桑 名


木曽三川の河口に位置し 七里の渡しの船着場がある城下町




 

 


 

桑名のまちあるき


木曾川、長良川、揖斐川の三大河川が伊勢湾に注ぐ河口に位置しする桑名は、旧東海道の渡し舟の発着場であり、東海道42番目の宿場町であり、徳川譜代の久松松平家の城下町として栄えました。

戊辰戦争において桑名藩は幕府軍主力であったため、戦後、桑名城は徹底的に破壊され、米軍の空襲によって町並みは焼失しました。

そのため、古い町並みはほとんど残されていませんが、町は城下町時代の骨格をよく残しており、船着場跡、旧東海道、堀跡など、いたるところに往時の名残を見つけることができます。

 


 

地図で見る 100年前の桑名


現在の地形図と約100年前(明治43年)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図をみると、桑名城下町は揖斐川沿いに展開し、その西外れにJRと近鉄の桑名駅がおかれたことがわかります。
現在では、桑名駅の周辺の農地と丘陵地に市街地が広がっています。

その後の改修により、揖斐川河岸は直線に護岸整備されていますが、揖斐川右岸をみると、埋立により農地が広がる一方で、明治期の市街地の一部(南東端)が削り取られていることも分かります。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

桑名の歴史


本田忠勝による城下町建設

桑名は、木曾川、長良川、揖斐川の三大河川が伊勢湾に注ぐ河口に位置し、人と物資の集積地として発展してきました。

木曽三川及び伊勢湾の水運拠点として、中世末には商人により「我々持(われわれもち)」の町とよばれる自由都市が形成され、堺、博多、大湊と並び「十楽の津」とよばれる日本屈指の貿易都市でもありました。
この自由自治都市の担い手たちは、桑名衆と呼ばれる商人達でしたが、戦国時代には織田信長により平定され、信長家臣の滝川一益の支配するところとなり、以降は武士の支配を受けるようになります。

一益は、当初矢田城(現 走井山)に居を構えましたが、天正二年(1574)の長島の一向一揆滅亡後には長島城に移り、桑名には代官を置きます。
天正十九年(1591)には一柳右近が桑名に入り、その4年後には伊勢神戸城の天守閣を移築して、揖斐川沿いに桑名城を築き始めます。 これが現在の桑名城の原型となりました。

文禄四年(1595)に豊臣秀次が追放されると、秀次家臣の一柳も連座し、代わって氏家行広が桑名城に入ります。

関が原の戦いの翌年、徳川四天王のひとりである本田忠勝が十万石で桑名に入部します。
同時に東海道の宿駅が定められ、桑名は海上七里の渡船場がある宿場として指定されます。忠勝は桑名に入ると町割を開始し、従来からの商人の町 桑名を城下町に造り替え、いわゆる「慶長の町割」を断行します。

従来から、町内を分流して流れ込んできた町屋川の流れを付け替え、その廃川跡を利用していくつもの堀としました。城下町全体を外郭堀で取り囲み、その外郭堀沿いの2箇所には寺を集中させて防御線とし、さらに、城下町の微高地に東海道を通しました。
同業者を集めた町名、伝場町、紺屋町、油町、鍛冶屋町、船町、魚町などの名前はこの時につきました。

武家屋敷地の西側に町屋町が位置したため、冬の西風にあおられた町屋の火が飛び火する恐れがあり、町屋町より1.5m以上も低い川沿いの土地のため水難の恐れがあった。
それにもかかわらず、このように立地条件の悪い場所に城を築いたのは、船運により栄えてきた桑名衆の力かもしれません。

代々の藩主は城郭の改修を行い、第五代藩主松平定綱の時代にほぼ完成しています。その威容は「海道の名城」といわれますが、元禄十四年(1701)の城下町の大火により天守も焼け落ち、それ以降、天守は再建されないまま現在に至っています。

本田忠勝の息子忠政が失脚した後、松平(久松)定勝が十一万石で城主となり、以降、宝永七年(1710)に松平(奥平)忠勝が十万石で入部して七代続いた後、文政六年(1823)に久松松平家が再封となり、五代つづいて維新を迎えます。

桑名城下町の特長は、海上七里の渡船場がある宿場として栄えたことにあります。

参勤交代制度が確立するとともに、主要街道の宿駅は江戸と国元を往復する大名行列などで大いに繁栄し、桑名は東海道42番目の宿場町として旅籠屋や茶店が建ち並び、木曽三川伊勢湾の港町として発展します。

