倉 敷


水面に映る美しい柳並木  天領蔵屋敷に始まる創られた町並み



 

 


 

倉敷のまちあるき


柳並木の美しい倉敷川の河畔には古い町並みがよく残り、大原美術館などの文化施設もあって、「倉敷美観地区」として年間を通して多数の観光客でにぎわっています

一見すると川にみえる「倉敷川」は実は「池」であり、河畔の柳並木も昭和30年代半ばに植えられたもの、と聞けば驚く人も多いかも知れません。

倉敷は、江戸期に周辺諸国に点在する天領(幕府直轄地)からの年貢米の集積地だった町で、その名の如く倉敷地として繁栄しました。倉敷紡績などの繊維工業の経済基盤に支えられて、江戸期の町並みを保存しつつも、昭和期にはいってから文化観光都市として「創られた町」だといえます。


 


 

地図で見る 100年前の倉敷


現在の地形図と約100年前(明治30年)の地形図を見比べてみます。

明治30年の地形図をみると、大原美術館やアイビースクエアに代表される倉敷美観地区が旧倉敷町屋とぴったり一致し、その周りには広大な水田が広がっていたことが分かります。

また、倉敷町屋は、小高い丘にはさまれた場所にあり、明治24年に開通した山陽本線は水田を突っ切って一直線に敷設されました。

平成9年の地形図上では、旧倉敷町屋は大きく拡大した市街地の中に埋没してしまい、その境界は全く分からなくなっています。  ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

倉敷の歴史


「蔵屋敷」「水夫屋敷」を起源とする倉敷

 倉敷の北端付近を源とし、児島湾に注ぐ倉敷川は、中世には現在の倉敷市酒津付近から分かれていた高梁川の分流のひとつでした。
 倉敷は、もともと倉敷川の河口に開かれた港が起源で、高梁川の水運を利用して備中の諸物資が集められ、それを納める蔵屋敷が設けられた町です。倉敷という地名の起こりも、そうした蔵屋敷の存在したことによります。

 室町末期には、港としての倉敷の記録が見られることから、少なくともその頃までには内海航路の港として開かれていたようです。

 天正三年(1575)の備中兵乱後、倉敷は、備中一円を領した毛利氏による支配を受け、その後の秀吉による朝鮮出兵の際には、倉敷は「水夫加子浦」として水夫を差し出したとの記録が残されています。

 関ヶ原の戦いの後、倉敷は幕府直轄領となり、代官として小堀正次が支配することになります。
 正次の子の政一(小堀遠州)が代官となった慶長年間(1610頃)には、水夫屋敷を中心に集落を形成する加子浦だったようで、水夫屋敷はすべて税の免除された除地(よけち)でした。

 一方、この頃すでに倉敷川は高梁川の分流ではなくなっていたようです。
 酒津付近で高梁川から分岐していた倉敷川上流は、新田開発のため廃川になり、高梁川から倉敷へは、酒津から3km下流の四十瀬から一旦児島湾に出て倉敷に回航していたのです。
 しかも、小堀氏が近江代官に転任した後の、元和年間(1620頃)から寛永年間(1630頃)にかけて、倉敷の沖合いに広がっていた遠浅の海も干拓されてしまいます。
 この結果、倉敷は一筋の倉敷川によってのみ、児島湾と結ばれるだけの内陸の川港となったのでした。

 そのため、倉敷川は「川」ではなく「海」(奥深い入り江)となり、川床への土砂の堆積が進み、干潮時には倉敷付近では川底が見えるようになりました。
 享保年間(1720頃)には、舟道を確保するために浚渫を繰り返していたとの記録残されています。


「代官所」「物資集積地」として発展する倉敷

あいつぐ干拓事業のため、倉敷の港としての機能は著しく後退しましたが、寛永年間(1640頃)、倉敷に代官所が設置されたことで備中幕府領支配の拠点となり、その後は代官陣屋を中心とする陣屋町として発展することになります。

