門 司


戦前までの国際貿易都市 九州の鉄道起点
関門海峡を望み 門司港レトロを標榜する 結節点の町




 

 


 

門司のまちあるき


関門海峡を望む門司の町は、本州との結節点として古来から交通の要所でした。
明治以降、門司を基点として九州の鉄道網は広がっていき、筑豊の石炭輸出など大陸との国際貿易港としても門司は大きく発展します。

しかし、関門トンネルや関門橋の開通は門司を「結節点」から「通過点」に変えることとなり、石炭需要の凋落と敗戦による中国大陸との断絶は港町としての発展を止めてしまいました。

現在、門司は町中に残された明治大正期の建物を生かして、大正ロマン漂う観光地を目指し、町を挙げて「門司港レトロ事業」に取り組んでいます。
しかし、函館や小樽など同様の港町に比べて、歴史的建物の数は圧倒的に少なく、また、他から移築された建物もあり、さまざまな時代・様式の建物が混在しています。
それらが、広々とした公園・広場にゆったりと配置されているため、なにやら港町の「明治村」のようにも見えます。

 


 

地図で見る 100年前の門司


明治大正期の地形図が手に入らなかったので、昭和26年の地形図と現在のものを見比べてみます。


門司港駅の先(右上方向)に広がるのが旧門司市街地ですが、古城山などの山々に囲まれたとても狭い場所にあることが分かります。
古城山は関門海峡に突き出した絶景の地であるため、古来から砦が築かれてきました。
関門橋は、古城山を貫いたところで海峡を跨いで架けられました。

門司の都市としての発展は戦前で終わっていましたので、昭和26年から現在まで市街地の広がりはみられませんが、対岸の下関のほうは丘陵地まで市街地が広がったようにみえます。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

門司の歴史


明治以前までの門司

小倉市街地の中心部を流れる紫川の流域を中心とした一帯は、古来より規矩郡(くきぐん)とよばれてきました。
鎌倉時代、門司を含む規矩郡の地頭に藤原親房が任じられます。
親房は、関門海峡を眼下に見下ろす古城山に城を構えて本城とし、周囲の山々に支城を築いて地域一帯を支配しました。

やがて、親房の子孫は門司氏を名乗るようになりますが、室町期には守護大名の大内氏の配下に入ることとなります。
日明貿易を牛耳っていた大内氏により、門司は貿易船の発着場となり、やがて日明貿易の拠点は兵庫湊から赤間ヶ関(関門海峡の下関側)へと移ります。

戦国時代には、大内氏に代わって中国地方を制した毛利元就と豊後を拠点として豊前、筑前を制した大友宗麟が、門司城の支配をめぐって激突することになります。
天文二十三年(1554)から15年間にわたる死闘を繰り広げた末、門司城は大友氏の領するところとなりますが、秀吉による九州平定後は、森吉成(改名して毛利勝信)が六万石で小倉に入り、門司はその領地の一部となります。

江戸期を通して、小倉は寛永九年(1632)に播磨明石藩より入封した小笠原氏十五万石の藩都として大きく発展しますが、門司の地は大坂の陣の後、家康の命により門司城が棄却され、以来、250年もの間ひっそりとした湊町として過ごすことになります。


海外輸出港として隆盛する門司

幕藩政治が崩壊して鎖国が解かれ、日本国内のみならず海外とも人と物資の流通が再開されると、門司はその拠点として再び脚光を浴びることになります。

明治22年、門司築港株式会社が設立され、門司港の建設工事が開始されます。
翌年には26haの埋立地が完成し、門司港は石炭や米・麦などの特別輸出港として国から指定を受けます。九州では長崎、博多に次いで3番目の指定でした。

昭和6年には改修工事が竣工して、外国大型船の接岸が可能となり、大連航路や天津航路が開設されて、門司港は国際港として海外にも知られるようになります。

一方、鉄道交通では、明治21年に九州鉄道会社(現 JR九州)が設立され、その3年後には一番列車が門司駅(現 門司港駅)を発車します。このとき以来、門司は九州の鉄道の起点となりました。

