三 島


富士山の湧水が流れる 東海道の宿場町




 

 


 

三島のまちあるき


江戸時代、天下の険といわれた箱根を越えてきた旅人を、富士山からの清らかな湧水とともに迎えたのが、東海道11番目の宿場町 三島でした。

源頼朝に縁のある三嶋大社の門前は、東海道から分岐して伊豆方面や佐野・甲府方面に通じる街道の起点でもあり、三島は古くからの交通の要所でした。

また、三島は、富士山の白雪がとけて地下水となり、幾多の歳月をかけて清らかな湧水となって地表にでる、「水の都」でもありました。
町中にはいくつもの湧水池が残り、そこから湧く名水の流れは、古の旅人の疲れを癒し、数多の絵図にその姿を残しています。

しかし、地下水の汲み上げと都市化の進展により、湧水量が激減したため、湧水池は渇水状態が続いて溶岩の池底をみせています。
いま、三島の人々は、かつての「せせらぎ」を復活させて「水の都」を取り戻そうと、様々な試みを始めています。


湧水池のひとつ 白滝公園と桜川

 


 

地図で見る 100年前の三島


現在の地形図と約100年前(明治20年)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図をみると、三嶋大社の門前を通り東西に貫通する東海道に沿って宿場町が形成されていて、大社門前から南方面(下田方面)に街道が延びていることが分かります。
これが旧宿場町の三島町の基本構造です。

宿場町の北側に遊水池が数ヶ所みられ、そこから用水路が南に流れ出ていることと、水路の流れている地域は水田が広がり、湧水池の北側は植生の記載がないことも見てとれます。

新幹線停車駅である三島駅は、湧水池のさらに北側に設置され、三島市街地は、駅と旧東海道とを中心に四方に広がっていることが分かります。

 


 

三島の歴史


北伊豆の拠点としての三島

三島は、鎌倉時代までは府中、国府などとよばれ、「三島」の名が記録されるのは室町期以降のことであり、三嶋大社がこの地に鎮座していたためといわれています。

伊豆に配流されていた源頼朝は、三嶋大社に百日祈願をかけ、社大祭の日に挙兵したといわれています。幕府開設後には三嶋社の造営と門前の整備を行い、大社から南への参道(街道)を大場まで直線化して、一の鳥居、二の鳥居を建てました。
以来、江戸時代まで三嶋大社は武士の信仰を集めることになります。

戦国時代、三島を中心とする北伊豆は騒乱の場となります。
延徳三年(1491)の北条早雲による伊豆侵攻に始まり、駿河の今川義元、甲斐の武田信玄らが幾度も侵入して戦場となりました。このため、三島周辺の山々には数々の砦跡が残されています。

天文二十四年(1555)における、後北条氏、今川氏、武田氏の和睦の時に、後北条氏から今川氏に送られたのが小浜の用水といわれ、この時、今に残る千貫樋が建造されています。現在、残るものは関東大震災後に立て直されたコンクリート製のものです。

江戸初期、幕府は江戸を中心に、東海道をはじめとする五街道の整備に着手し、三島宿は東海道11番目の宿場町となります。
寛永十一年(1634)、三代将軍家光が参勤交代を制定し、諸大名が一年毎に東海道を行き来するようになると、箱根八里をひかえた三島は宿場町として発展します。
本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠は75軒を数え、その他木賃宿や馬宿、茶店などが、新町橋から千貫樋まで軒を連ねていたといいます。

また、三島は東海道の宿場町というだけでなく、伊豆や甲府とも通じた交通の結節点でもありました。
三島から、伊豆方面へ下田に至る下田往還、そして北の甲府へと通じる甲州街道(佐野街道)は、三嶋大社の門前を起点としており、辻には代官所(後に三島陣屋、現 市役所)がおかれ三島の中心地でした。


明治以降の三島

明治維新以降も人々の往来は増え続け、幕府の庇護を失った問屋場や本陣などが姿を消し、かわって運送会社、郵便局や真誠講などの優良旅館組合の看板を掲げる旅館などが現れます。

しかし、明治22年 東海道線が東京新橋から神戸まで開通すると、箱根越えをする旅人はほとんどいなくなり、三島に宿泊客も激減してしまいます。
75軒あった旅籠はつぎつぎと廃業し、明治29年の記録には、わずか5軒程度しか記載されていない状況まで落ち込みます。

明治20年代は三島が大きく変わる時代でした。

廃業した旅館などに代わって東海道沿いに軒を並べたのが、呉服屋、小間物、袋物、洋服屋、酒屋薬や荒物など、田方郡から伊豆半島一円を商圏とする商家で、近代三島の発展を支えた商人たちでした。