倉敷代官配下の武士の数が少なかったため、武家屋敷町が形成されるほどの規模ではありませんでしたが、倉敷代官支配の幕府領は5〜10万石にも及んでいたため、倉敷は年貢米の集積地として、また付近の新田で栽培される綿などの物資の集積地として活況を呈しました。

倉敷の人口は、寛文年間(1670頃)の2500人から、元禄年間(1690頃)には3900人、延享年間(1740頃)には5700人、そして文化年間(1810頃)には7200人を数えており、江戸期の町としては例外的に大きな人口増加を示しています。ここからも倉敷が江戸期に大きく発展したことが伺えます。

町の発展に伴い、倉敷では新禄派と称される新興商人が台頭、古禄派と称される門閥旧家13家との間で、江戸中期頃から村政をめぐってたびたび争いが起こっています。
新禄派は綿や干鰯などを扱う裕福な問屋が多く、古禄派は水夫組頭の系譜をひき村役人を独占していました。経済的優位に立った新禄派が、古禄派の既得権であった村政参加を求めたもので、この一連の騒動は倉敷の歴史を語るときに必ずでてくるエピソードとして有名です。

倉敷代官の陣屋は、稲荷山と呼ばれる小丘の南麓に配され、東西南に堀をめぐらしていました。
幕末の慶応二年(1866)に、倉敷騒動(倉敷出身の長州奇兵隊脱走兵による焼き討ち事件)により焼失し、明治20年以降は、倉敷紡績所の工場となりました。昭和40年代にはその工場も閉鎖され、旧工場建物を再利用した観光施設アイビースクエアとして観光客の人気を集めています。


大原氏により「文化観光都市」となった倉敷

江戸期を通して陣屋町、在郷町として賑わったこの町は、倉敷河畔を中心に古い町並みが今日までよく伝えられえています。
これは、明治24年に開通した山陽鉄道(現JR山陽本線)の倉敷駅が町の中心部を外れたことや、太平洋戦争などで空襲を受けなかったことが幸いしているのですが、なによりも、戦後いち早く、町の有識者達によって町並み保存運動が進められてきたことが大きな要因です。


そんな有識者達の中心が、倉敷紡績(現クラレ)の創業家で、大原美術館創立で知られる大原家当主であった大原孫三郎と總一郎の父子でした。

大原家は、倉敷新禄派の豪商として名を連ね、その当主孫三郎は倉敷紡績など一連の繊維関係の企業を起こし、中国銀行頭取も勤め、農業関係、労働関係の研究所も設立しました。
また、児島虎次郎を海外に派遣して名画を募集させ、大原美術館を創設していることでも有名です。
その子總一郎は、レーヨン生産とビニロン開発により倉敷紡績(当時は倉敷レーヨン)を大きく発展させる一方、古い蔵屋敷を利用して民芸館、考古館、陶器館などを設立して、孫一郎の始めた文化観光都市倉敷の街づくりを継承、発展させました。

倉敷美観地区の観光客数は年間400万人といわれています。
倉敷駅北側に開園した倉敷チボリ公園との相乗効果もあり、この数は岡山県下では圧倒的に多く、中国地方でもトップではないかと思います。
交通至便な場所にあり、観光するには丁度いいコンパクトな町なので、休日ともなると、さして広くもない美観地区には観光客で溢れかえります。

創られた美しい風景と河畔をそぞろ歩く人の群れをみると、この町は日本初のテーマパークなのだと思えてきます。

 


 

倉敷の立地条件と町の構造



明治30年の地形図をみると、倉敷の町が倉敷川を中心として稲荷山(鶴形山)の麓に形成されていて、町の南側一面まで干拓により広い田畑が広がっていることがわかります。
倉敷の町が形成された江戸初期の頃の倉敷川河道と児島湾を書き入れてみました。児島湾といっても葦の生い茂る湿地だったようで、「葦高村」「窪屋」「新田」「沖」「四十瀬」など湿地帯、干拓地特有の地名が数多くみられます。
倉敷は、高梁川沿い内陸部と瀬戸内海運路との接点にあり、稲荷山と向山に囲まれた要害の地に立地していたのです。