現在、ホームの間に九州の鉄道起点を示す0哩(マイル)標があるのはこのためで、国鉄時代においても九州一円を管轄する九州総局が門司におかれ、JR九州発足後もしばらく本社が存在していました。


国際貿易港となった門司の代表的な輸出品が石炭でした。

江戸期から筑豊地方の石炭は小倉藩の特産品の一つでしたが、明治期に入ると殖産興業の掛け声の下で需要が急増します。

筑豊炭鉱から掘り出された石炭は、川舟で遠賀川を下って河口の芦屋に運ばれたり、遠賀川の下流から堀川運河を通り若松に送られていました。
門司駅の開業と同時に開通した筑豊本線が折尾駅で鹿児島本線と結ばれ、若松と芦屋に集められた石炭は、門司駅に送られて門司港から船積みされたのです。
明治29年には石炭輸出で全国1位となり、その量は全国の取扱量の半数近くを占める盛況ぶりでした。

埋立による門司港には、三井、三菱などの財閥系の石炭商社や金融機関が軒を連ね、大阪商船、日本郵船などの船会社も進出しました。

明治元年当時、560戸、2700人程度の人口が、明治27年には2300戸、10000人を超えて村から町となり、その更に5年後には、早くも県内3番目の市に昇格しました。
現在の北九州市を構成している合併前の5市の中で、最も早く市制を施行したのが門司だったのです。

石炭輸出を中心とし発展してきた門司港が、もう一つ大量に海外に送り出したのが軍隊でした。
大陸に近いという地理的条件と日本軍の大陸進出という歴史状況の中で、数多くの兵士と軍需物資が門司港の岸壁から中国大陸や南方の島々に送られていきました。
その数は南方戦線だけでも輸送船800隻、兵士約200万人ともいわれています。

太平洋戦争末期になると、中国や南方の戦線への海上輸送の基地である門司は、早くから米軍の空襲の標的とされます。

昭和19年6月、B29による日本本土最初の空襲が行われます。飛来した75機のうち北九州上空に到達したのは47機、そのうち24機が門司を襲いました。
門司全域を2時間に渡り空襲して262人の死傷者を出していますが、その後、敗戦までの1年間にわたり数度の空襲をうけることになります。
そして、昭和20年の6月と7月のいわゆる「門司大空襲」では、18000人の死傷者と3770戸の家屋が焼失し、明治大正期に国際貿易港として隆盛を誇った門司の町は壊滅してしまいます。


関門海峡の架橋とトンネル開通

現在、本州と九州を直接結ぶ交通ルートは、トンネル3本(国道2号線、山陽本線、山陽新幹線)と関門橋の全4ルートがあります。

本州と九州を鉄道で直結する構想は古くからあり、昭和12年には関門鉄道トンネル(現 山陽本線)の工事が国策事業として開始され、5年後には開通しています。

自動車交通は、昭和33年に関門国道トンネルが開通することで実現します。
上が歩道、下が自動車専用の上下2段構造の国道であり、歩道のトンネル中央部には本州と九州の境界線が引かれ観光の名所となっています。

架橋構想は明治期からあったようですが、戦争になれば橋は絶好の攻撃目標となり、破壊されると関門海峡航路が封鎖される、という軍の強い反対により、なかなか実現しませんでした。
関門架橋が実現するのは昭和48年のことで、当時としては世界9番目、日本最大の規模を誇る吊り橋でした。

昭和38年 門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が合併して、人口100万人を擁する政令指定都市北九州市が誕生し、合併後の市役所は小倉におかれます。

九州の鉄道起点と位置づけされてきた門司ですが、昭和17年に開通した関門トンネルは門司の手前で海峡をくぐったため、「門司駅」は港に繋がる行止まり駅に過ぎなくなり、その名称も「門司港駅」と改められます。
しかも、敗戦により大陸との交易が途絶え、門司の貿易港としての位置づけは低くなる一方で、石炭から石油へのエネルギー需要の変化がこれに追い討ちをかけました。

