大 洲   −川と山と城の創りだす風景の城下町−

南伊予の険しい山々と ゆったりと流れる肱川 そして 大洲城
そんな 川と山と城の創りだす風景の中に かつての城下町はある
苔むした石垣 埋立てられた堀の跡 町屋の路地
大洲は 城下町の頃の痕跡を 色濃く残す町である



 

 


 

町の特徴




大洲市のホームページには、司馬遼太郎の「街道をゆく」から引用し、
 「はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息を忘れる思いがした。」    と書かれています。
肱川沿いを歩いたときの印象を、まさに言い得ている言葉だと思います。




肱川橋から望む 肱川に張り出すようにそびえる大洲城

 


 

100年前の大洲


明治大正期の地形図が手に入りませんでしたので、今回はお休みです。


 


 

町の歴史


 大洲は、加藤家六万石の城下町だった愛媛県西北部の肱川流域にある中心都市です。

 元徳二年(1330)、伊予国守護職に任じらた宇都宮豊房は、南伊予の盆地である大洲の地を本拠に選び、地域一の大河・肱川の中流域で、河川敷に張り出すようにある独立の丘陵地・地蔵岳に大洲城を築き、以降、この地域を支配しました。

 戦国期の永禄十一年(1568)、毛利氏・河野氏の連合軍と鳥坂峠の戦いで大敗した宇都宮氏は滅亡し、河野氏配下の大野直之が新たな城主となりますが、秀吉による四国征伐後には秀吉古参の臣の戸田勝隆が封ぜられ、戸田氏断絶後は、宇和島城主で築造の名手として名高い藤堂高虎、賤ヶ岳七本槍の一人の脇坂安治、とめまぐるしく領主が代わりますが、元和三年(1617)、米子から加藤貞泰が入国した後は、明治維新まで加藤家が大洲六万石を領有します。

 維新後の廃城令により城内のほとんどの建物は破却されましたが、地元住民の活動によって本丸の天守や櫓は一部保存されました。しかし、天守閣は老朽化と構造上の欠陥のために明治21年に解体されてしまいました。

 現在の大洲城天守閣は、平成16年に、四層四階建て純木造で復元されたものです。
 明治期の古写真や「天守雛形」と呼ばれる江戸期の木組み模型など、天守の形状を明らかにする資料が充実していたため、往時の姿を正確に復元することができたようです。

 


 

町の立地条件と構造


 愛媛県の西部には、まとまった平野はほとんどなく、いくつもの段丘を連ねた形で広がる山地には、深い谷が何本も刻まれています。
 その谷を南から北に向かって蛇行しながら流れる肱川と、それに注ぎ込む何本もの支流とが、この地域を一つのまとまった圏域にしています。

 山と谷のつらなるこの地域では、川の合流地で谷がやや広くなった盆地状の地形に町は立地します。
 大洲、内子、五十埼、宇和、杉の瀬などが、肱川やその支流沿いに成立した町であり、大洲がその中心をなしています。
 大洲は、肱川が冨士山を巻き込むように蛇行した後にでる広い盆地の左岸にあり、肱川は、このあたりで既に瀬戸内海の河口付近と同じ標高まで下がっています。そのため、その静かな水面を利用し、肱川流域の水運の拠点となりました、一方で、下流側の河道の狭さと暖勾配により、古来より洪水が多発する地勢でもありました。

 大洲の駅を下りて肱川の河原にでたとき、最も印象に残る風景は、大洲城と冨士山そして肱川です。


 大洲城は肱川を望む比高20mほどの独立丘陵・地蔵ヶ岳に築かれた平山城で、黒下目板張りと白漆喰の四層の天守は、高さが約20mの背高でやや安定感に欠くように見え、平時における「見せる城」を意識して造られたようです。
 しかし、丘陵地の西端に寄っているため、本丸の東側に位置する町屋地区からは見え難く、肱川対岸の常磐町や若宮地区、松山方面からの見え方を最も意識していたようにみえます。


左:肱川の河原 北(松山)方面から見上げる大洲城  右:肱川橋からみる大洲城


 冨士山(とみすやま)は、その字の如く富士山に似た山で、標高わずか320mですが、その印象に残る山容は、大洲の町のどこからでも見ることができます。特に、天守から見たときの肱川は、冨士山から流れ出ているかのように見え、天守と対をなす大洲のランドマークとなっています。


