盛 岡


三河川の合流地に広がる 北東北一の県庁所在地 南部藩都




 

 


 

盛岡のまちあるき


盛岡は、北上川、中津川、雫石川の三河川が合流する場所に立地し、不来方丘とよばれる丘陵地にある盛岡城を中心に広がっています。

明治23年に盛岡駅が旧城下町の外れに開設されると、かつての旧河川敷は市街化されて、盛岡の都市構造を大きく変えることとなりました。

盛岡には、城下町時代の町屋や武家屋敷の町並みが残っている訳ではありませんが、南部氏二十万石の藩都から県庁所在都市として発展してきた歴史の痕跡が、町中の至る所に残されています。

 


 

地図で見る 100年前の盛岡


現在の地形図と約100年前(大正元年)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図をみると、盛岡城本丸の北東部、現在の本町、上の橋、紺屋町、肴町の辺りに市街地がみられ、城下町時代の町屋町がここに形成されていたことがわかります。
一方で、城本丸の西側(盛岡駅までの間)、大通、菜園地区には空き地が広がっています。
盛岡駅は、設置された明治23年時点では、町の外れにあったことが分かります。

また、市街地は北西方向に大きく拡大していることが分かりますが、明治期には、そこに「種馬育成所」「騎兵舎」「黄金馬場」などの馬に関する土地利用があったことが見て取れます。

江戸期から馬産地として知られた盛岡は、大正末期には馬生産数日本一を誇っていました。また、弘前に司令部の置かれた第八師団配下の騎兵第三旅団が盛岡にはありました。これらが地形図に表現されているのです。
また、黄金馬場とは、明治末期に開設された競馬場のことで、その名は付近に湧出していた黄金清水に由来するといわれています。  10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

盛岡の歴史


近世以前の盛岡

記録に残る盛岡の歴史は古く、延暦年間(780頃)まで遡るといいます。
征夷大将軍 坂上田村麻呂が志波城(現 盛岡駅南西3kmの中太田付)を築いて、大和朝廷による陸奥国最前線の治府となり、俘囚長を名乗る地元豪族安倍氏により治められます。

俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになった者のことで、辺境の人達を下位に置こうとする中央政府(大和朝廷)の呼び名です。
古代東北地方の土豪ともいえ、朝廷の蝦夷地代官のような立場で大きな力を得るようになります。俘囚長を称した安倍氏 (奥州)以外に、清原氏は俘囚主を称し、奥州藤原氏は俘囚上頭を称していました。

源頼義・源義家父子による前九年の役と後三年の役は、盛岡を含む岩手郡・紫波郡の勢力地図を大きく塗り変えることとなり、領主は、安倍氏から清原氏、そして清原清衡(のちの藤原清衡)へと移り、盛岡は奥州藤原氏の支配下に入ります。

源頼朝による平泉攻略後は鎌倉幕府の勢力下におかれ、関東から多くの御家人が配され、厨川(くりやがわ・現在の天昌寺付近が比定)城を拠点に奥州工藤氏(のちの厨川氏)の治めるところとなります。

南北朝時代には、南部氏が三戸(青森県三戸郡)から南進を果たし、工藤氏を配下において岩手郡を領有し、北上川、中津川、雫石川の合流点に近い不来方(こずかた)の丘陵地の先端部に城を設け、盛岡城の基盤が出来上がります。


盛岡藩の成立

戦国時代、南部氏第26代当主南部信直は、小田原征伐に参陣し所領を安堵されただけでなく、奥州仕置きでは秀吉の先鋒を務め、朝鮮出兵にも参陣(ただし渡海せず帰国)しており、激動の戦国時代を乗り切って南部家を近世大名へ導くことに成功します。

信直の長男利直は関が原の戦いで東軍に組みし、大阪冬の陣にも参戦して幕府との関係強化にも努める一方、内政面では、白根金山や西道金山をはじめとする鉱山開発を行い藩財政を安定させ、元和元年(1615)には盛岡城を築城して城下町を形成し、盛岡藩の基礎を固めました。