また近年では、かつて門司港が持っていた港湾機能は東の新門司港に移り、門司港駅周辺の港湾機能はますます低下し、合併前旧5市の中で東の外れにある門司は、明治大正期の建物を残したまま発展から取り残されていったのです。

これに危機感を持った地元は、地域活性化策として門司港駅を中心にした「門司港レトロ」をキャッチフレーズとして、観光客の誘致に積極的に取り組んでいます。

昭和62年、門鉄会館(旧門司三井倶楽部)の駅前移転と駅舎の国重要文化財指定を皮切りにして、旧門司港湾を再整備した海峡プラザとアルドロッシ設計の門司港ホテル、九州鉄道記念館、海峡ドラマシップ(歴史ミュージアム)などの諸施設が続々と整備されています。

また、下関市との合同花火大会、年末カウンドダウン、毎週土曜日の門司港名物バナナの叩売りの再現などのイベントも数多く行われ、行政、地元経済界にJRも全面的に協力して、大正レトロの町興しが進められています。

 


 

門司の立地条件と町の構造



北九州市は、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が、昭和38年に合併してできた九州初の100万都市で、これら旧市の中心地が玄海灘に沿って並んでいます。

「八幡」は八幡製鉄(現 新日鉄八幡製鉄所)の企業城下町として発展してきた製鉄業都市、「若松」は洞海湾の対岸にある古くからの港町で早くから石炭積出し港として発展してきた港湾都市、漁業町だった「戸畑」は筑豊地方を地盤とする地方財閥安川家による明治専門学校(現 九州工大)設立や安川電機の創業などにより新たに発展した工業都市、「小倉」は江戸期の小笠原氏小倉藩十五万石の城下町を起源とし、それぞれが独自の歴史をもっていました。

そして、「門司」は古来からの交通の結節点としての都市機能を持っていたことは既に述べました。


八幡の西には遠賀川が北流しています。
遠賀川上中流域に広がる筑豊炭鉱から掘り出された石炭は、遠賀川経由で下流の折尾まで運ばれ、鉄道により洞海湾岸の諸都市に運ばれて製鉄に使用され、また海外へ積み出されていきました。
こうして発展してきた町の集合体が現在の北九州市なのです。

これらの旧5市のなかで、市役所本庁のおかれた小倉が最も発展していますが、その小倉ですら他の100万人都市の中心地と比べて町の規模や賑わいは少なく、市としてのまとまりや求心力の低いことが特徴です。
そんな中にあって、旧5市では東端に離れ、本州との交通路からも外れた門司は、町興しの手掛かりを自らの歴史に求めざるを得なかったのです。



関門海峡を望む旧門司港の岸壁に立ち、間近に見える対岸の下関市街地を目にしたとき、この狭い海峡を自由に行き来きしたい、という想いは自然にでてくるように思えます。

また、狭い関門水道における多くの船舶の往来を見ていると、ここが古来からの西日本の水運の大動脈であり、ひいては日本と外国との出入り口だったのだということも実感できます。


レトロハイマート展望室からみた関門海峡  対岸が下関市街地で右手に関門橋がみえる


下関と門司の間を鉄道で結ぶ構想 <架橋案とトンネル案> は、明治の時代からありました。

橋は攻撃の標的となり、落ちれば海峡を封鎖するという理由でトンネルが採用されたことは既に述べましたが、全長3.6kmに及ぶ世界最初の海底トンネルが、戦前に完成していたというのは驚きであり、それを実現させたのは、軍事的な要請だけでなく、「海峡を自由に行き来したい」という古来から人々が抱き続けてきた熱い想いなのかも知れません。