東海道線敷設に関してこんなエピソードが残されています。

東海道線建設にあたり、箱根越えが土木技術的に困難として、鉄道敷設は御殿場経由(現在のJR御殿場線)となりますが、そのあおりを食ったのが小田原と三島でした。
御殿場線は、小田原の手前の国府津(こうづ)から箱根山を大きく迂回して三島の次の沼津で東海道線に合流しています。路線計画時には、3000円(当時)の地元負担を条件に、小浜山付近(現 楽寿園の北側一体)への三島駅設置が打診されますが、新しい交通機関への理解が全くなかったためか、地元の宿主たちには受け入れられず、初期の東海道線は三島を通ることはありませんでした。

明治22年の国府津・静岡間の東海道線開業から9年後の明治31年、ようやく三島停車場(現 下土狩駅)が開設され、ここから伊豆長岡まで伊豆箱根鉄道の前身の豆相(ずそう)鉄道が開通して、三島や北伊豆地方は鉄道で結ばれることとなり、大正13年には修善寺まで全線開通して、東海道線から取り残された北伊豆の人々の悲願は成就することになります。

昭和9年、箱根山に東海道線丹那トンネルが開通し、緒名邸(現 楽寿園)の北隣に三島駅が開業します。
これにより、小田原、熱海、三島を通る丹那トンネル経由の路線が新たに東海道線ルートとなり、今までの三島駅は御殿場線の下土狩駅と改称され、伊豆箱根鉄道も広小路駅から大きく東にカーブして新しい三島駅に発着することとなりました。

伊豆への交通起点「三島」の復活でした。


湧水の町 三島

いま三島が失いつつあるものに「湧水」があります。

三島には「水の都」とよばれるほど、町中には多くの湧水池が点在し、幾筋もの清流が流れていました。富士山からの美しい湧水が、豊かな水量を湛えた川が縦横に流れる三島の風土を培ってきたのです。

富士山の雨水が伏流水となり、三島の楽寿園小浜池、白滝公園、菰池公園などから湧き出ることで、市街地を流れる源兵衛川、桜川、蓮沼川などは、溢れるのほど多くの水を湛えていました。

昭和30年代前半頃までの湧水総量は、増水期の夏季で約40数万t/日、減水期の冬季でも約20数万t/日もあり、水温は年間を通じておよそ15度を保っていました。

しかし、昭和35年頃から、地下水汲上げ量の増加と都市化により、湧水量は減りはじめ、「水の都」といわれていた頃の水辺の風景を、だんだん見ることができなくなっています。
今では、初夏から秋までの湧水期しか、小浜池、白滝公園などに湧水が湧きでる光景を見ることができなくなっています。

 


 

三島の立地条件と町の構造


江戸期、東海道の主要な宿場だった三島には、町を描いた数多くの絵図が残されています。
いずれの絵図も、かなりデフォルメされて描かれていますが、そこには共通して強調されているものがあります。
それは、東海道と三嶋大社、そして小浜池(現 楽寿園)と菰池、そこから流れ出る用水路と街道に架けられた多くの橋です。

橋名も、町名や寺名と同じく詳細に記している絵図もあり、三島宿を描いた絵師たちにとって、街道を横断する幾筋もの用水が如何に印象に残ったかが分かります


文化三年(1806) 東海道分間延絵図
三嶋大社、東海道、下田往還道が強調されているが、ほかに小浜池、菰池や用水路も描かれている



三島宿街道絵図  東海道を横断する用水路と橋を中心に描かれている



三島の代表的な民謡に「三島農兵節」があります。

江戸末期から明治期、農兵の訓練に使われた音律豊かなノーエ節ですが、いまでは三島の夏まつりに欠かせないものとなっています。
農兵節の歌詞に、こういう一節があります。

「富士の白雪 朝日でとける とけて流れて 三島にそそぐ」

これは、富士山に降った雪や雨が山全体にしみ込み、伏流水となって三島の地に顔を出すという意味で、顔を出した場所を湧泉地や湧水池といいます。

富士山に登った人なら分かりますが、富士山には川や池というものがありません。

地質学的にいうと、富士山は、古い順に、小御岳(こみたけ)火山、古富士火山、新富士火山の3つの山体から構成されているそうです。
現在の富士山は、小御岳火山や古富士火山などの古い基盤火山の上に形成されたもので、山の表面は浸透性の高い火山噴出物で覆われています。

そのため、雨水や雪解け水は地下にしみこみ、古い基盤火山の不透水層をつたって濾過されながら数年の歳月をへて、湧水となって三島の地で湧き出すのです。


3つの山体から構成される富士山の概念図  (三島市商工会議所「ざ うなぎ横町」リーフレットより)


