飫 肥


日南の山間に佇む石垣の小城下町




 

 


 

飫肥のまちあるき


宮崎からJR日南線に揺られること1時間10分、2両連結のディーゼル車は、いくつもの無人駅に停車した後に飫肥駅に着きます。
鰐塚山地の東麓を流れる酒谷川が大きく蛇行して流れ、その懐に飫肥城下町はあります。

飫肥石を積み上げた石垣とその上の槇などの生垣が、かつての武家屋敷地の雰囲気をいまに伝えています。
飫肥は山間にひっそりと佇む小さな城下町でした。




 


 

地図で見る 100年前の飫肥



明治大正期の地形図が手に入らなかったので今回は休みです。

 


 

飫肥の歴史


天正十五年(1587)、秀吉による島津氏征伐の後、飫肥に入封したのは、12世紀以来日向国の地頭職を任じてきた伊東氏でした。

伊東氏は、古来より日向国都於郡に城を構えて勢力を広げてきましたが、都城と飫肥を勢力下におく薩摩大隈の島津氏と長年にわたり争ってきました。

永禄十二年(1569)、伊東義祐は飫肥を攻略して、日向国内に四十八の支城を構えて伊東氏の最盛期を築き上げます。この時代に、飫肥城のある丘陵一体は城砦として整備され、町屋や寺社も配された城下町が形勢され始めたと考えられています。

しかし、元亀三年(1572)、木崎原の戦いで島津軍に大敗した伊東氏は、大友宗麟を頼りに豊後に落ち延び、大友氏の滅亡の後は、四国に渡ることとなりますが、秀吉の島津氏攻略の際、その道案内を勤めた祐兵は、その功で大名に取り立てられます。

伊東氏は日向の一国支配を望んだといわれますが、これは秀吉の日向分断策のためにかなわず、わずか飫肥二万八千石を与えられたに過ぎませんでした。
江戸幕府成立後は、五万七千石の所領安堵を受け(後に六千石を分与)、以来、一度の転封もなく維新まで飫肥藩主として一帯を領することとなります。

飫肥城下町の基盤は、初代藩主・伊東祐兵(すけたか)により造られました。

祐兵の入封当初は、領内に十余りの支城を配していましたが、元和の一国一城令によって支城は廃され、飫肥城下に家臣を集めることになったため、城下町は大きく造り替えられたといいます。

また、寛文年間(1660頃)と延宝年間(1680頃)に起こった2度にわたる大地震の被害により、城下町は改修が行われて現在の形になったといわれ、その変遷の過程は数々の絵図にみることができるようです。

歴史的にみると、飫肥を含む日南市は、飫肥、油津、吾田という広渡川沿いに展開する3つの町の集合体といえます。

日向灘沿岸の港町である油津は、物資の集散地であり、飫肥杉の積み出しなど藩の外港として栄えてきました。
飫肥と油津の間にある吾田(あがた)は、昭和25年、飫肥、油津など3町1村が合併して市制がしかれた際に市庁舎がおかれた町です。

昭和12年に日本パルプ工場(現 王子製紙日南工場)が新設され、広渡川の豊富な水量と藩政時代から当地で植林された杉を原料として、パルプ生産が開始されことで吾田は大きく発展していきます。

日南市の市街化は、吾田を中心にして進展したため、逆に、飫肥は城下町時代の景観をよく残すこととなりました。

 


 

飫肥の立地条件と町の構造



城下町 飫肥は、四方を山に囲まれた小盆地に立地しています。

宮崎から志布志に向かう日南線に揺られること1時間強で、2両連結のディーゼル車は飫肥駅に到着します。
鰐塚山(標高1,118m)の東麓の山間に抱かれるように、かつての小さな城下町はあります。

鰐塚山山地の柳岳(標高985m)を源とする酒谷川が大きく蛇行して、町の東西南三方を取り巻くように流れ、城下町の堀の役割を果たしてきました。川はしばらくして鰐塚山南麓から流れてきた広渡川と平行して東流した後に、油津の手前で合流して日向灘に注いでいます。




吾田の広渡川沿いにある工場が王子製紙日南工場(旧日本パルプ工場)で、昭和初期に工場が設けられたことが吾田の発展の起爆剤になったことは既に述べました。


城下町の町割りはとても単純です。

大手門から延びる大手筋と田上八幡神社の参道とが城下町を南北方向に貫き、城内に引き込まれた街道がそれに直交して東西軸となり、ほかの通りは全てこの東西軸に平行に配置される、きわめて幾何学的な町割となっています。




飫肥城は、城下の北の一段高いシラス台地にあります。
本丸のある最も高い曲輪で標高50m程度の典型的な平山城で、縦横に空掘で区画された13の曲輪からなる広大な城域をもっていました。
上図に深緑色で標高50mのラインを引いていますが、かつての曲輪の跡が地形にくっきりと残っているのが分かります。



飫肥城本丸の跡は杉木立になっているため上からは分からない (「飫肥歴史紀行」より)



現在、旧城郭内には本丸と松尾ノ丸の跡が残されていて、その他の曲輪跡には飫肥小学校や飫肥中学校などが立地しています。
それぞれの曲輪は、空堀で区画されていたようですが、いまでも本丸跡の北側や飫肥中学校北側には、空堀跡のシラスの侵食谷をみることができます。

飫肥城にはもともと天守はなく、本丸には御殿が建っていたようですが、明治初期の廃城令により城郭内の建造物は全て取り潰されました。
飫肥の代表的建造物である大手門や書院造り御殿の松尾ノ丸も、昭和50年代に再建されたもので、城郭内に往時の建物は一つも残っていません。