大洲城から望む 肱川と冨士山


 肱川は、山間の川としては珍しく、広い川幅をもってゆったりと流れています。広い河川敷の対岸には高い防波堤が造られ、洪水時の水量の多さと流れの激しさが想像できます。


 城下町としての大洲は、城郭の南側と西側に武家屋敷を配置し、東側に三本の筋を南北に通した町屋となっていました。
 松山から宇和島に抜ける街道は、町屋の北端を通り、渡し舟の船着場が両岸にあったといいます。


 大洲橋を渡った国道56号線から西側が繁華街となり、かつての本町通りは商店街を形成していたようですが、今ではほとんどの店が閉店し、すっかり寂れてしまっています。
 本町通りを抜けると広い道路に出ますが、大洲郵便局のある角がかつての大手門跡で、現在では意味もなく幅広くみえる道路ですが、かつてこの西側には外堀があり、ここからが城内になっていました。


左中:本町通りの商店街 歩いたのは日曜日だったがシャッターは下りたまま  右:かつての大手門の跡


 かつて街道の通っていた町屋の東側には今でも古い町並みが残されています。
 中二階平入りで外壁を暗黄色を帯びた中塗り壁で、軒下に袖壁をつけ、窓に格子をはめ込んだ家がところどころにみられ、江戸末期のからの建物も多いといわれています。


左中:かつての街道筋  右:旧町屋地区の町並み


 この一角に、「おはなはん通り」と称される通りがあります。
 昭和41年にNHKで放映されたドラマ「おはなはん」のロケ地となったことでこの名がついたといいますが、白漆喰塗の平入りの蔵がひしめくように軒を並べています。
 緑がかった泥板岩の基礎と眩しいばかりの白漆喰が綺麗な町並みを見せてくれますが、軒高も、階高も、間口もバラバラで、平入りという一点を除けば、まったく統一感のない町並みは、建築された時代がまちまちであることを示しています。
 ここは町屋の本通りからは裏通りにあたり、江戸期の絵図では肱川につづく水路が流れていたようで、荷の上げ下ろし場だったのかもしれません。


左中:おはなはん通りに並ぶ蔵の町並み  右:対面は武家屋敷風の板塀


 大洲城本丸は、肱川側から見ると切り立った崖地上に建っているように見えますが、武家屋敷側からは傾斜地になっており、往時は城下の武家屋敷や路地から、家々の屋根越しに天守が見えていたものと思います。


旧武家屋敷地区からみえる天守閣


 かつての城内には、今では石垣が少し残されているだけで、肱川に流れ込む川水を堰き止めてできた内堀、外堀は、すべて埋め立てられています。
 しかし、明治期以降、大規模な造成は行われていないようで、城下町時代の地形がほぼそのまま残っているようです。

 かつての武家屋敷や堀だった場所には、住宅や商店、学校などが建ち並んでいますが、江戸期の絵図を片手に城内を歩くと、内堀、外堀や大手門、曲郭などの位置をほぼ正確に特定することができます。

 外堀は埋め立てられて大洲小学校の校庭になっていますが、石垣と明和三年建築の櫓(国重文)が残され、周囲から一段落ちた校庭は、そこがかつての外堀を埋め立てた場所だったことを教えてくれます。
 二の丸大手門のあった場所には、今でも道の両側に苔むした石垣が残され、市民会館の裏手には高い石垣がそびえ、そこがかつての二の丸であり、市民会館前の駐車場は、かつての内堀埋め立てた場所であることが容易に想像できます。


左:外堀を埋立てた大洲小学校の運動場  右:二の丸大手門のあった場所には今も苔むした石垣が残る


 大洲は歴史の痕跡を、町の至るところに残しています。

 


 

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大洲城天守

白漆喰の壁が眩しいほどのピカピカの天守
眺めも絶景でとにかく登ってみましょう。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.1


参考資料

@「図説 日本の町並み 四国編」創史社

使用地図
@1/25,000地形図「大洲」平成17年更新


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