奈良町


平城京の坊条を継承した南都大寺の門前町



 

 


 

奈良町のまちあるき


興福寺や元興寺の門前町として栄えた奈良町は、戦災を受けなかったため、中世以来の町割りをよく残しています。

1300年前の平城京における坊条制を基盤にして、鎌倉・室町期における元興寺伽藍の虫食い開発により町割りがなされたため、「辻子」や「突抜」とよばれる中世にできた細街路が数多くみられます。
町中には江戸末期から明治大正期にかけて建てられた町屋が数多くみられ、ひとつひとつの保全状態は概ね良好のようですが、それぞれが散在している印象が強く、歴史的町並みとしてのまとまった景観はあまり見られません。
中心市街地から近距離にあり、町中の家屋の建て替えが進んだためですが、古都奈良を代表する町なのですから、歴史的町並みの復元努力がより一層必要だと感じました。




左:興福寺伽藍の景観  右:奈良町の町並み

 


 

地図で見る 100年前の奈良町


明治大正期の地形図が手に入らなかったので休みます。

 


 

奈良町の歴史


奈良町は、平城京において左京のさらに東側「外京」とよばれた地域に形成されました。

都が京に移ると、平城京は瞬く間に荒廃していきますが、東大寺や興福寺、元興寺などの有力寺院は、新しい都に移ることなく残され、奈良は政治都市から宗教都市に変貌していきます。
東大寺や興福寺の門前には、寺院の仕事に関わる様々な人たちが集住するようになり、やがて数々の町(郷)が成立して、奈良は「南都」と呼ばれるようになります。

平安末期、京で平氏が勢力を強めると、興福寺などの南都寺院はこれと対立するようになり、治承四年(1180)、平重衡の南都攻めの兵火により、東大寺や興福寺とともに奈良の町も灰燼に帰したとされています。

鎌倉期以降、東大寺や興福寺はその勢力を盛り返していきます。

特に、藤原氏の氏寺である興福寺は、各地の土豪から寄進を受け、広大な荘園を領するようになり、室町期には実質的な大和守護を任じるまでになります。
また、門前町は「南都七郷」にまとめられていき、室町末期には郷数200、人口25000人に達する日本有数の都市にまで成長します。

戦国時代に入ると、興福寺や東大寺に代わって、松永久秀、筒井順慶などに代表される大和武士団が奈良を実効的に支配するようになり、畿内が秀吉により統一されると、弟の羽柴秀長が百十六万石の太守として大和郡山に入城し、奈良にはその代官がおかれます。

江戸期を通して、奈良は幕府の直轄地となり、興福寺の北隣に奈良奉行所(現 奈良女子大学)がおかれ、この頃から付近一帯をさした奈良町という呼び名が定着したようです。
元禄期の記録によると、奈良町には奉行直轄の137町と寺社下の68町の計205町が存在し、人口は約35000人を数えたようです。この時期、東大寺大仏が再建されたことを契機にして、巷の名所案内などで紹介されることが多くなり、奈良町は観光地として発展を遂げていったようです。

しかし、明治初期の神仏分離令と廃藩置県は、奈良町に危機的状況をもたらすことになります。

神仏分離令による廃仏毀釈により、興福寺は明治5年には一時的ではあるものの廃寺となり、かつての興福寺を支配していた一乗院門跡は県庁に、大乗院門跡なども売却され、五重塔ですら売りに出されるといった事態に陥ります。
また、廃藩置県後の府県統合により、大和地方は旧堺県や大阪府に合併され、大阪府の一地域になりかけますが、明治20年に奈良県が再設置され、古来からの大和国は守られることになります。

明治23年、大阪鉄道により奈良−王寺間が開通して奈良駅が設けられ、その2年後に大阪と結ばれます。明治29年には奈良鉄道により奈良−京都間が開通し、これらは後年の関西鉄道に合併されて、現在ではJRの大和路線と奈良線となっています。
近鉄奈良駅は、大正3年、大阪電気軌道により上本町−奈良間の開通により設置され、昭和44年に地下駅となりました。

明治31年に市制が施行された奈良市は、昭和30年前後の町村合併により急激に市域を拡大しました。
学園前、富雄、奈良山などで大規模な住宅地開発が進み、昭和30年の時点で11万人だった人口は、25年後には30万人を超え、現在では37万人を擁する県庁所在都市となっています。