春日神社を中心にして広がる町屋町には東海道が南北に貫通し、その北端には桑名湊が海上七里先の尾張熱田宿とを結んでいました。
江戸末期、宿場沿道には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒が軒を連ねたといわれ、この数は、隣宿の熱田宿に次いで東海道では2番目に多く、船待ちで休憩したり宿泊したりする旅人で、桑名城下町は大いに賑わいました。

安藤広重の描いた東海道五十三次には、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)と渡し舟のある桑名湊が描かれています。

最後の桑名藩主となった松平定敬は、兄弟に会津藩主松平容保や尾張藩主徳川慶勝らを、美濃高須藩主松平義建を父にもつ英邁な血筋で知られましたが、一方で徳川宗家に対する忠義心も人一倍強く、最後まで幕府軍の主力として薩長軍と戦い、江戸幕府と運命を共にすることとなります。

戊辰戦争における敗北により、桑名城は徹底的に取り壊され、城の礎石は四日市築港の資材にされたようですが、幸いにも桑名の町は戦場になることなく、戦前までは古い佇まいを残していたといわれています。


渡船場の宿場町を大きく変えた3つの出来事

維新の激動期に戦災を受けなかった桑名の町でしたが、それ以降、町並みを決定的に変えてしまう3つの出来事が起こります。

その一つが鉄道建設でした。
明治21年に開通した東海道鉄道は、江戸時代の東海道を通ることなく、岐阜から関が原を通り滋賀の米原方面に抜けることになり、桑名は宿場町としての機能を失っていきます。
明治28年には関西鉄道(現JR関西本線の一部)が開通して、名古屋から草津(滋賀県)にぬける旧東海道に沿った鉄道路線ができますが幹線鉄道にはなりえませんでした。
現在の近鉄名古屋線につながる関西急行電鉄が名古屋まで開通し、三重県の諸都市が鉄道で名古屋、大阪に通じるのは昭和13年を待たなければなりませんでした。

2つめが米軍による空襲です。
昭和20年、桑名は米軍の断続的な空襲に見舞われます。
特に、7月の2回の空襲は町の90%を焼失する大規模なもので、これにより江戸期より続いてきた宿場町の佇まいは完全に姿を消してしまいます。

3つめは、昭和34年の伊勢湾台風でした。
桑名城下町は木曽三川の河口にあり、町中を縦横に堀や水路が巡っていたため、台風などにより潮位があがると、町全体が洪水被害を受ける構造上の欠陥を持っていました。
5000人を超す死者・行方不明者をだした伊勢湾台風は、湾岸の諸都市に大きな洪水被害をもたらしたため、その対策として、船着場の周囲に高いコンクリート防波堤が造られ、巨大な鉄製の水門が設けられたのでした。

このため、安藤広重の版画に描かれた「七里の渡し場」の風景はすっかりなくなってしまいました。


現在、桑名にある3つの水門(三之丸水門・川口水門・住吉水門)は再整備が進められています。
防波堤を無くすことはできませんが、風景を台無しにしてきた高い鉄製水門は撤去され、堤防天端より水門が高く飛び出ない構造に造りかえられ、周囲を石垣風にして親水性を加味したものになっています。
また、広重版画に描かれた蟠龍櫓も再建され、歴史景観と防災を両立した試みが進められています。

 


 

桑名の立地条件と町の構造



桑名は、「木曽三川」とよばれる木曽川、長良川、揖斐川の三河川が集まって伊勢湾に流れ出す河口の揖斐川右岸に位置しています。


桑名が宿場町として賑わったのは、三河川を渡り熱田宿とを結ぶ「七里の渡し」の湊町だったためですが、東海道42番目の宿場町だけでなく、伊勢参宮街道の伊勢国玄関口としての機能もありました。

東国から下り、長い船旅の後に桑名湊に着いた江戸期の旅人は、ここで一夜の宿をとりました。そして、京、上方や西国に向かう者は、四日市、亀山、関などの宿場町を通り不破の関から近江国(滋賀県)に入ります。伊勢参りに向かう者は、日永の追分(四日市市)から分かれ、津の手前の江戸橋で伊勢別街道と合流して宇治山田を目指すことになります。


桑名の町割りには、他の城下町にない特徴があるように思えます。

それは、桑名城が海際にある平城で、武家屋敷地がその周囲の低地にあり、町屋町が内陸部の僅かな高地にあることです。

海際の平城としては、伊予の今治城、讃岐の高松城、備後の三原城など、瀬戸内沿岸にある水城が有名で、また、湖岸の平城では、常陸霞ヶ浦の土浦城、戦国期の秀吉による近江長浜城などがあります。