戦争末期、米軍による断続的な空襲が門司を襲います。
そのため、門司に古い町並みはほとんど残っていません。

「門司港レトロ」で売り出しているわりには、函館や小樽に比べると歴史的建物の数は圧倒的に少なく、門司港駅周辺の「レトロ建築」には、再建されたものや移築されたものも混在しています。



その中にあって、大正3年に竣工した門司港駅舎は、門司大空襲の災禍をくぐり抜けた門司で一番の歴史建造物です。門司の中心に位置し、空襲の主目的が国内輸送網の破壊にあったにもかかわらず、駅舎が戦災を免れたのは奇跡だといえます。

駅舎はネオ・ルネッサンス様式の木造建物で、駅としては全国で唯一国の重要文化財に指定されています。ホームには鉄骨のトラス屋根が架かっていますが、長年の増改築により継ぎ足しされたようで、部分的にレールを使用したトラス柱も見られました。


左:門司港駅舎正面  中右:構内はレトロな雰囲気があふれている


門司港駅の東側には、修復された第一船溜の周囲に、明治大正期の建物が保存されたり、移築されたり、新たに建築されたりして、「門司港レトロ」の町並みを創り出していますが、そのうちの幾つかを紹介します。

「旧大阪商船」は、大正6年築のRC建物(だと思う・・・)。辰野金吾風にも分離派風にも見え、オレンジ色の外壁材は煉瓦にもタイルにもみえます。なんとも不思議な建物ですが、とりあえずカッコいいので私は好きです。
当時は大陸航路の旅客ターミナルとして利用され、北面が岸壁に面して専用桟橋があったといいます。

「旧門司税関」は、明治42年の門司税関発足を契機に、明治45年に建築された瓦葺煉瓦造の建築物。昭和初期まで税関庁舎として使用されましたが、現在は観光客向けの休憩施設となっています。

「NTT門司電気通信レトロ館」は、大正13年建築の門司における最初のRC造建物です。
電話交換機器のためか天井が非常に高く、3階建てですが一般的な4〜5階建てのビルと同じ高さがあります。放物線アーチと垂直線をモチーフとしたドイツ表現主義といわれる様式を今に伝えています。


左:旧大阪商船  中:旧門司税関  右:NTT門司電気通信レトロ館


「旧岩田酒店」は、大正11年に新築移転した商家で、母屋に加え土蔵や防火壁のレンガ塀も残っています。
他の町ではそれほど珍しくない土蔵造りの商家ですが、昭和7年の大火災と昭和20年の門司大空襲で壊滅した門司の町で残ったのは、門司港駅に次いで奇跡といえるかも知れません。


旧岩田酒店  巨大な防火壁のレンガ塀が目に付く


そして、門司港駅前の建物の中で最も目立つ「レトロハイマート」は、民間マンション業者が赤煉瓦倉庫を潰して建築した高層分譲マンションですが、最上階に展望室が設けられ関門海峡が一望に見渡せます。
景観論争で訴訟騒ぎにまで発展した末に落ち着いたデザインですが、およそマンションには見えない外観は、設計者の故黒川紀章氏によると「百年後に『平成のレトロ建築』として愛される建築を目指した」結果だそうです。


正面の黒い高層ビルがレトロハイマート  左のポストモダン建築はアルドロッシ設計の門司港ホテル


門司港西地区一帯は埋め立てが行われて、戦前の門司港から様相が変わりました。

平成15年にオープンした「海峡ドラマシップ」は、「関門海峡の過去・現在を五感で感じるミュージアム」とのことですが、むしろテーマパークに近い内容のようです。事業費100億円をかけた超豪華施設ですが、「門司港レトロ」に対して何の貢献もしていない、唯我独尊で意味不明の公共建築です。