約1万4千年前の新富士火山の噴火により流出した溶岩は、愛宕山の東麓を回り込み三島の地で止まっています。いわゆる「三島溶岩」の南端が、現在の楽寿園、浅間神社、菰池などの標高30m付近のラインであり、これがこの付近に湧水池が集中している理由です。

三島駅駅前の商店街を白滝公園方面に向かうと、愛染坂などの急坂や楽寿園横に崖がみられますが、これが三島溶岩の名残りなのだと思います。


左:三島駅から愛染坂を下った場所にある「愛染の滝」 溶岩流の名残り  右:愛染坂の裏にある楽寿園横の崖



明治期の地形図をみると、湧水池の集まる標高30m付近から南には水田や桑畑が広がっていますが、ここから北には植生の記載がなく、恐らく溶岩台地に自生した草地が広がっていたのではないかと思われます。


小浜池(楽寿園内)、菰池、鏡池、水泉園などの湧水池から湧きだした水は、小浜用水、源兵衛川、四宮川、御殿川、桜川などの用水路を伝い南流していきます。

三島の町は、三国山山系(芦ノ湖西岸の芦ノ湖スカイラインの通る尾根筋)の西麓を源流とする大場川の右岸に展開していますが、湧水池からの用水は、少しでも低い場所を探すかのように、微妙な地形の凹凸を南に向かって蛇行しながら流れ、4〜5km下流で大場川や狩野川に合流しています。



南流する用水路は、南北方向に緩やかな尾根筋をつくだしているため、これに直交して東西に貫通する東海道は、微妙なアップダウンを繰り返すことになります。

そして、用水路の間の小尾根筋の中で、最も高い場所に三嶋大社はあります。

大場川を渡った東海道は、三嶋大社の門前まで上り坂となりますが、 門前を過ぎると御殿川に向かい下り道となり、川を過ぎるとまた本町まで上ることになります。


三嶋大社は、伊豆一宮であり総社も兼ねていたとされます。 総社とは、国内の神社のご祭神を一ヶ所に集めた社のことで、多くは国府付近に立地しています。
源頼朝が伊豆流刑時代から三嶋大社を崇敬し、幕府開設後には大社の造営と門前を整備したことは既に述べたとおりです。

安藤広重「東海道五十三次」の三島宿は、朝靄の立ち込める中、箱根越えのために早立ちする旅人を描いていますが、右手にみえる三嶋大社の鳥居が三島宿を象徴しています。


三嶋大社の境内


左:東海道五十三次 「三島宿」   右:三嶋大社 本殿



三嶋大社の大鳥居から、尾根筋に沿って真っ直ぐ南に延びているのが下田往還道で、大社の前には市ヶ原の門前町がありました。

下田往還道は天城街道ともよばれ、韮山、修善寺を通り天城峠を越えて下田に通じる伊豆の幹線街道で、三嶋大社が伊豆への交通起点になっていました。修善寺までは、現在の国道136号線と伊豆箱根鉄道のルートがこれに該当します。

また、大社の西隣からは、北の佐野(現 裾野市)や御殿場方面に向かう佐野街道(甲州道)が延びていました。

三嶋大社門前は三島のヘソといえる場所だったのです。




現在の旧東海道は、歩道のある幹線道路となっていて、道路脇の所々に本陣跡や問屋場跡を示す碑が残されているだけで、往時の町並みは一切残されていません。
むしろ、おそらく昭和初期に改装されたであろうルネサンス風などの洋風ファサードをもった建物が目につきます。
なんとなくレトロ調なのが、現在の旧三島宿の町並みです。


旧東海道の町並み



現在、大社門前の市ヶ原町では、無電柱化されてボンエルフ的な道路整備がなされていますが、この沿道にも古い町屋はほとんど見られません。

三島商工会議所の発行しているマップに「看板建築群」と記載されているように、沿道の建物には看板が架けられたり、サイディングされたりしているため、その下の建物がほとんど隠れているので分かりにくいのですが、どうも、昭和初期のモダンな木造又はRC建物が多いようです。


左:三嶋大社鳥居からみた市ヶ原の旧門前町(下田往還道)  右:下田往還道の突当たりにみえる三嶋大社


市ヶ原町もなかなかレトロ調  左:銅版葺きの洋風商家  右:これなんぞは昭和初期の名建築かもしれない



伊豆箱根鉄道の広小路駅付近は、江戸初期においては、三島宿の西端の入口でした。
そこには枡形と火除け土手があり、その名のとおり宿場町の防火帯となっていましたが、江戸中期に、宿場町は千貫樋近くまで大きく西に拡大され、広小路だけが残されたのでした。


左:広小路駅前の旧東海道  右:旧東海道の町並み 正面遠方の高層マンションが目障り



三島市には、市街地を中心に約120ヶ所の湧水源のあることが知られています。
かつては「水の都」と称されるほど豊富な湧水量を誇り、昭和30年代頃には、これらの湧水地から夏で一日40万t、冬でも20万tの水が湧いていたといいます。

