流れ出た広瀬川は、青葉山麓の断崖沿いを大きく蛇行しながら南東に流れ、その下流で名取川と合流しています。

広瀬川の流路は、地形図だけをみると、城下町建設時に付け替えられたようにみえます。しかし、広瀬川左岸は低位の河岸段丘面であり、現地を歩いても広瀬川方向に緩やかに傾斜しているのが分かり、古来からこのような流路をとっていたようです。

寛文四年(1664)の城下町絵図を参考に、旧城下町の範囲を緑色で表示しましたが、維新から60年以上たった昭和3年においても、市街地範囲は江戸期の城下町と大きな違いがありません。

山間の懐から宮城野方面への広がりは見られませんし、仙山線を超えて北側、つまり現在の泉ニュータウン方面にも市街地は広がっていません。
昭和初期における仙台の人口規模に対しても、城下町は十分に大きかったようです。


また、この地形図から、仙台城が、広瀬川を天然の外堀とした要害の地にあることと、広瀬川左岸に展開する城下町の街路配置がグリッドパターンであることも分かります。

しかし、そのグリッドは東西南北方向から微妙に反時計回りに傾いていて、それが何を基準線にしているかは、この地形図から読み取ることはできません。




城下町の街路配置の基準線は、仙台城本丸と城下町外延部の寺社との位置関係に求められるといわれます。
この位置関係を、市街地が拡大する前の昭和初期の地形図に現したのが下図です。



城下町の町割りの基準線となったのは、仙台城本丸と榴岡の丘(現 榴岡天満宮)を結ぶ東西方向の線です。

この基準線を北に平行移動して、大手門から東に延びる大町、新伝馬町が東西幹線として線引きされました。
これが現在の中央通り(アーケード街)にあたります。

南北方向の基準線は、向山の愛宕神社から東西基準線に直交する線で、これが北山にあたった場所に青葉神社(東昌寺)があります。
この南北基準線が、かつての奥州街道にあたる国分町通りであり、東西、南北の両幹線の交わった場所が「芭蕉の辻」とよばれる交差点です。

そして、旧城下町のほとんどの道路は、この両基準線に平行する形で配置されました。


青葉神社(東昌寺)、大崎八幡宮、東照宮(旧 天神社)の三寺社は、いづれも芭蕉の辻から等距離にあり、しかも、東照宮と大崎八幡宮を結ぶ線は東西基準線と平行しています。つまり、この三社は芭蕉の辻を中心として、45度の角度で同心円上に並んでいることになります。

明治期に創建された青葉神社は明治初期に創建されたもので、それ以前この地は隣接にある東昌寺境内でした。 東照宮は江戸初期に創建されたもので、それ以前は現在榴岡にある天神宮がありました。

このようにみると、城下町建設時において、伊達政宗は、芭蕉の辻を中心に、東昌寺の左右に天神社と天満宮を扇状に、そして背面に愛宕社を配し、その中に城下町を計画したのではないかと考えられます。



天守の築かれなかった仙台城において、天守の代替機能をもった建物が「御懸造」といわれるものです。 城下町を一望できる本丸東端の崖ふちから迫り出すようにあったといわれ、広大な本丸の中で、この建物が仙台城下町の町割りの基点になったのではないかといわれています。


本丸跡から市街地中心部をみる  右手には伊達政宗騎馬像


仙台城は、南に竜ノ口峡谷、東には広瀬川に面した断崖、西は青葉山の自然林に守られた天然の要害で、本丸への登城は北側の二の丸、三の丸方面からに限られていたため、数少ない石垣と堀はこの方面に集中していました。
石垣の名残が本丸の北面石垣で、三の丸の堀の名残が長沼と五色沼です。


再建された本丸の北面石垣  鳥居は明治期に本丸跡におかれた護国神社のもの


三の丸跡(現 仙台市博物館)の北にある五色沼は内堀の跡


本丸東の断崖は、いまも広瀬川左岸の花壇地区から見ることができます。100万都市の中心部にあって、このような断崖地形がみられることは非常にめずらしいことで、地形的にみてとても特徴ある場所に城下町が築かれたことが実感できます。