ドラマシップの南隣には、「旧一号上屋」とよばれるRC2階建ての巨大な建物が残されています。


旧一号上屋  かつてはこの先(右側)が岸壁でしたが、いまでは海峡ドラマシップ(右建物)が建っています


明治時代、すでに韓国の釜山、台湾の基隆、中国の天津、大連などと航路が開かれていた門司港は、大正10年には欧州航路の箱根丸寄航も加わり、世界的に名の知られた港湾都市となっていました。
渡航者は、沖のブイに繋がれた本船にランチ(艀船)で運ばれて乗船していましたが、大正6年に外国貿易岸壁が完成して大型船が接岸できるようになります。

1号上屋は外国貿易岸壁に建てられ、大連航路の待合室として賑わいました。
この一号上屋から西には、十号上屋までの上屋10棟が1.7kmにわたり並んでいますが、一号と二号上屋のみの岸壁の先が埋め立てられてしまったので、このように陸へ上がった船頭状態になっています。


町の北端で関門トンネルの入口付近には、門司の総氏神である甲宗八幡宮が鎮座しています。

貞観二年(860)、関門海峡を見下ろす古城山の南にある筆立山西麓に宇佐神宮の御分霊を祀ったもので、神宮皇后が三韓出兵に着用した甲を御神体として創建されました。
壇ノ浦の戦いの後には源範頼、義経の兄弟が戦いで荒れた社殿を再建したと伝えられ、現在の社殿は門司空襲で焼失した後に昭和33年に再建されたものです。

御神体の甲は50年ごとに行われる大祭でしか拝観することができないらしく、ちょうど平成20年が甲宗八幡宮御鎮座1150年、そして50年に一度の大祭の年にあたるそうです。
是非とも1150年前の甲を一度拝んでみたいものです。


甲宗八幡宮


門司の幹線道路国道3号線から東には、「門司港レトロ」とは違った「レトロ」の匂いにあふれています。


老松町にある中央市場は、長さ200mにわたり古くからある路地型の市場ですが、ほとんど店はシャッターが降りていて存亡の危機にあります。
その南にある小原市場は門司港では最も古くからある市場だそうですが、ビル内は空の状態で閉鎖しているのかもしれません。


左中:中央市場 内部はほとんどの店がシャッターを閉めたまま  右:小原市場


栄町銀天街は250mにわたってさまざまな店舗が軒を並べ、大規模ショッピングセンターのない門司港地区にあって中心的な商店街です。銀天街の脇にある有楽横町や栄小路も、地元色を出した味のある飲食街です。


左:栄町銀天街 門司の中心商業施設  中右:有楽横町


錦町界隈には木造の「レトロ調」住宅がたくさん見られます。
漆喰塗りに縦板張りの和風住宅、3階建て木造住宅、モルタル一部タイル張りのモダン住宅、連棟長屋の店舗併用住宅など、昭和20〜30年代に建築されたであろう木造住宅がたくさんあって、こちらの町歩きも楽しいものがあります。


左:3階建て木造住宅  中:漆喰塗りに縦板張りの和風住宅  右:モルタル一部タイル張りのモダン住宅


左中:連棟長屋の店舗併用住宅
右:丸山町にあるファサード建築の公営住宅 縦のアクセント(用途は単なる物置)がモダンです


清滝界隈には坂道の町並みがあります。

一般的に港町には平地が少なく、町の発展に伴って増加する人口を収容するために、港を見下ろす斜面地に市街地を広げてきました。
長崎、佐世保、横須賀、横浜などの港町には必ず「坂の町」があり、門司では清滝界隈がこれにあたります。

ここには、迷路のように入り組んだ石垣のある急勾配の細い坂道があり、それにへばり付くように住宅が密集しています。しかし、他の港町に比べてその規模は小さく、また人の住む気配も少なく、屋敷地が撤去された更地も目立ちました。
港町としての門司は、それほど規模が大きいわけでもなく、しかも現在は衰退していることが分かります。


左右:清滝には屋敷跡と思われる空地が目立つ


坂の町 清滝の町並み






 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007年12月


使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス 1/25000 「小倉」「下関」
A1/50,000地形図「門司」昭和26年応急修正


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