唐 津


玄界灘を遥かに望む 壮大な擬似天守をもつ城下町




 

 


 

唐津のまちあるき


戦災を受けなかった唐津市街地は、今でも城下町時代の町割りをそのまま残しています。そして、恐らく20〜30年前までは、町中の至るところに、忘れ去られたように石垣や堀跡が残されていたのだと思います。
現在、唐津市では、これらの歴史の遺跡を順次復元して、城下町の姿を再現しようとする試みが進められています。

かつての城郭内では、再び堀が掘り込まれ、櫓が再建され、石垣が積み直されています。
かつての武家屋敷地には、生垣が植えられ土塀が修復されています。
そして、唐津城本丸には壮大な天守がそびえ立っています。

唐津城天守は、満島山とよばれる独立丘に立つ五層の大天守で、松浦川沿いから遠望したときの姿はドラマチックでさえあります。
実は、この天守は昭和41年に建築されたものあり、江戸期に唐津城に天守があったとする記録すらないそうです。つまり、「きっと天守はあった。そして、その姿はこうだった。」と想像して造られた、いわゆる「擬似天守」なのです。
全国に擬似天守は数多ありますが、唐津城ほど印象的な光景をみせる天守は他に知りません。



松浦川対岸からみる唐津城

 


 

地図で見る 100年前の唐津


明治大正期の地形図が手に入らなかったので今回は休みです。

 


 

唐津の歴史


古代からの海運拠点 唐津

唐津の歴史は古く、日本の揺籃時代にまで遡ります。

「唐」とは「韓」のことでもあり、古代の日本人が朝鮮や中国をさして呼ぶ汎称でしたが、「唐津」とは、文字どおり「唐(から)」との交易の「津(港)」を意味しており、博多や伊万里、平戸などと並ぶ大陸との海運ターミナルのひとつでした。

唐津地方は、「魏志倭人伝」においては「末盧(まつら)国」と呼ばれ、「まつら」という音は、古事記では「末羅」の字があてられ、日本書紀では「松浦」と記されています。

鎌倉期から室町期にかけて、唐津から壱岐、平戸、五島列島にわたる広い地域を支配したのが、「松浦党」とよばれる在地の武士団でした。
波多、呼子、伊万里、平戸など、総数50余りの諸家からなる松浦党は、武装的海商として共同利害の下に団結し、遠く朝鮮や中国にまで活動の範囲を広げた「倭寇」の中心的存在でした。

戦国時代にはいると、東から大友氏、南から竜造寺氏の勢力が増し、松浦党の結束は次第に崩れていきますが、その中で波多氏が唐津地域の首領として地歩を固めます。

しかし、秀吉による九州侵攻により、筑肥の武将が次々と討伐、屈服していく中で、波多氏も秀吉の配下に組み込まれることになります。
天正十六年(1588)の海賊禁止令により、倭寇としての松浦党の歴史的役割が否定され、波多氏も、文禄の役に動員された際の戦が秀吉の忌諱に触れて常陸の国に流罪となり、鎌倉期以降400年続いた中世唐津は消滅します。


寺沢氏による城下町建設

秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)においては、唐津の北西10数kmにある肥前名護屋(現 唐津市鎮西町、呼子町)に本営がおかれ、ここに五層七階の大天守を抱く壮大な名護屋城が建設されました。
文禄・慶長の役は、別名「焼物戦争」ともよばれ、侵略した諸大名の多くが朝鮮各地の陶工を連れて帰り、彼らの優れた技術により九州の陶磁器は飛躍的な発展をとげます。
特に唐津焼は、東の「せともの」(瀬戸)に対して西の「からつもの」(唐津)とよばれるほど隆盛を極め、江戸時代には、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼物のことを指すまでになります。

波多氏流罪の後、唐津には寺沢広高が八万三千石で入封します。
寺沢氏は、尾張出身で本能寺の変後に秀吉に仕えますが、関ヶ原の戦いでは徳川方に組し、その戦功で天草四万石を加増されています。