しかし今では湧水量は激減して、小浜池や鏡池などの代表的な池でも渇水状態になること多くなっています。

私が町歩きした2月は渇水期だったこともあり、湧水池に「湧水」は見られず、楽寿園の小浜池や鏡池は、完全に干上がっていて溶岩の池底をさらしていました。



渇水状態の湧水池  左:江戸期の絵図に描かれた鏡池の様子  右:御殿川は完全に干上がっている


楽寿園は、明治23年に明治天皇の名代として戊辰戦争を率いた小松宮親王がこの地に別邸を構えたことに始まり、昭和2年に緒名氏が取得した後、昭和27年から三島市が所有管理して公園となりました。
園内には、富士山噴火で流れ出た溶岩がみられ、湧水池として最も有名な小浜池があります。
かつて、江戸期の絵図に大きく描かれた小浜池では、1年中枯れることのなかった湧水が年々減少をつづけ、今では平成16年11月以来、満水になったことはないといいます。


左:小浜池  右:楽寿園でみられる溶岩流の跡



小浜池を水源としていた源兵衛川や蓮沼川(宮さんの川)は、今では三島駅の北側にある東レ三島工場からの冷却水を流しているそうで、夏季で3.6万t、冬季でも2.2万tの冷却水を導水して、清流を再現しています。

湧水池の上流にあるこの工場は、昭和33年に操業を開始して地下水の汲み上げを始めますが、それが三島湧水の渇水が始まった時期と重なるため、その因果関係について喧々諤々の議論がなされています。

一方で、菰池や白滝公園の湧水池は枯れることなく水を湛えていましたが、おそらく汲み上げ井戸から水が供給されているのだと思います。


白滝公園の湧水池


菰 池



近年、三島市と商工会議所では、三島市内を流れる用水路のいくつかを「せせらぎ」として整備する事業に取り組んでいます。
用水路に遊歩道を設けて親水性を高め、散策や水遊びができるように整備し、定期的に清掃を行って、湧水の清流を保つ努力をされています。

特に源兵衛川は、楽寿園の出口から下流に向かって川床を歩けるように整備されていて、街中にいることを忘れるほど心地よい散策を楽しむことができます。


源兵衛川  川床を散策できるようになっている


左:川床の散策路は約1kmにわたり続いている  右:こんな粋な設えをする店もある



源兵衛川沿いを2kmほど歩くと中郷温水池にたどり着きます。
この付近の水田は農業用水に湧水を利用していますが、稲作にとっては水温が低いため、温水池で一旦貯留して水温を上げる機能を果たしています。
ここは美しい富士山を眺望できる場所として有名なのですが、町歩きした日は生憎の曇り空で見ることはできませんでした。



中郷温水池  晴れた日には向こうに富士山が見える

 


 

歴史コラム

 

三島の うなぎ


三島では、古くからうなぎは三嶋大明神のお使いとされ、食用ではありませんでした。

徳川二代将軍が、三島に泊まった際に、家臣が大社の神池のうなぎを蒲焼にして食したことを知り、翌日、この者を町外れで磔にしたしたとの言い伝えも残されています。
江戸期を通じて、三島の庶民も清流に棲むうなぎを食することがなかったために、桜川などには多くのうなぎが泳いでいたそうです。

幕末になると、言い伝えを知らない薩長兵により食されたことが発端となり、三島の清らかな水に棲むうなぎは、ことのほか美味と有名になりました。

三島の鰻の美味しさの秘密は、この湧水にあるといいます。

富士山の伏流水は、昔から「化粧水」といわれるほどの名水で、分子構造が小さく、酵素やミネラルを含みやすい特性をもっているため「活性水」といわれます。

この伏流水を地下40mから汲み上げて、餌を与えず2〜3日間、活性水にうなぎを曝すことで、本来うなぎの持っている生臭さや泥臭さが消され、栄養素であるたんぱく質を減少させることなく、余分な脂肪だけを燃焼させているといいます。

どの店も、普通の鰻丼で2000円近くもしますので、決して安くはないのですが、確かに臭みはなく、とても美味でした。
三島で鰻丼を食してからは、自宅近くのスーパーで買った鰻が食べれなくなりました。

なんとも罪つくりな三島のうなぎでした。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008.2


参考資料

@「三島の成りたち」三島市郷土資料館
A「三島宿」三島市郷土資料館
B「みしま町」三島市郷土資料館
C「ざ うなぎ横町」リーフレット

使用地図
@国土地理院 地図閲覧サービス「三島」
A1/20,000地形図「三島」明治20年修図


ホームにもどる