城内の苔むした石垣


飫肥城内左:


現在、本丸の跡では、明治期以降に植栽された飫肥杉の木立と足元の苔むした土が、ある種の清浄感を湛えた空間を創りだしています。
旧本丸が杉木立というのも可笑しな話ですが、この一種独特の風景は一見に値すると思います。



左:本丸跡の杉木立  右:本丸跡の北側にある唯一の建造物である冠木門


本丸の北側に冠木門があります。
ここから北には急峻なシラスの崖面があり、飫肥中学校のグランドはシラスの侵食谷を埋め立てたもののようです。



左:本丸北側の門を抜けて下った場所にもシラスの崖面がある  右:本丸跡北方向の風景
このグランド(飫肥中学校)はシラス侵食谷の盛立て地で、向こうにもかつての曲輪がみえる



飫肥城下町の代表的な風景に大手門があります。
江戸期の大手門は明治初期に取り壊され、現在残るものは昭和53年に再建されたものですが、本町通から一直線に上る道の正面に位置し、沿道の石垣と屋根塀そして屋根越の木々の連なりの奥に座する大手門は、とても厳かで存在感があります。

一般的に城郭の櫓門は、防衛上の理由から、正面の登城道から正面を見せないよう、枡形虎口などを介して、左右にずれるか90度にふって配置されるものです。
一直線の登城道から正面に受ける大手門はとても珍しく、大手門というより禅宗寺院の三門のようにも見えます。



飫肥城 大手門

大手門の両側には空堀があります。
深さ3〜4mの切り立った空堀に石垣はなく、びっしりと苔で覆われたシラスの崖面がみえています。
武家屋敷地には飫肥石を多用した石垣が積まれているにもかかわらず、城郭内堀にみられないのが不思議に思えますが、切土の表面崩壊に強いシラスの土質特性をうまく利用したものともいえます。



大手門の左右にある空堀には苔生したシラス崖面がみえる


大手門から伸びる通りと平行して、田上八幡宮の参道(八幡馬場通)も南方向に一直線に下っていて、ともに城下町の南北軸を形成しています。



田上八幡宮の鳥居と八幡馬場通


城下町の地形は、大手通と八幡馬場通に沿って、酒谷川まで南方向に緩やかに傾斜していますが、大手門に近い地域が上級家臣団の屋敷地で、南方向に下るに従って下級の武家屋敷地となっています。

かつての上級武家屋敷屋敷地では、入口に武家の格式に応じた薬医門や冠木門などが設けられ、屋敷内の庭木が生垣越しに道に伸びて城下町らしい雰囲気を醸しだしています。



上級家臣の武家屋敷地 横馬場通りの町並み


本町通の南にあり、かつての下級家臣の武家屋敷地だった前鶴通りの町並み


飫肥の武家屋敷の特徴は、道路沿いに飫肥石などの石垣を積み、その上に槇や茶、竹などで生垣を回し、時には板塀や土塀を組み合わせた町並みにあります。

石垣には、飫肥石の切石積みの屋敷と、川原石の玉石積みの屋敷があるようです。
飫肥石は、シラスの固まった溶結凝灰岩で、加工しやすく、飫肥城の石垣や墓石などに多く使われてきました。

整然とした町割りにあって、武家屋敷を石垣や生垣で囲うのは、鹿児島の知覧や出水などの薩摩の麓集落の町並みに通じるところがあり、台風に備えた南九州の武家屋敷に共通する特徴のようでもあります。



飫肥石を積んだ旧武家地の町並み




屋敷地の中には往時の家屋が現存しているものがあります。

飫肥の上級家臣の屋敷の共通点は、建材に飫肥杉を使用して、床下を高くし、南面に廊下を巡らすもので、旧伊東伝左衛門家(19世紀初めの建築)や藩主伊東家の屋敷だった豫章館(明治2年築)などはこの特徴を備えています。
また、城の東にある旧藩校振徳堂(天保二年築)も同様の造りをしており、長屋門とともに昭和50年頃に解体修理されたものが現存しています。



左:旧伊東伝左衛門家  右:旧藩校振徳堂


城下町時代の名残を色濃く残す武家屋敷地と違い、飫肥には古い町屋の町並みは一切残されていません。
城下唯一の町屋町だった本町通りが国道に指定され、昭和50年代の道路拡幅によりすべて撤去されたためです。

当初、国道改修は町を迂回するバイパスが計画されていましたが、本町通商店街の衰退を危惧した商家の人達の陳情により、バイパス計画は中止となり、本町通を拡幅することになったといいます。



広く拡幅された本町通の町並み


拡幅された国道の沿道には、木造やRC造の町屋風建物が軒を並べていますが、どれも中途半端な町屋造りをしていて、少し興ざめの感があります。
また、衰退を危惧して拡幅はしましたが、やはり商店街としては成り立っていないようで、町歩きしたのが日曜日にもかかわらず、多くの店舗は閉まったままでした。

その中で唯一拡幅前の商家が資料館として残されています。
商家資料館は、明治三年に本町の山林地主が建築したものですが、木造一部二階建ての白漆喰の土蔵造り商家で、樹齢200年以上の飫肥杉が使用されています。本町通の拡幅に伴い、市に寄贈されたために旧所在地から約60m離れた反対側の現在地に移築復元されました。



左:本町通に並ぶ町屋風建物  右:商家資料館

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年3月


参考資料

@「飫肥歴史紀行」飫肥城下町保存会

使用地図
@ 国土地理院 地図閲覧サービス「飫肥」

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