寺沢広高は唐津を港町から城下町に変貌させます。

慶長十三年(1608)、広高は松浦川河口に位置する満島山に唐津城を建設します。
同時に町田川の河道を東に付け替えて満島山南麓で松浦川と合流させて外堀とし、河道付替えにより唐津城の西側に新たにできた土地に二の丸、三の丸を配して、その外側に城下町を建設しました。
これにより、唐津城は北を玄界灘、東南を松浦川と町田川に囲まれ、西を城下町に守られた要害の城となりました。


譜代大名による幾度もの藩主交代

寛永十四年(1637)島原の乱が起こり、この不始末を幕府から咎められた二代目藩主堅高は、天草四万石を没収され、ほどなくその心労により自殺してしまい、嫡子がなかったため寺沢家は2代で断絶となります。

寺沢氏改易後は一時天領となりますが、慶安二年(1649)、大久保忠職が播磨明石から入封し、以降、唐津藩は、松平(大給)氏、土井氏、水野氏、小笠原氏と、譜代大名による転封が相次ぎます。

これら藩主の中には、大久保忠朝(老中)、松平乗邑(老中)、土井利里(寺社奉行)、水野忠邦(老中)のように、唐津藩での最後の藩主が幕閣で活躍しました。
唐津藩主の役割は長崎警備(福岡藩と佐賀藩の1年交代)の見回り役という公務をもっていましたが、幕閣に入るためには転封が条件のようでした。
小笠原氏も最後の藩主・長国の養嗣子となった長行が老中に任じられており、格としてはいずれも老中をだせる譜代大名でした。


明治以降の唐津

廃藩置県の後、唐津城は廃城となり、払い下げにより建造物は解体された後に、舞鶴公園となって一般に開放されることとなります。
昭和41年に五層五階の模擬天守が本丸跡に築かれ、平成以降城下町への堀や櫓の再建が進んでいます。
平成元年には唐津市役所前に肥後堀と石垣が復元され、平成4年には二の丸跡に時の太鼓、翌年には市役所付近に三の丸辰巳櫓がそれぞれ復元されました。

明治期以降、唐津地域の各地で石炭が発見され、唐津炭田と総称される産炭地となります。
この石炭を遠方に積み出したのが唐津港であり、そこまでの輸送手段となったのが、松浦川の舟運と唐津鉄道(現 JR唐津線)でした。
唐津線は、唐津興業鉄道により唐津側から順次敷設され、鉄道会社の吸収合併と路線の新設改廃が幾度か行われ、九州鉄道によって明治36年に長崎本線の久保田駅までつながります。
唐津線の終点が唐津駅ではなく、一駅先の西唐津駅となっているのはこのためです。
戦後は、エネルギー事情の変化により他の炭田と同様に閉山が相次ぎ、昭和30年代後半には全ての炭鉱が閉山となります。

現在、唐津市は12.8万人の人口を数えます。
福岡県の前原市が6.7万人、佐賀県の伊万里市が5.7万人、有田町が2.1万人、松浦市が2.5万人、長崎県の平戸市が3.6万人と、福岡市以西の玄界灘沿岸の都市では、唐津市は最大の都市になっています。

また蛇足ではありますが、唐津市は、工部大学校造家学科(現 東京大学建築学科)の第1期生4人のうち、辰野金吾と曽禰達蔵の2人、同じく建築家の村野藤吾の出身地だそうです。
日本の近代建築黎明期を牽引した辰野と曽禰の2人の巨匠と、昭和時代を通し、当時全盛だったモダニズム建築とは一線を画しながらも、近代日本建築の旗手であった村野藤吾が、いずれも唐津の出身であることは私にとってはとても驚きでした。

 


 

唐津の立地条件と町の構造



唐津は、リアス式海岸のつづく玄界灘に面し、東には福岡県と佐賀県を分ける脊振山地が海に迫り、西には上場台地とよばれる玄武岩が流出した熔岩台地の広がる東松浦半島があり、両者に挟まれた松浦川の河口に形成された沖積平野に位置しています。