城下町は盛岡城を囲むように配置され、中津川右岸地区が城郭や武家屋敷地、左岸の河南地区は商工業が盛んな町屋町として繁栄しました。

寛永三年(1626)、伊達藩による石巻での北上川付け替え工事により、太平洋との往来が活発になると、明治橋のやや下流部に河港(新山河岸)が設置されます。
この新山河岸を拠点として穀町、新穀町、鉈屋町が物資流通の中心となり、河南地区が繁華な町人町へと成長していきます。

明治維新、奥羽越列藩同盟として新政府軍に抗った盛岡藩は、会津藩や仙台藩とともに最後まで戦いましたが抗しきれず、事実上「最後の幕府軍」となって朝敵の汚名を付されます。
幕末期には二十万石あった盛岡藩は、明治政府が仙台藩から没収した白石城に十三万石で減転封され、徹底した制裁処分を受けます。
戊辰戦争で国替えを命じられたのは、会津藩と盛岡藩のみでした。


盛岡駅設置による都市構造の変化

廃藩置県により盛岡県が成立、後に岩手県に統合され、盛岡に県庁が設置されます。

明治11年に第九十国立銀行(現 もりおか啄木・賢治青春館)が設立されたのを皮切りに、明治29年に盛岡銀行(現 岩手銀行中ノ橋支店)、明治40年には(旧)岩手銀行設立が相次いで設立され、ともに昭和6年の金融恐慌により破綻するまで、盛岡経済は隆盛を誇ります。

明治23年 日本鉄道(現 東北本線)が東京から盛岡まで開通します。
当初計画では、盛岡駅は仙北町(現 仙北町駅付近、新山河岸の対岸)に建設される予定だったようですが、地主らの反対により、当時としては町のはずれになる雫石川と北上川に挟まれた場所に建設されました。

江戸期を通じて北上川舟運の拠点だった新山河岸には、自分たちの舟運に代わる新たな輸送機関に対する嫌悪感が強かったのかもしれません。
しかし、盛岡駅の開設は、新山河岸の舟運を急速に衰退させただけではなく、盛岡の都市構造そのものを大きく変えることとなりました。

それまで、盛岡城下の中心は、仙北町から明治橋をわたり、穀町から呉服町、紺屋町、鍛冶屋町そして上橋をわたり本町につづく旧奥州街道沿いでしたが、これに加え、盛岡駅から海運橋をわたり、大町、内丸、中橋へとつづく東西方向の新たな都市軸が形成されます。

また、江戸期に、北上川の河道が付け替えられたときに生まれた菜園地区は、大正末期まで農地や湿地帯が広がっていましたが、昭和初期に区画整理されたことで、現在に続く商業業務中心地への発展が始まります。

中ノ橋通や肴町を中心とする旧来からの商店街と大通や菜園を中心とする新たな商店街は激しく競い合っていましたが、昭和55年に地域一番店の川徳百貨店(現 パルクアベニューカワトク)が、それまであった肴町から菜園に移転しました。
これに替えて、肴町は中三百貨店を新たに誘致して、アーケードを架けるなど再開発を行いました。

昭和57年に東北新幹線が盛岡〜大宮間で開業します。
平成9年に秋田新幹線、平成14年には東北新幹線が八戸まで延伸し、盛岡は北東北3県の交通結節点となり、東北地方で仙台に次ぐ拠点都市となりました。

現在、盛岡の人口は約30万人を数え、岩手県の総人口140万人の20%以上が居住しています。これに次ぐ北上市、花巻市が人口10万人以下であり、県全体の人口が減少する中で、僅かながらも盛岡市では増加しており、東北地方の中では元気のある都市だといえるようです。

 


 

盛岡の立地条件と町の構造


北上盆地は、東の北上山地、西の奥羽山脈に囲まれ、東北地方の大河である北上川流域の肥沃な穀倉地帯で、下流は仙台平野へと連なり、岩手県の主要部を形成しています。

盛岡は、北上盆地の北端にあり、奥羽山脈の主峰岩手山(2041m)を北西に、これに対峙するように座する姫神山(1125m)を北東に望む場所に位置しています。



盛岡市街地の東周縁部には、岩山、愛宕山、鑪山(たたらやま)などの小高い丘陵地が入りくみ、良好な緑地景観を創りだすとともに、どれもが市街地からのランドマークとなっています。

