門 司
戦前までの国際貿易都市 九州の鉄道起点
関門海峡を望み 門司港レトロを標榜する 結節点の町
門司のまちあるき
関門海峡を望む門司の町は、本州との結節点として古来から交通の要所でした。 |
地図で見る 100年前の門司 明治大正期の地形図が手に入らなかったので、昭和26年の地形図と現在のものを見比べてみます。 門司港駅の先(右上方向)に広がるのが旧門司市街地ですが、古城山などの山々に囲まれたとても狭い場所にあることが分かります。 古城山は関門海峡に突き出した絶景の地であるため、古来から砦が築かれてきました。 関門橋は、古城山を貫いたところで海峡を跨いで架けられました。 門司の都市としての発展は戦前で終わっていましたので、昭和26年から現在まで市街地の広がりはみられませんが、対岸の下関のほうは丘陵地まで市街地が広がったようにみえます。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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門司の歴史
明治以前までの門司
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門司の立地条件と町の構造 北九州市は、門司、小倉、戸畑、八幡、若松の5市が、昭和38年に合併してできた九州初の100万都市で、これら旧市の中心地が玄海灘に沿って並んでいます。 「八幡」は八幡製鉄(現 新日鉄八幡製鉄所)の企業城下町として発展してきた製鉄業都市、「若松」は洞海湾の対岸にある古くからの港町で早くから石炭積出し港として発展してきた港湾都市、漁業町だった「戸畑」は筑豊地方を地盤とする地方財閥安川家による明治専門学校(現 九州工大)設立や安川電機の創業などにより新たに発展した工業都市、「小倉」は江戸期の小笠原氏小倉藩十五万石の城下町を起源とし、それぞれが独自の歴史をもっていました。 そして、「門司」は古来からの交通の結節点としての都市機能を持っていたことは既に述べました。 八幡の西には遠賀川が北流しています。 遠賀川上中流域に広がる筑豊炭鉱から掘り出された石炭は、遠賀川経由で下流の折尾まで運ばれ、鉄道により洞海湾岸の諸都市に運ばれて製鉄に使用され、また海外へ積み出されていきました。 こうして発展してきた町の集合体が現在の北九州市なのです。 これらの旧5市のなかで、市役所本庁のおかれた小倉が最も発展していますが、その小倉ですら他の100万人都市の中心地と比べて町の規模や賑わいは少なく、市としてのまとまりや求心力の低いことが特徴です。 そんな中にあって、旧5市では東端に離れ、本州との交通路からも外れた門司は、町興しの手掛かりを自らの歴史に求めざるを得なかったのです。 関門海峡を望む旧門司港の岸壁に立ち、間近に見える対岸の下関市街地を目にしたとき、この狭い海峡を自由に行き来きしたい、という想いは自然にでてくるように思えます。 また、狭い関門水道における多くの船舶の往来を見ていると、ここが古来からの西日本の水運の大動脈であり、ひいては日本と外国との出入り口だったのだということも実感できます。
下関と門司の間を鉄道で結ぶ構想 <架橋案とトンネル案> は、明治の時代からありました。 橋は攻撃の標的となり、落ちれば海峡を封鎖するという理由でトンネルが採用されたことは既に述べましたが、全長3.6kmに及ぶ世界最初の海底トンネルが、戦前に完成していたというのは驚きであり、それを実現させたのは、軍事的な要請だけでなく、「海峡を自由に行き来したい」という古来から人々が抱き続けてきた熱い想いなのかも知れません。 戦争末期、米軍による断続的な空襲が門司を襲います。 そのため、門司に古い町並みはほとんど残っていません。 「門司港レトロ」で売り出しているわりには、函館や小樽に比べると歴史的建物の数は圧倒的に少なく、門司港駅周辺の「レトロ建築」には、再建されたものや移築されたものも混在しています。 その中にあって、大正3年に竣工した門司港駅舎は、門司大空襲の災禍をくぐり抜けた門司で一番の歴史建造物です。門司の中心に位置し、空襲の主目的が国内輸送網の破壊にあったにもかかわらず、駅舎が戦災を免れたのは奇跡だといえます。 駅舎はネオ・ルネッサンス様式の木造建物で、駅としては全国で唯一国の重要文化財に指定されています。ホームには鉄骨のトラス屋根が架かっていますが、長年の増改築により継ぎ足しされたようで、部分的にレールを使用したトラス柱も見られました。
門司港駅の東側には、修復された第一船溜の周囲に、明治大正期の建物が保存されたり、移築されたり、新たに建築されたりして、「門司港レトロ」の町並みを創り出していますが、そのうちの幾つかを紹介します。 「旧大阪商船」は、大正6年築のRC建物(だと思う・・・)。辰野金吾風にも分離派風にも見え、オレンジ色の外壁材は煉瓦にもタイルにもみえます。なんとも不思議な建物ですが、とりあえずカッコいいので私は好きです。 当時は大陸航路の旅客ターミナルとして利用され、北面が岸壁に面して専用桟橋があったといいます。 「旧門司税関」は、明治42年の門司税関発足を契機に、明治45年に建築された瓦葺煉瓦造の建築物。昭和初期まで税関庁舎として使用されましたが、現在は観光客向けの休憩施設となっています。 「NTT門司電気通信レトロ館」は、大正13年建築の門司における最初のRC造建物です。 電話交換機器のためか天井が非常に高く、3階建てですが一般的な4〜5階建てのビルと同じ高さがあります。放物線アーチと垂直線をモチーフとしたドイツ表現主義といわれる様式を今に伝えています。