しかし、木曽三川河口という洪水頻発地の海際にある平城は、日本の中でも桑名城くらいではないかと思います。

また、冬季の西風により町屋町の失火が武家屋敷地に飛び火するリスクがあるという、構造上の欠陥も桑名はもっていたと思われます。

これは、本多氏による町割り時において、すでに桑名の地で繁栄を誇っていた桑名衆の力が影響しているのかも知れません。


かつての「七里の渡し」の船着場からは、木曽三川の河口が、そして遠くは長良川河口堰まで見渡すことができます。
豊かに流れる水量と対岸が霞むほどの広い川幅を前にすると、かつての七里の舟旅の長さと、渡し湊として桑名宿場町の賑わいが目に浮かぶようです。


伊勢湾台風後に造られた防波堤越に見る揖斐川河口  右に見えるのが再建された蟠龍櫓


七里の渡しの船着場跡  防波堤から撮影


かつての船着場は、コンクリート堤防と巨大な可動堰に囲まれていますが、近年の改修により、伊勢湾台風後にできた無骨な背の高い鉄製の可動堰は撤去され、堤防より水門が高くならないように配慮された構造に造りかえられています。また、僅かながらも親水空間が確保され、隣には広重の版画に描かれた蟠龍櫓が再建され船着場跡に彩りを添えています。

また、船着場入口には天明年間(1780頃)に建てられた伊勢神社の一の鳥居があります。
桑名は伊勢国の入口にあたるため、明治以降は神宮式年遷宮合わせて20年毎に宇治橋外側の鳥居を削って建て直されています。


伊勢神社の一の鳥居と公園化された船着場


左:広重の描いた桑名湊  防波堤はなく、石垣の上に蟠龍櫓がみえる  右:同じ場所からみた風景


船着場の西端沿岸には、船番所と脇本陣駿河屋、本陣大塚屋があったといいます。
現在では、船番所と駿河屋は料理旅館「山月」に、大塚屋は高級料理屋「船津屋」に、それぞれ屋号を変えてRC建物に建て替わっていますが、いまでも往時の雰囲気を残しています。


左に船津屋  右には山月


船着場の北には住吉神社があります。
桑名は船運が盛んであるため、正徳五年(1715)に勧請されたものと伝えられていますが、最近の堤防可動堰の再築造時に新たに建替えられたようです。
社殿は、かつて渡し舟が漕ぎ出した南東方向を向いています。


再建された住吉神社  遠くに長良川河口堰が望める


船着場から南に延びる道路がかつての東海道です。
船着場のある川口町から江戸町、片町にかけては、船会町、問屋場、丹羽本陣、脇本陣福島屋や大きな旅籠が建ち並び、宿場町桑名の中心地を形成していました。
空襲で焼失したとはいえ、今でも料理屋や飲食店があって、微かに艶かしい風情が漂っています。

旧東海道の片町の裏手には、城下町時代の堀が残されています。
維新以降に、石垣までも撤去された桑名城下町では珍しく、江戸期の石積みが部分的に残されていて、堀を渡る橋から見ることができます。
また、舟運の町らしく堀の石垣には、直接水面の船と出入りできる階段が設けられていて、今でもその名残を見ることができます。


左:片町の裏にある堀跡 石垣には河岸への出入り口がある  右:旧東海道の片町の町並み


堀の石垣には往時のものも残されている


桑名城は、海際の平城だけあって、四重の堀が張巡らされていました。

維新以降、桑名城の土地建物は払い下げられ、石垣の石は四日市港の築港のために使われたといいます。また、明治12年には城内の堀は貯木所として利用され、明治29年には、城内の三の丸御殿跡に桑名紡績工場が建設されましたが、空襲で破壊され、現在は芝生広場となり市民の憩いの場として家族連れで賑わっています。

本丸跡、二の丸跡には、昭和3年に楽翁公(松平定信の隠居後の号)没後100年を記念して「九華公園」整備されています。


かつての内堀  左が旧本丸の九華公園


広い水面のある九華公園
城郭の堀よりも広がっていますが、かつて貯木場だったのが影響しているのかもしれません


東海道の片町を越えると、高さ7m弱の青銅製の鳥居があります。
これは春日神社の鳥居で、寛文七年(1667)に桑名鋳物にて建立されたものですが、今も立派に健在です。


左:旧東海道  中:春日神社の鳥居  右:本殿


東海道を片町の南端で右折すると京町に入ります。
京町を抜けると街道はすぐに左折しますが、ここには城下町時代には京町見附とよばれ代官詰所のあった場所で、明治以降の桑名町役場も置かれましたが、現在では京町公園となっています。

