佐 倉
下総台地の丘陵地に展開する総州一の城下町
佐倉のまちあるき
総州一といわれる佐倉城下町は、下総台地の端の複雑な丘陵地上に広がっていました。 |
左:撞木町武家屋敷の町並み 右:佐倉(成田)街道沿いに残る土蔵造りの商家 |
地図で見る 100年前の佐倉 明治大正期の地形図が手に入らなかったので休みます。 |
佐倉の歴史
近世の佐倉城の起源は、千葉氏の一族であった鹿島幹胤が、現在、佐倉城跡となっている鹿島山に築城したことに始まります。 |
佐倉の立地条件と町の構造 千葉と成田の中間に位置する佐倉は、印旛沼の南に広がる下総台地の一角を占め、馬の背のように東西に幅狭く延びた標高30m程度の洪積丘陵上に広がっています。 小さな谷筋が襞のように複雑に入りこむ丘陵地は、現在では丘陵地の上も下も宅地化されていますが、丘陵を形づくる斜面崖地には、航空写真でくっきりと分かるほど、きれいに緑地帯が残されています。 一方で、利根川の溺れ谷として形成された印旛沼は、近世まではW字型に広がる大きな沼でしたが、戦後の干拓事業により、現在では2つに分断された小さな湖になりました。 下図にある印旛沼中央排水路は、埋め立てられた印旛沼の名残です。 佐倉旧城下町の広がる丘陵の南北両側をながれる河川は、佐倉城の西を北流する鹿島川に合流し、やがて印旛沼に流れ込みます。 佐倉城下町の南北西の三方は沼地で、東の下総台地から延びた尾根筋の先端に佐倉城は建設されたことになります。 旧城下町の、南側にあるのがJR佐倉駅、北側にあるのが京成電鉄佐倉駅、その両駅どちらからも、急坂を登らなければ旧城下町に入ることはできません。 江戸初期、土井利勝が現在の地に佐倉城を築くまでは、約4km東の本佐倉(現 印旛郡酒々井町上本佐倉根古屋)に歴代の佐倉城主の本拠がおかれていたようです。そこには「将門」の地名があるように、本佐倉城は平将門が築いたという伝説があります。 佐倉街道は大手門前で城下町に入り、丘陵地の尾根筋を通り酒々井(しすい)町の旧宿場町を通り成田方面に続いていました。成田の発展に伴い江戸中期からは「成田街道」と呼ばれるようになったようです。 現在、「鏑木(しゅもく)町」という地名が丘陵地の南北に分かれて存在していますが、これは、もともと丘陵地を含む広い地域が鏑木村と呼ばれていて、これを分断する形で佐倉城下町が構築された名残といわれています。 現在の地形図に、丘陵の端にあたる斜面崖地を記載して、城下町時代の町割りを重ねたのが下図です。 丘陵地の上、谷筋と尾根筋が複雑に入り込んだ地形に合わせるように、佐倉の城郭と城下町は配置されていました。 城外の低地からみると、丘陵地崖面の緑地が遠くまで細長く続いているだけで、その上に城下町が広がっていることは全く分かりません。
東から延びてきた丘陵尾根の先端に佐倉城がおかれ、その東と北に2つの曲輪が配置されて城郭を形成していました。 城郭の東、大手門の辺りがやせ尾根になっていますが、その東隣には佐倉の総鎮守たる麻賀多神社があり、その両側を丘陵の枝尾根に沿う形で武家屋敷地が配置されていました。 大手門から東に延びる新町通は主尾根筋にあたり、沿道には佐倉六町とよばれた町屋町が形成されていました。ここから南北に伸びる枝尾根には、海隣寺や甚大寺などの寺社が配されています。 佐倉城郭は、複雑な丘陵地形を巧みに利用して、外堀を丘陵地麓に回し、台地上には幾重にも深い空堀を配して、本丸から二の丸、三の丸、その東の天神曲輪、北の椎木曲輪を区画して、要所には馬出し(出丸)を配置していました。 南側の城外の低地には、江戸期の城下町絵図に描かれた外堀と出丸、そして土塁が復元整備され、往時の佐倉城郭の姿をいまに伝えています。
堅牢な石垣をもつ西日本の近世城郭とは違い、石材の入手が困難だった関東においては、石垣を用いず土塁と空堀で城郭を構築した城が数多くみられますが、房総一ともいわれる規模を誇る佐倉城にも石垣は全く使われていません。 かつては、三層天守と本丸御殿をはじめ、櫓や九つの城門がありましたが、現在では、往時の建造物は一切残されていません。 本丸や二の丸には数多の桜が植樹され、城跡公園して市民の憩いの場所となっていますが、急峻な丘陵崖面と空堀が幕府重鎮だった土井利勝の築いた要害堅牢な名城の名残を見せてくれます。
国立歴史民俗博物館の立地する椎木曲輪には、江戸期には上級家臣の武家屋敷地がありましたが、廃藩置県後は、ここに陸軍の佐倉営所や歩兵第二連隊、第五十七連隊の兵営がおかれました。 現在、佐倉東高校や佐倉中学のある天神曲輪も上級武家屋敷地でしたが、今では往時の名残は全くなく、江戸期の広小路と同じ場所に一直線に道路が通るのみです。
旧城下町の絵図と現在の地形図をみていると、城下町の中心は麻賀多(まかた)神社にあったように思えます。 麻賀多神社は、佐倉藩代々の藩主の崇敬を受けてきた佐倉の総鎮守ですが、現在の社は、住宅地の中に小さくひっそりと佇んでいて、本殿は、尾根筋の東西方向ではなく、印旛沼に背を向ける形で、南方向を向いています。 この社は「延喜式」にもみることができ、古代からの農耕神を祀っているそうです。 千葉県は、古来から麻の産地であり、上総、下総の「総」は「麻」を表しているそうで、「佐倉」という地名も「麻の倉」が転じたものといわれています。 それだけに、麻賀多神社は、佐倉市内だけで11社、周辺を合わせると20近くもの社がありますが、印旛沼の南東部にかけての地域にしかない、とても地方色の強い神社です。