「旧岩田酒店」は、大正11年に新築移転した商家で、母屋に加え土蔵や防火壁のレンガ塀も残っています。 他の町ではそれほど珍しくない土蔵造りの商家ですが、昭和7年の大火災と昭和20年の門司大空襲で壊滅した門司の町で残ったのは、門司港駅に次いで奇跡といえるかも知れません。
そして、門司港駅前の建物の中で最も目立つ「レトロハイマート」は、民間マンション業者が赤煉瓦倉庫を潰して建築した高層分譲マンションですが、最上階に展望室が設けられ関門海峡が一望に見渡せます。 景観論争で訴訟騒ぎにまで発展した末に落ち着いたデザインですが、およそマンションには見えない外観は、設計者の故黒川紀章氏によると「百年後に『平成のレトロ建築』として愛される建築を目指した」結果だそうです。
門司港西地区一帯は埋め立てが行われて、戦前の門司港から様相が変わりました。 平成15年にオープンした「海峡ドラマシップ」は、「関門海峡の過去・現在を五感で感じるミュージアム」とのことですが、むしろテーマパークに近い内容のようです。事業費100億円をかけた超豪華施設ですが、「門司港レトロ」に対して何の貢献もしていない、唯我独尊で意味不明の公共建築です。 ドラマシップの南隣には、「旧一号上屋」とよばれるRC2階建ての巨大な建物が残されています。
明治時代、すでに韓国の釜山、台湾の基隆、中国の天津、大連などと航路が開かれていた門司港は、大正10年には欧州航路の箱根丸寄航も加わり、世界的に名の知られた港湾都市となっていました。 渡航者は、沖のブイに繋がれた本船にランチ(艀船)で運ばれて乗船していましたが、大正6年に外国貿易岸壁が完成して大型船が接岸できるようになります。 1号上屋は外国貿易岸壁に建てられ、大連航路の待合室として賑わいました。 この一号上屋から西には、十号上屋までの上屋10棟が1.7kmにわたり並んでいますが、一号と二号上屋のみの岸壁の先が埋め立てられてしまったので、このように陸へ上がった船頭状態になっています。 町の北端で関門トンネルの入口付近には、門司の総氏神である甲宗八幡宮が鎮座しています。 貞観二年(860)、関門海峡を見下ろす古城山の南にある筆立山西麓に宇佐神宮の御分霊を祀ったもので、神宮皇后が三韓出兵に着用した甲を御神体として創建されました。 壇ノ浦の戦いの後には源範頼、義経の兄弟が戦いで荒れた社殿を再建したと伝えられ、現在の社殿は門司空襲で焼失した後に昭和33年に再建されたものです。 御神体の甲は50年ごとに行われる大祭でしか拝観することができないらしく、ちょうど平成20年が甲宗八幡宮御鎮座1150年、そして50年に一度の大祭の年にあたるそうです。 是非とも1150年前の甲を一度拝んでみたいものです。
門司の幹線道路国道3号線から東には、「門司港レトロ」とは違った「レトロ」の匂いにあふれています。 老松町にある中央市場は、長さ200mにわたり古くからある路地型の市場ですが、ほとんど店はシャッターが降りていて存亡の危機にあります。 その南にある小原市場は門司港では最も古くからある市場だそうですが、ビル内は空の状態で閉鎖しているのかもしれません。
栄町銀天街は250mにわたってさまざまな店舗が軒を並べ、大規模ショッピングセンターのない門司港地区にあって中心的な商店街です。銀天街の脇にある有楽横町や栄小路も、地元色を出した味のある飲食街です。
錦町界隈には木造の「レトロ調」住宅がたくさん見られます。 漆喰塗りに縦板張りの和風住宅、3階建て木造住宅、モルタル一部タイル張りのモダン住宅、連棟長屋の店舗併用住宅など、昭和20〜30年代に建築されたであろう木造住宅がたくさんあって、こちらの町歩きも楽しいものがあります。
清滝界隈には坂道の町並みがあります。 一般的に港町には平地が少なく、町の発展に伴って増加する人口を収容するために、港を見下ろす斜面地に市街地を広げてきました。 長崎、佐世保、横須賀、横浜などの港町には必ず「坂の町」があり、門司では清滝界隈がこれにあたります。 ここには、迷路のように入り組んだ石垣のある急勾配の細い坂道があり、それにへばり付くように住宅が密集しています。しかし、他の港町に比べてその規模は小さく、また人の住む気配も少なく、屋敷地が撤去された更地も目立ちました。 港町としての門司は、それほど規模が大きいわけでもなく、しかも現在は衰退していることが分かります。
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まちあるき データ
まちあるき日 2007年12月 使用地図 @国土地理院 地図閲覧サービス 1/25000 「小倉」「下関」 A1/50,000地形図「門司」昭和26年応急修正
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