花壇地区からみた断崖  崖面はその下を流れる広瀬川の浸食作用によりできた


本丸南にある竜ノ口峡谷には、現在橋が架かっていますが、橋上から谷底を覗くと眩暈がするほどの深い渓谷で、特殊な仙台の地形を代表する峡谷です。



左:峡谷にかかる橋  右:橋上から見下ろした竜ノ口峡谷


大手門は本丸への登城口にあたる門で、戦前まで現存し国宝にも指定されていましたが、仙台空襲で焼失してしまいました。
大手門の手前の広瀬川には、仙台城郭と城下町を繋ぐ、幅8m、長さ120mに及ぶ威風堂々たる大橋が架かっていましたが、現在、大橋はRCの車道橋に架け替えられ、大手門跡には隅櫓が復元されています。



左:再建された隅櫓  右:青葉山公園(三の丸跡)の東面にある石垣(再建)



仙台には数多くの寺社があり、その多くは北山と榴岡に集中しています。

青葉町から新坂町までの北山には、城下町の南北基準線の基点となっている青葉神社があります。

青葉神社は明治期に創建されたもので、それ以前、この場所は隣接の東昌寺の境内であり、南北の基準線の北端は、伊達五山のひとつである東昌寺が担っていました。
青葉神社は、政宗を祀る社で、もともとは仙台城郭内にありましたが、明治7年に県社に列せられ、現在の地に造営移転したものです。



左:青葉神社  中:東昌寺参道  右:東昌寺境内


東昌寺は、満勝寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺と並ぶ北山五山のひとつです。
仙台藩伊達家は、京都五山、鎌倉五山にならって、城下町建設にあたって伊達(北山)五山と称される寺院群を創設しました。
これは、仙台に本拠を移す前から伊達家と関わりの深い寺を、政宗が仙台に移った際に、城下町の北外延部にある北山の地に集めたもので、いずれも道路から急階段を上ったところに山門があります

五山の南の新坂町にも数多くの寺社が立地していますが、町中に寺町の雰囲気はあまりなく、一般的な市街地に多くの寺社が点在しているという感じです。



左:旧奥州街道 北山五山の道  中:五山のひとつ覚範寺  右:新坂町にある寺



青葉神社から東西方向、それぞれ2kmほど離れた場所に、東照宮と大崎八幡の2つの神社があります。


大崎八幡宮は、室町期に奥州管領大崎氏が自領内に勧請したものですが、大崎氏滅亡後に政宗が仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀ったものです。
権現造りの建物としては、京都の北野天満宮と並んで桃山時代の最も古い建物であり、国宝に指定されています。

河岸段丘上に築かれた仙台城下町では水の確保が難しく、青葉川上流の郷六で取水した四ツ谷用水が城下を縦横に走っていたことはすでに述べました。今ではそのほとんどが埋め立てられましたが、八幡宮参道入り口には水路跡の古い石垣が残っています。


大崎八幡宮の境内  本殿は国宝  手前の拝殿も重文


左:八幡宮本殿  中:参道  右:橋はかつての四ツ谷用水跡に架かる



東照宮は、第二代藩主 伊達忠宗が東照大権現を勧請したものですが、この場所には、城下町建設以前から、いま榴岡にある天神宮がありました。東照宮の創建により門前には御宮町が生まれたといわれますが、道路の方向は城下町の南北基準線と合致していません。
この御宮町は、城下町建設以前から天神宮の門前町として発生したのかもしれません。
現在、御宮町の名残はありませんが、本殿から拝殿、山門、鳥居へと続く軸線の延長上に道路が南に延びています。


左:宮町通りの先に見える東照宮  中:東照宮山門  右:山門から一直線に延びる宮町通り



仙台城本丸とともに東西基準線を構成する榴岡の丘には、榴岡寺町の中心である天満宮が鎮座しています。

今でも、榴岡宮から南方向、新寺、連坊から南加治屋町にいたる範囲に50近い寺社が立地しています。寺町といっても、広い幹線道路沿いに高層マンションや事務所ビルが建ち並び、その谷間に寺院が点在しています。静かな通りに土塀と山門が並び、読経の声が聞こえるという寺町の雰囲気は全くありませんが、いずれの寺院も立派な伽藍をもっています。これらを維持していくだけの経済規模を仙台城下町はもっていたようです。



左:榴岡天満宮  中右:市街地の中に伽藍を広げる新寺町の寺院


この天満宮は、天延二年(974)創建と伝えられる古刹で、何度か遷座した後に、現在の東照宮の位置にありましたが、慶安三年(1650)の東照宮建立に際してこの地に移されたものです。