佐倉城下の旧武家屋敷地の中でもっとも城下町時代の面影をのこしているのが鏑木小路の武家屋敷です。 通りに面して、人の目線ほどの高さの土手を築き、その上に生垣を巡らせているのが特徴で、馬上から屋敷内を覗かれないようにする工夫だとされていますが、ここにも石垣は見られず、土手を切って屋敷門が置かれています。 鏑木小路も尾根筋にあるため、道はその先で行止まりになっています。尾根筋の先端には大聖院があり、その横から竹林の丘陵崖面を下る急坂が続いています。 鏑木小路町には、三軒の武家屋敷が往時の姿に復元整備され、一般に公開されています。
麻賀多神社の東にある新町交差点は、かつて札の辻とよばれ、江戸期には高札場のあった場所です。 ここを南北に通る通称「市役所通り」は、京成佐倉駅方面からJR佐倉駅方面に続く道路で、尾根筋を跨いで旧城下町を横断する唯一のルートであるため、道幅が狭い割には交通量の多い道路です。 沿道にはいくつかの古い商家が残っているようですが、保存状態はよくありません。
札の辻から先の新町通りは城下町時代の町屋町でした。 佐倉城下町付近には、佐倉街道に沿って細長く町屋町が並んでいました。 いわゆる「佐倉六町」とよばれた町屋町は、酒々井の宿場町を東端として、そこから本佐倉町、本町、弥勒町、新町とつづき、新町交差点を右(北方向)に折れて、市役所通りを下り、歴史民族博物館の北側にあった田町と続いていました。
現在も商店街の形態を守っているのは新町だけであり、その他では弥勒町には土蔵造りの旧商家が残り、田町には藁葺きの商家が残されていますが、それ以外に往時の面影は全くみられません。
丘陵地の主尾根筋にある新町通りから枝道が左右に延びています。 枝道には2種類あり、丘陵地の谷地に下りる道路と、枝尾根に続き行止まりになる道路の2つです。 行止まり道路の沿道や先端にはいくつもの寺社があります。 城郭に続く町屋町の外側を包むように配置されており、城下町時代の町割りを色濃く残しているといえます。
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歴史コラム
印旛沼
印旛沼は、下総台地の侵食谷が地盤沈降により溺れ谷となり、その出口を利根川の運ぶ土砂などがせき止めて形成されたもので、中世末までは印幡浦と称されていました。 徳川家康の江戸入府以降、長年にわたり続けられてきた利根川の付け替え工事により、古来より東京湾に流れ込んでいた利根川、渡良瀬川の水は鬼怒川(毛野川)に合流することとなり、千葉県銚子市から太平洋に流す現在の河道に変更されました。 この河道変更工事は一般に「利根川東遷事業」とよばれています。 この事業により、古来からの鬼怒川は香取海へ注ぐ川から、利根川に合流する川となりました。 香取海とは、千葉県銚子市辺りで太平洋につながっていた、今から1000年前頃にあった内海で、現在の霞ヶ浦や北浦、印旛沼、手賀沼などはその名残りです。 古くから利根川の氾濫により、周辺の村々は大きな被害を受けていたため、江戸時代に入って沼の水を江戸湾(現在の東京湾)へ流すという掘割工事と干拓事業(新田開発)が行われた。 享保九年(1724)、平戸村(現 八千代市平戸)の染谷源右衛門が着手しますが失敗し、天明年間(1780代)には老中田沼意次が計画、天保十四年(1843)には老中水野忠邦により堀割工事も行われ、部分的に竣工はしたものの十分とはいえませんでした。 印旛沼の治水・干拓の工事完成は昭和の時代を待たねばなりませんでした。 昭和38年から始まった印旛沼総合開発事業では、江戸時代から3度も失敗した歴史的な花見川ルートを通して、東京湾に排水する事業を始めて昭和44年に完成みました。 これにより印旛沼の洪水は、東京湾方向と利根川方向の2ルートに排水機場を設けて排水できるようになりました。 印旛沼は利根川と長門川を通してつながっていますが、安食(千葉県印旛郡栄町)付近の利根川との出入口には、水門と排水機場を設けて、洪水時に利根川の水位が上昇しても印旛沼に水が流れ込まないようにして、利根川の水位が下がると排水するようにしています。 東京湾方向には、新川から大和田排水機場(千葉県八千代市)を通り花見川から幕張付近で東京湾に排水しています。大和田における川床が、新川より花見川のほうが4〜5m高いため、大雨時には排水機場で揚水して排水しているようです。 大和田排水機場のポンプ能力は、最大毎秒120t、2日あれば印旛沼の水を全て汲み上げることができるそうです。 |
まちあるき データ
まちあるき日 2008年3月 参考資料 @「城下町古地図散歩9 江戸・関東の城下町」 A「ぶらり 総州 佐倉城」佐倉商工会議所パンフレット B「日本の城下町 3 関東」ぎょうせい 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス「佐倉」
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