京町公園の横には、かつて外堀が南北方向に延びていました。
現在では、狭いながらも石垣の外堀が復元されて、ライトアップされた遊歩道になっています。


左:京町公園  中:かつての外堀跡  右:夜間にはライトアップされる


かつての東海道は、桑名城下町の中を屈曲しながら南に通じています。 街道沿いは古い町屋が軒を並べているわけではありませんが、道路舗装は石張りと脱色アスファルトを組み合わせ、点在する商店がかつての町屋町の歴史を微かに伝えています。


旧東海道の町並み  いまでも商店が点在している


左:城下町の南端にあたるかつての城門跡  右:コンクリートの水路となった旧外堀跡

それにしても、町中を歩いていて目に付くのがかつての堀を占拠している船です。
ほとんどが釣り船などのプレジャーボートの類であり、漁船ではなく個人が趣味で保有する小船による不法係留のようです。
ずいぶん前から社会問題化していて、役所側の強制撤去を合法とする最高裁判決もでているようですが、現地を見る限り未だに解決を見ていないようです。


左:看板の赤字は石垣への係留禁止の警告文  右:堀跡の至る所に不法係留されるプレジャーボート

 


 

歴史コラム

 

木曽三川の洪水対策の歴史

 

濃尾平野は、その基盤が西へ向かうほど沈降していて、基盤の上部に木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)が運搬した土砂が堆積することで平野が形成されてきました。
木曽三川が流し込む大量の土砂は、河口に細長い三角州を形成し、徐々に海岸線を南進させていったのです。
そのため、平野奥部まで標高がほとんど変わらず、かつ、3つの大河川の流路が狭い地域に集中するという、極めて水害の発生しやすい地理条件が成立しました。


木曽川は、長野県木曽郡の鉢盛山(標高2446m)を水源とし、南信濃の水を集める大河です。
江戸から京に通じる中仙道のうち、特に木曽川沿いは「木曽路」とよばれ、木曽福島、妻籠、馬篭といった宿場町を通り、川は南流します。岐阜県中津川市に入ると木曽川は西に流れを変え、美濃加茂市と可児市の境界で飛騨川と合流し、各務原市と愛知県犬山市の境界付近から濃尾平野に出ます。

一方の長良川は、岐阜県郡上市の大日岳に源を発し、三重県を経て伊勢湾に注ぐ河川で、旧名を墨俣川といい、秀吉の「墨俣一夜城」はこの河岸に造られました。清流としても有名であり、柿田川(静岡県)、四万十川(高知県)とともに日本三大清流のひとつとされています。
平成6年に長良川の河口に堰が建設されましたが、この時の「開発」か「環境」かの建設の是非をめぐる論争は有名です。

また揖斐川は、岐阜県揖斐郡の冠山に源を発し、延長121km、流域面積1840km2 の河川です。


この3河川は、まとめて「木曽川水系」として国により管理されています。
全国に109ある一級水系の中では、流域面積で利根川、石狩川、信濃川、北上川に次いで日本5番目の広さをもち、十勝川、淀川、阿賀野川、最上川などより広く、流量でも日本5番目、流路延長でも7番目を誇る大水系です。
特に、木曽川水系より上位の水系は全て東日本にあり、ここより西に木曽川水系より大きい河川はありません。


この三河川には数々の治水の歴史がありますが、その代表的なキーワードは、「輪中」「宝暦治水」「長良川河口堰」ではないでしょうか。

「輪中」とは、集落や耕地を洪水から守るため、その地域全体を取り囲むように堤防で囲んだ地域をいいますが、河川改修の進んだ明治中期まで、大垣付近から下流の三河川流域一帯に数多くありました。

「宝暦治水」とは、宝暦三年(1753)に幕府が薩摩藩に対して命令した尾張藩領内の木曽三川分流工事のことをいいますが、この事業に駆り出された薩摩藩士の苦難は並大抵のものではなく、この一件は後に薩摩藩を倒幕に走らせる遠因ともなったといいます。

「長良川河口堰」は、昭和40年代後半から建設が始まった治水目的の可動堰ですが、以降、建設差し止め訴訟と計画変更が行われ、平成7年になってようなく運用されたものです。
長良川は、その上流でダム建設適地が少ないことから、川底を掘り下げ流下能力を向上させることで洪水対策とせざるを得ません。しかし、それでは逆に海水が遡上して周辺農地への灌漑用水に悪い影響をあたえることになります。
河口堰は、通常は川床にゲートを下ろして海水遡上を止め、洪水時にはゲートをあげて出水するのです。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.7


参考資料

@「目でみる桑名の江戸時代」桑名市博物館
A「日本の城下町7 近畿(一)」ぎょうせい

使用地図
@1/25,000地形図「桑名」平成5年修正
A1/20,000地形図「桑名」「木曽河口」明治43年部分修測


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