数ある寺社の中で、最も面白い場所に位置するのが、向山にある愛宕神社です。
広瀬川右岸の断崖上にあり、仙台城本丸跡と同様に、ここからも仙台市街地が一望できます。
愛宕社に隣接する天満寺虚空蔵堂は、政宗の仙台城築城以前からここにあったとされ、この場所が仙台の要害の地であることが分かります。



左:  右:丘陵地にある愛宕神社からも市街地を一望できる


旧城下町の南北基準線である国分町通りは、城下町を南北に縦断していたかつての奥州街道で、仙台市街地の中心部では最も長い直線道路ではないかと思います。
現在、この通りの国分町から一番町にかけては、東北一の歓楽街となっています。

東西・南北の基準線の交差点は「芭蕉の辻」とよばれ、かつての仙台町屋町の「へそ」ともいえる中心でした。そこには、城郭風の豪壮な商家が四方を固め、その先にある大手門の威容と対をなしていたといわれますが、現在はその面影は全くありません。



左中:国分町通り  右:かつての芭蕉の辻


街割りの基準線に加えて、仙台城下町の町割りにはもうひとつ特徴があります。

それは、大きな土地利用区分として、町屋地区と武家屋敷地区が郭により区分されなかったことです。

仙台城下町は、そのほとんどが武家屋敷地で、そこに町屋町が街道筋に沿って帯状に展開しているだけで、町屋町には町としての広がりがまったくありませんでした。

江戸前期の記録によると、約1500軒の町屋に対して組士以上の武家屋敷で倍の3000軒以上、足軽、御抱職人の屋敷まで含めるとさらにその倍の軒数があったといいます。一軒あたりの敷地面積も武家屋敷のほうがはるかに大きかったので、土地利用的にみると、仙台城下町は圧倒的に武家の町だったといえます。


また、かつての武家屋敷地は「丁(チョウ)」、町屋町や足軽屋敷地は「町(マチ)」と呼ばれて区分されていたようで、昭和に時代に新町名に再編されるまで、市内の町名には「丁」と「町」が混在していました。
国分町は「コクブンチョウ」と呼ばれていますが、もともとは奥州街道の町屋町であったので、本来は「コクブマチ」と呼ぶのが正確なのだと思います。




現在の仙台の中心商店街である中央通りには、場所により「ハピナ名掛丁」(名掛丁)、「クリスロード」(新伝馬町)、「マーブルロードおおまち」(大町)と3つのアーケード名がついています。

3つに分かれているのは、商店組織が旧町名単位になっているためですが、町名に「町」と「丁」が入り混じるのは、このアーケード街がかつての武家屋敷地と町屋町にまたがっていることによります。
「名掛丁」は中級武家屋敷地、「新伝馬町」はその名の通り江戸期の宿駅で、「大町」は町屋町の中で筆頭の町でした。

また、名掛丁と新伝馬町の境にはかつて四谷用水が流れ、中央通りを斜めに横切っていたといいます。ここでアーケード蓋の構造や路面舗装の模様が斜めに切れているのは、ここが町界であり、アーケード街が町丁単位で構成されているためです。



左:中央通りアーケード  中:ハピナ名掛丁(名掛丁)とクリスロード(新伝馬町)の境界が斜めに横切る  右:路面舗装の模様も斜めに換わる


中央通りに直交する一番町アーケード街は、仙台の老舗 藤崎百貨店や昭和8年に開店した三越百貨店が立地する仙台市の中心商業地区です。

このアーケード街にも、場所により「一番町四丁目買物公園」、「ぷらんどーむ一番丁」、「サンモール一番町」と3つの名前がつけられていますが、ここでは「一番町」と「一番丁」が混在しています。

一番町のアーケード街は、かつて「東一番丁」とよばれていました。

昭和40年、住居表示が「通り(町・丁)」単位から「ブロック」単位に変更されるにあたり、東一番丁周辺の商業地ブロックは「一番町」と名付けられ、城下町時代の武家屋敷地の名残りである「丁」は、町屋町を示す「町」に書き換えられたのですが、部分的に「一番丁」の呼称が残されたようです。

東一番丁は、かつての仙台一の繁華街であった国分町の東に位置した中級武士の屋敷地にあたり、明治以降、士族の転出による衰退を憂いた旧仙台藩の重臣 山家豊三郎が商店を誘致したのが始まりです。