明治24年に開通した山陽本線倉敷駅は、旧倉敷陣屋町から北に0.5kmの位置に設置され、この間に新しい倉敷の中心市街地が形成されました。
旧陣屋町と鉄道との微妙な位置関係が、明治以降の倉敷の町の保存と発展に大きな影響を与えたようです。

これ以上近くに倉敷駅がおかれていたなら、旧陣屋町の町屋は建て替えが進み、江戸期の町並みは市街地の中に飲み込まれていたかもしれません。
また、これ以上遠ければ、倉敷紡績所は旧代官所跡地に建設されなかったかもしれず、倉敷紡績所がなければ、大原氏が美術館などの私設の文化施設を建設しなかったかもしれません。

現在の倉敷美観地区周辺の地図に、明治30年の地形図で確認できる倉敷町屋地区の範囲を表示しました。



旧倉敷陣屋町が、稲荷山の南麓を通る本町通りと倉敷川沿いに形成されたことは既に述べました。
稲荷山の裾に沿って緩やかにカーブするヒューマンスケールの道と沿道の二階建て町屋がとても心地よく、倉敷川沿いだけでなく、よくこれだけの町並みが残されたものだと感心します。

本町通りの東側は間口の狭い町屋が軒を並べ、西半分には間口の広い大きな商家が目立ちます。

本町通り東半分の町屋は、中二階平入りが主体ですが、部分的に妻入りの町屋が混じっていて、二階の塗り込め壁に海鼠壁の腰壁が特徴的で、中には土蔵造りに近いものも見られます。
一階は黒く焼いた杉板の縦張りや格子戸、ガラス戸もあり様々なバリエーションがありますが、軒の高さが揃っているのが印象的です。
惜しむらくは、電柱が無造作に立っていることで、これだけの町並みが残されているのだから、せめて電柱も地中埋設にしてほしかったと思います。


本町通りの町並み  1階の軒がそろい、2階の海鼠壁の腰壁が特徴的


倉敷アイビースクエア周辺の町並み


本町通りの西半分は比較的間口の広い大きな商家が目立ちます。
中でも、井上家(国重文)は正徳年間(1715頃)の建築された唯一現存する古禄の町屋で、石造土台と下目板張りの腰壁、そして土壁と格子窓の一階に、白漆喰の塗り込め壁に土扉のついた小窓(倉敷窓)を多く設けた土蔵造りの二階をのせているのが特徴的です。
このほかに、通り沿いにある中国銀行倉敷出張所は、大正11年に建築されたRC造石張りで、正面に6本、側面に3本の付柱とドーム型のステンドグラス窓を持つルネサンス様式の建物です。
その斜め向いにある、明治40年に郵便局舎として建てられた事務所は、白ペンキ塗りの下目板張りに上げ下げ窓をもつ港町風の洋館建物です。



本町通り西半分にある比較的間口の広い町屋  中右の町屋二階には倉敷窓がみれる


左:井上家住宅  中:中国銀行倉敷出張所  右:港町風洋館


倉敷川は、水質浄化しているのか、水も澄んでいて鯉が泳ぎ水鳥が羽を休めていました。
かつての倉敷町屋の商家や土蔵など川沿いの建物はすべて観光客向けの土産物などに再利用されていて、いまだに川沿いで民家であり続けているのは、重文建物の大原家住宅など数えるほどしかありません。



倉敷川沿いの町並み





明治後期から昭和30年頃までの倉敷河畔の風景を写した写真が残されています。
そこに写された光景は、現在のような両岸の柳並木の映える美しい倉敷川の水面ではなく、汚い川底のみえる泥川と崩れかけた石垣です。

昭和前半まで、倉敷川の河畔には数本の柳しか植わっておらず、昭和30年半ばになって、道路下に一段低い岸が築造され、そこに柳並木が植えられました。

また、倉敷川は児島湾につながる運河でしたから、川の水位は潮の干満とともに上下がありました。干潮時には川は淀み、汚らしい川底が見えていたのです。
昭和31年、児島湾に潮止めが実施され、この倉敷川が細長い「池」となったとき水位の高低は止まり、今のような美しい水面を見せる「川」となりました。