平城京の本格的な発掘調査は戦後まもなくして始まります。
現在ではその全容がほぼ明らかになったようですが、平成18年には、大和郡山市で奈良時代初頭の道路の遺構が見つかり、通説で南北九条までとされていた京域がさらに広がる可能性があるなど、新たな発見も続いているようです。

 


 

奈良町の立地条件と町の構造



かつての平城京は、東西6.3km、南北4.7kmに範囲に及び、現在の東大寺と西大寺を東西の端として、南は大和郡山市域まで広がっていた大都市でしたが、現在の奈良市の中心市街地である奈良町は、平城京において外京(げきょう)とよばれた東端の地域に位置しています。



現在の市街地の中にあって、奈良町は、佐保川や率川、能登川などの形成する扇状地状の緩傾斜面の上に立地し、現在の奈良公園など、かつての春日大社境内が占めていた春日野の南西部にあります。

現在の地形図に、奈良時代における平城京の大路と大寺院の伽藍を重ねたのが下の地図ですが、かつての元興寺の境内を中心とした一帯が現在の奈良町の範囲です。


春日野の最深部に位置する春日大社は、古代から藤原氏の氏神として祭祀されてきましたが、その参道は、春日野の中心部を東西に貫き、一の鳥居から先は三条通り(平城京の三条大路)となって、旧平城京の西端にあたる尼辻付近まで一直線に続いています。


広大な興福寺の伽藍  金堂跡の再整備が行われている


三条通り 左:興福寺南大門跡前から西方は急な下り坂となる  右:南大門跡前から春日大社方向


奈良時代の東大寺や興福寺は、大社参道を基線にしてその北側に伽藍を広げていました。

興福寺は春日野から続く尾根筋先端部に位置し、かつては、奈良の町のどこからでも興福寺の東塔が見えたのではないかと思います。
興福寺山門前の三条通りから猿沢池には十数mもの高さの下り階段がありますし、興福寺北側の登大路(県庁前通り)は近鉄奈良駅に向かって大きな下り坂となっていることで、興福寺が尾根筋にあることが分かります。


左:興福寺から猿沢池に下りる階段  右:猿沢池横から興福寺(五重塔)方向は高台になっている



この尾根筋の南には率川(いさがわ)が流れ、これに沿って鷺池、荒池、猿沢池の3つの池があります。

広大な春日野のうちで、大社参道の南側を特に「飛火野」といいますが、春日山の南麓を水源とする率川は、飛火野の南をまいて西流し、浮見堂のある鷺池、奈良ホテルが側に建つ荒池を通り、奈良八景の一つに数えられる猿沢池をかすめて、奈良市街地内を暗渠になって流れていきます。

興福寺尾根の南、元興寺を中心とした猿沢池南側の一帯に奈良町はあります。



奈良町の街区は、東西・南北に等間隔に並ぶ碁盤目状の道路に区切られ、一辺が130mの正方形を基本としています。これは平城京の条坊の一辺(1800尺=約540m)の4分割(一坪=一坊の1/4)にあたり、1300年前の平城京の町割りを継承しています。

奈良町には元興寺とよばれる寺院が3つあります。
極楽坊(中院町)、大塔(芝新屋町)、小塔院(西新屋町)という三寺がそれぞれ独立してい存在していますが、元々は南都七大寺にも数えられた「元興寺」という一つの大寺院でした。

養老二年(718)、飛鳥にあった法興寺(飛鳥寺)が平安遷都に伴い現在地に移され、元興寺と改称されますが、奈良時代の創建当時は、東西三町、南北五町という広大な伽藍をもっていたことが知られています。

中院町の元興寺は「極楽坊」とよばれ、元興寺創建当時の僧坊の一部が、現在の本堂と禅室の前身となっていますが、平安中期に、奈良時代の高僧智光の描いた極楽浄土の曼荼羅が発見されたことで、極楽坊の歴史は始まります。

僧坊の一部が浄土教の念仏道場となり、いつしか極楽坊と呼ばれるようになり、鎌倉中期には、浄土信仰を中心に地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰などの入り混じった庶民信仰の独立寺院として歩み始めたようです。
室町期には、極楽坊が極楽そのものとみなされ、境内が墓地となって、納骨寺院としての全盛期を迎えました。