盛岡城は、東北地方の大河 北上川に中津川と雫石川が合流する場所にある、標高143m(比高20m)の花崗岩丘陵の不来方丘に築かれたことは既に述べました。



盛岡駅西口の再開発ビル・マリオスの展望室からみた三河川合流付近の風景


城郭は、本丸の北に二の丸と三の丸、それを挟むように配された曲輪が南北に並ぶ平山城で、本丸から三の丸にいたるまで、すべての石垣に地元産花崗岩が使用され、土塁が中心の東北地方の城郭の中では異彩を放ち、見事な打込みハギの石垣美を見せています。

建造物は明治初頭に解体されたため、現存するものは全くありませんが、堅固な石垣と本丸と二の丸の空堀に架かる朱塗りの橋が、往時の大城郭を偲ばせてくれます。



盛岡城西麓の公園通り側から本丸跡を見上げる


築城時には、北西から流れてくる北上川が不来方丘の西麓にあたり、大きく蛇行して南麓で中津川と合流し、すぐ下流で雫石川と合流していました。

江戸期に河川改修工事が行われ、現在の盛岡駅の正面にかかる海運橋付近から上流の旭橋にかけての左岸に新たに堤防を構築して、大きく蛇行していた北上川の河道を付け替え、雫石川に直接合流するようにしたといわれています。


現在の地形図をみても、中央通りの南側で、桜城小学校から岩手公園(盛岡城跡)にかけて放物線を描くように細い道路が通り、旧河道の形が道路形状にはっきり残っているのがわかります。

また、中央通りから菜園にかけて、映画館通りなどの南北通りの道路は南に下っていて、中央通りと公園通りでは10m近い高低差がみられます。
このように、菜園地区がかつての中洲川原だったことが地形にくっきりと残されています。


左:映画館通りから菜園方向をみる(写真では下り坂が分かり難い)  中:公園通りに下ってくる道路
右:公園通りのカワトク  突き当りに城郭の緑がみえる


カワトクの面する公園通りは、東端で盛岡城跡(現 岩手公園)の崖地にあたります。この崖面は比高30m近くもあり、ここに見事な石垣が施されていますが、築城前はこの崖地の麓まで北上川が流れていたといわれています。



左:公園通りの向こうにみえる城郭の緑  右:本丸跡から西側をみる


現在の地形図に、「寛永図」と通称される江戸初期の絵図を基に、城下町時代の町割りを重ねてみました。

盛岡城下町は、城を中心にして北南東に広がり、外周は惣堀と北上川で囲まれ、中津川が城下町中央を縦断しています。
盛岡城の西の菜園地区には北上川旧河道の跡が残っていたようで、現在の映画館通りやカワトクの辺りは湿地帯として取り残されていたようです。

南からきた奥州街道は、北上川を渡った後、惣門をくぐり城下町に入り、城下町の北東の町屋町を通り北西方向に抜けていました。


岩手県庁、盛岡市役所などの建ち並ぶ内丸地区一帯は、かつて家老職などの上級家臣の屋敷地のあった場所でした。

これらの官庁街(上級武家屋敷跡)と岩手公園(盛岡城郭跡)に挟まれた一角に面白い場所があります。
かつての曲輪の跡地にある飲み屋街です。

城跡にある櫻山神社の参道沿いに発達した門前町のようでもあり、おそらく戦後直ぐにできたもののようですが、周囲の整然とした官庁街とのギャップが面白い場所です。



門前町のようにある内丸の商店街


商店街の裏側にはかつての内堀の跡


盛岡は北上川に中津川と雫石川が合流する場所に造られましたが、城下町を南から北に縦断した奥州街道は、三河川が合流した直下の場所で渡河していました。
江戸期、そこに架けられたのが舟橋です。

両岸と中島に大柱を立て、二十艘ほどの小船を鉄鎖で係留して、その上に敷板を並べて人馬が往来できるようにしたものでした。 大河に架橋する技術のない江戸期の知恵でしたが、明治7年に木橋の明治橋が架けられるまでの存続していました。
現在、明治橋はRC構造になり、川岸は護岸整備され、往時の面影はありませんが、川岸の沿道には江戸期の土蔵が残されています。