左:明治後期の写真  今より川幅が広く柳並木がない  倉敷紡績(現アイビースクエア)の煙突がみえる
右:現在の風景



左:昭和30年頃の写真  川底の泥がみえている  右:現在の風景  船が浮かぶほどの水深がある


河畔の蔵屋敷が、大原孫三郎と總一郎の父子により、様々な文化施設に姿を変えて再生、保存され、その中心にある倉敷川が柳並木を映す美しい川に生まれ変わり、これらが起爆剤となって、その他の蔵屋敷も次々と土産物屋や飲食店などに再利用されるようになり、今日の文化観光都市「倉敷」があるのです。

倉敷は、「残された町」というより「創られた町」といえるかも知れません。

もうひとつ、ほかの町にない倉敷の特徴として、倉敷美観地区とよばれる旧倉敷陣屋町と一般市街地との境界が、現地ではっきりと分かることです。



倉敷美観地区の南端  左が美観地区で右が一般市街地


美観地区から一歩でも外に出ると、古い町並みは一切みられません。 倉敷駅前通りを歩いてきて美観地区入口の交差点を左に折れると、突然目の前に江戸期の町並みが現れます。
倉敷川沿いをゆっくりと10分も歩くとそこで終点。信号の向こうにはRC造タイル張りの建物があり、ここも境界がはっきりしています。 美観地区の倉敷川沿いをそぞろ歩いてきた観光客達は、美観地区の終点(一般市街地との境界)までくると、「これで終わりか。」といって引き返していきます。

不自然なほど境界が明確なことが倉敷の町並みの特徴といえます。

倉敷美観地区は、明治大正期を起源として「創られた町」なのであり、「日本初のテーマパーク」といえるのかも知れません。

 


 

歴史コラム

 

瀬戸内の「干拓事業」と中国山地の「たたら製鉄」


瀬戸内は、近世初頭から主要な河川の河口付近で、数多くの干拓事業が行われてきました。
瀬戸内には干拓が可能な干潟や遠浅の水域が多く、戦乱の世が終わった江戸期に入り、瀬戸内沿岸の諸藩は積極的に干拓事業を進め、農地の拡大を計りました。
特に中国山地では古来より「たたら製鉄」が盛んで、これが瀬戸内河口で土砂を堆積させる原因となり、河口域での干拓事業を促進させたといえます。

たたら製鉄とは、中世から近世にかけて発達した古式製鉄法であり、花崗岩や閃緑岩の風化層に含まれる砂鉄を原料としていました。
砂金の採取には風化層を掘り崩して水路に流し、比重によって砂鉄のみを選鉱する「鉄穴(かんな)流し」とよばれる手法がとられました。
この方式は、古来より昭和初期までの長い期間、中国地方山間部の各地で行われつづけ、流された土砂は川を運ばれ河口部に堆積したのです。
この影響は、倉敷と児島の間に位置して、古来から「吉備の穴海」と呼ばれた水域で最も典型的に見られました。

ここには高梁川、旭川、吉井川の三川が流れ込んだため、堆積作用が強く働きました。現在の倉敷市南部に広がる水島臨海工業地帯にある児島、連島、亀島、王島とよばれる小山は、その名の通りかつては島でしたが、江戸前期にはすでに陸続きとなっていました。また、干拓地には水田と綿花畑が広がり、亀島新田、鶴新田、福田新田など縁起のいい新田名がつけられ、これらはいまでも地名として残されています。

 


 

まちあるき データ


まちあるき日    2007.7

参考資料
@「山陽カラーシリーズ4 倉敷の町屋」伊藤ていじ
A「山陽新聞サンブックス 倉敷のまち」

使用地図
@1/25,000地形図「倉敷」「茶屋町」平成9年修正
A1/20,000地形図「倉敷」「川辺村」明治30年測図


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