このような歴史をもつ極楽坊には、中世の庶民信仰を伝える数多の遺物が残されています。


元興寺極楽坊  右は国宝極楽坊


左:御霊神社  中:元興寺(小塔院)入口  右:庚申堂


元興寺が庶民信仰の寺院として隆盛するのとは裏腹に、広大な寺地や伽藍は、成長を続ける門前町によって侵食されていったようです。

平城京移転時に東西三町、南北五町あった寺地は、中世を通して東西2町にまで縮小されたといわれ、宝徳三年(1451)の土一揆により金堂が炎上して、今につづく三ヶ寺への分断が決定的になったようです。

南都七大寺のひとつに数えられた元興寺が、中世を通して数多の堂宇が消滅して衰退していくにつれ、かつての寺地を侵食する形で町が形成されたいったのが、現在の奈良町の原型でした。
これらの歴史は、元興寺町、薬師寺町、中院町、高御門町などの元興寺縁の町名や、中新屋町、芝新屋町、西新屋町など、新たな町を意味する「新屋」がつく町名が多いことからも伺えます。


奈良町の町並み  町屋はきれいに整備保全されている



1300年前の元興寺の旧寺地を侵食して形成されたのが、辻子(ずし)と突抜(つきぬけ)でした。

辻子とは、坊条制の下で大路や小路によって区画された大きな街区内に、新たに設けられた小道のことで、武家や貴族の屋敷、寺院など、大きな街区を分割して小さな町屋町を形成する、いわゆる中世における「乱開発」の手法として各地で行われてきました。
有名な鎌倉の「宇都宮辻子」のように、現在でも道名や町名にその名を残しているものがあり、特に、京都や奈良などの古都にはよく見られます。

奈良町においても元興寺の旧寺地を中心にして、近世の絵図や文献中に、40以上もの「辻子」や「突抜」が確認できるといいます。


左:白山辻子  右:西新屋町


下御門通りから餅飯殿(もちいどの)通りは商店街となっている



猿沢池南の今御門町から中新屋町、元興寺町、井上町と通り椚門から南へ向かう街道は上街道といい、初瀬、吉野そして伊勢へ通じる、古代からの「上ッ道」にあたります。
江戸時代においては、伊勢参詣が盛んになり、猿沢池南側の上街道沿いには旅籠や娯楽施設が立地しました。
興福寺の別院に由来する元林院町は、明治初期から芸妓町となり昭和初期まで栄えていたといいます。この一帯には、少しですが遊郭風の町屋が残されていて、かつての名残が見られます。


元林院町の町並み



奈良は、京都、鎌倉と並ぶ日本三大古都といわれています。

しかし、観光客数に関しては、京都市の入込観光客が年間5000万人で毎年増加の一途をたどり、鎌倉市が1600万人〜2000万人の間(ただし毎年100万人前後いる海水浴客を含む)で増加減少を繰り返しているのに比して、奈良市のそれは1300万人程度で、直近10年間で微増減を繰り返しています。

1300万人のうち、修学旅行が80万人、外国人が30万人を占め、いずれも京都市の約1/3程度の規模ですが、宿泊者の割合が15%と、京都市の25%に比べて低いのが今後の課題といわれています。
平成10年、東大寺、興福寺、元興寺、平城宮跡などが古都奈良の文化財として世界遺産に登録されましたが、この効果は観光客数や宿泊客数の増加にさほど結びついていないようです。

奈良には、東大寺や興福寺、正倉院や春日大社などの歴史文化財に加えて、奈良公園や国立博物館など、施設の豊富さでは決して京都に劣ることはありませんが、歴史的な町並みが少なく、町全体としての古都の魅力に乏しいことが、京都との観光客の決定的な差につながっているのだと思います。

古都奈良の中心にある「奈良町」を、歴史遺産の中核エリアとして、町並みの保存復元をより進めることが重要ではないかと思いました。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年9月


参考資料

@「伝統的建造物群保存対策調査報告書奈良町(T)(元興寺周辺地区)」奈良市教育委員会
A奈良町パンフレット「ならまちの歴史」

使用地図
@1/25,000地形図「奈良」「大和郡山」平成18年更新


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