左:かつて舟橋のあった場所  向こうに明治橋がみえる  右:舟橋のたもとに残る御蔵


舟橋付近の鉈屋町は、江戸期の城下町外にあたりますが、ここから旧奥州街道沿いを歩き、南大通町に入る場所で急に道が広くなります。

ここが旧城下町の南の玄関口に当たる惣門の跡です。

ここにある木津屋本店は天保五年(1834)建築のもので、本卯建を上げた本白漆喰総塗り込め壁の町屋と数棟の土蔵が残っています。


左:旧奥州街道  中:かつての総門跡 道幅が急に広くなっている  右:木津屋本店


木津屋本店裏に残る土蔵


盛岡城下町には寺町が2つありましたが、そのひとつが、城下町南端にあった大慈寺町一帯の寺の下寺院群です。

寺院群の中心で、寛文十三年(1673)年創建とされる大慈寺は、明治期の大火で焼失したも後、盛岡出身の元首相 原敬の寄進で再建されました。中国様式の山門が目を引きます。



左:大慈寺の寺町  右:中国様式の大慈寺山門


いまひとつの寺町は城下町の北辺の愛宕山麓に広がる北山寺院群です。

北山寺院群の中心は五百羅漢で有名な報恩寺ですが、応永元年(1394)に三戸に開創されたされた南部氏の菩提寺で、明治までは県内200の曹洞宗寺院の総領でした。

寺院群を国道455号線が縦断しおり、真新しい瓦屋根を載せた白土塀が続く国道沿いには10ヶ寺が面し、この地域一帯には20を超える寺院が集まっています。



左:北山寺院群  右:報恩寺山門


かつての盛岡の中心地は、上の橋と中の橋の間の呉服町と紺屋町で、青森屈指の豪商の商家が軒を並べ、維新以降は第九十銀行、盛岡銀行などの業務施設が立地しました。
今でも江戸末期から大正期までの建物が所々に残されています。

「ござ九」は、文化十三年(1816)創業の商家で、江戸末期から明治末期までの建物がかつての街道沿いに連なり、今でも、荒物日用品を扱う立派な雑貨屋です。
岩手銀行中ノ橋支店は、辰野金吾の設計で明治44年に完成した赤煉瓦造りの3階建て建物ですが、中の橋通りと旧奥州街道の交わる要所に位置しているため、今では盛岡を代表するランドマークとなっています。



左:雑貨屋の「ござ九」  中:岩手銀行中ノ橋支店  右:旧奥州街道沿いの酒蔵


上の橋から本町通りにかけても、特に古い町並みが残っているわけではありませんが、旧井弥商店の土蔵造りの商家や欄干に江戸期の擬宝珠を配した上の橋などが、城下町時代の面影を今に伝える景観を見せてくれます。



左:旧井弥商店の土蔵造商家  中:擬宝珠を配した上の橋  右:中津川


かつての呉服町、紺屋町、加治屋町へと続く奥州街道に直行して、東に延びる道の先に八幡宮と天満宮2つの神社があります。

盛岡八幡宮は、南部藩鎮守として300年の歴史をもつ古社で、延宝八年(1680)、第二十九代南部重信によって建立されました。 社殿は再建が繰り返され、現在のものは平成9年に建て直されたピカピカの社殿です。

盛岡天満宮は、上の橋から東に延びる道(加賀野新小路)の先の丘陵地あり、社殿は南方向(八幡宮の方向)を向いていてます。 ここからは、岩手山の絶景が見えるはずでしたが、生憎の曇り空で残念でした。



盛岡八幡宮


左:突き当たりの小山が天満宮  中:天満宮  右:天満宮からみえる岩手山

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.9


参考資料

@「仙台 東北・北海道の城下町」
A「太陽コレクション 城下町古地図散歩8」
B「(図説)岩手県の歴史」

使用地図
@1/50,000地形図「盛岡」昭和52年修測
A1/50,000地形図「盛岡」大正1年測図


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