彼はこの辺りにあった自邸内に数十戸を建てて「山家横丁」と称し、藩士たちに商売をさせ、それ以後、東一番丁沿いには、芝居小屋、映画館、喫茶店などが立ち並ぶようになり、国分町の裏町、新興の商店街として賑わうようになります。
一番町は、商業分野における士族授産の場が発祥だったのです。



左:一番町の北端にある勾当台公園  中:一番町四丁目買物公園には天蓋がない  右:ぷらんどーむ一番丁



東北三大祭りのひとつである七夕祭りは200万人以上の人出で賑わい、その主会場が中央通りと一番町の商店街です。

七夕の行事は政宗の時代からあったようですが、明治以降廃れていた祭りが、大々的に復活したのは昭和3年のことです。東一番丁、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなど11町会が共同で、仕掛け物、電飾と様々な趣向を凝らした七夕飾りを飾ったのが始まりで、現在、七夕飾りの大きな目玉となっている「くす玉」は、昭和21年に考案されたものが広がったといわれています。
市中の商店街が自らの名誉をかけて華美を競い合い、全国でも類を見ない華麗な七夕祭りになったようです。


これらのアーケード街から脇道にそれると、横丁や小路と称される戦争直後からのバラック商店街が残されています。

一番町の三越裏手にある「東一連鎖街」がその代表格でしょう。

一番町商店街と国分町の間の南北の通りは稲荷小路と呼ばれていますが、この小路と商店街を東西に結んで、えびす通り、大黒通り、布袋通り、弁天通りという4つの小路があり、これを総称して東一連鎖街とよばれています。もうすぐ取り壊されて高層ビルに再開発されるとの記事がありましたので、もう一度急いでいってみたいと思います。



一番町から一歩入った「東一連鎖街」


サンモールにある「壱弐参横丁」には、惣菜店・鮮魚店・八百屋などが軒を並べていますが、ここは昭和21年に戦後初の公設市場として開設されたのがきっかけです。
おなじく、「文化横丁」大正13年に誕生したもので、かつて横丁にあった活動写真館「文化キネマ」にちなんで名づけられたといいます。



左:壱弐参横丁  中:横丁から出入りしていたアパートや美容院  右:文化横丁を横から見るとバラック


 


 

歴史コラム

仙台名物 牛タン定食

 

JR仙台駅の駅ビル内に「牛タン通り」なる食堂街があります。
その名の通り牛タン専門店が軒を並べ、各店嗜好を凝らしたメニューを揃えて観光客のお腹を満たしています。

タン塩をだす焼肉屋やタンシチューをメニュに揃えるレストランは珍しくありませんが、牛タン専門店はほかの街中にはあまり見かけません。
しかし、駅ビル以外でも、仙台中心部には牛タン専門店が結構目につきます。

専門店での定番の牛タン定食は、各店で少しずつ違いはありますが、牛タン塩焼きに麦飯、テールスープ、そして白菜漬けと南蛮(赤唐辛子)味噌漬けがつくのが基本メニューのようです。

ところで、日本において牛肉を食する習慣ができたのは明治期以降であり、仙台に牛タン文化が生まれたのは戦後になります。

仙台に進駐した米軍が大量に消費する牛肉の残り部位であるタンとテールを有効に活用するために、仙台の焼き鳥店が牛タン専門店を開業したことが仙台牛タンの始まりといわれています。
高度成長期以降、仙台への単身赴任サラリーマン達が全国に牛タンを広め、平成3年の牛肉輸入自由化がそれに拍車をかけたようです。

しかし、アメリカ進駐軍は仙台だけにいたわけではありませんし、誕生の経過、脂肪のつき具合、そして価格面からも、材料の牛タンはその殆どが地元牛ではなくアメリカ産を使用しています。
牛タン焼きが仙台名物になる必然性はみあたりません。

牛タンが珍味であった時代から、食文化のひとつに育てようとした専門店主らの弛まない努力が、「仙台牛タン」を全国ブランドにしたのかもしれません。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.2〜9


参考資料

@「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」
A「日本都市史入門T 空間」東京大学出版会

使用地図
@1/25,000地形図「仙台西南部」「仙台東南部」「仙台西北部」「仙台東北部」平成10年修正
A1/25,000地形図「仙台西南部」「仙台東南部」「仙台西北部」「仙台東北部」昭和3年修測


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