唐津湾に河口をもつ松浦川は、佐賀県武雄市の青螺山(標高599m)を源として、鳥海川、厳木川、徳須恵川などの支流を合わせて、下流においては唐津平野を形成して玄界灘に注いでいる河川です。

博多から筑肥線に乗っても、佐賀から唐津線に乗っても、いずれも唐津駅には1時間20分程の時間を要します。平戸や松浦、伊万里などと同じく、唐津もまた陸の孤島にあるといえます。



唐津城天守から唐津湾を遠望すると、湾内に浮かぶ高島や大島などの断崖絶壁の小島が目に入りますが、唐津城の建つ満島山も、かつては満島とよばれ、松浦川の河口に位置していた小島のひとつだったようです。


唐津城天守から見た唐津湾



江戸初期の唐津藩主 寺沢広高は、唐津城の建設に伴い、満島山の西で海に注いでいた松浦川と町田川の河口を東側に付け変えて、満島山を河口の小島から陸続きの丘陵に変えてしまう、一大土木工事を行ったことは既に述べました。



唐津城の建材は、名護屋城の遺構を使用したといわれますが、天守が建設されたという記録は残されていないようです。
現在博物館となっている五層の天守は、昭和41年にRC造にて建築されたものであり、築城時には存在したであろうと思われる姿を想像して造られた擬似天守です。

関ヶ原の戦いから一国一城令までの約15年間、論功行賞により新たな知行地を得た諸大名が相次いで居城の整備を進める、いわゆる慶長期の築城ラッシュがありました。
池田氏による姫路城の改築に始まり、熊本城、彦根城、尾張名古屋城などの名城が築かれたのが慶長期であり、同時期に築城された唐津城にも名護屋城を模した天守が建設されたとしても不思議ではありません。

しかし、江戸初期の正保絵図に天守は描かれていません。
寺沢広高は、松浦川河口にある標高60mの満島山頂に天守を建築したものの、秀吉恩寵の外様大名家が幕府により次々と除封されていくなかで、その威容に対する幕府の疑心を恐れる余り、自ら破却したという可能性は大いにあり得ると思います。

現在の唐津城天守は、そんな推測をさせるほど、威厳に満ちた印象的な光景を見せてくれます。


松浦川対岸(松浦橋付近)からみた唐津城


擬似天守といえども堂々の風格をもつ



唐津城下町は、唐津駅の北口から唐津城天守まで、町田川に沿うように展開していました。

戦災を受けていないにもかかわらず、古い町並みはあまり残っていません。
しかし、現在の町は城下町時代の構造をほぼそのまま踏襲しており、現在の地形図上に江戸期の町割りを容易に重ねることができます。

かつての唐津城郭は、天守のある本丸、藩主館や政務所などのあった二の丸、武家屋敷地の三の丸で構成されていました。
三の丸の西側には絵図に鉄砲町と記載された下級武士の組屋敷町(現 坊主町一帯)が広がり、三の丸の南側、現在の唐津市役所と唐津駅の間には町屋町である内町(外曲輪)、町田川を挟んで東側には港町の機能を担った外町(現 魚町、大石町付近)が展開していました。
また、町の外周部には東寺町(現 十人町付近)と西寺町(現 西寺町)があり、そこには寺院が集中して城下の防衛線の役割を果たしていました。

江戸期の城下町絵図によると、それぞれの土地利用は明確に区分されていたようですが、現在でも、境界部には堀や石垣又はその跡が残っているので、現地において城下町時代の町割りの痕跡をたどることができます。



二の丸と三の丸を区切る二の門堀は、町田川とつながる現存する堀ですが、堀端の屋敷の見事な枝ぶりの木々や、水面に映える石垣など、昔日の風情を残す城下町らしい空間となっています。


二の門堀の風景



唐津市役所前にある肥後堀は、三の丸を囲む堀の一部であり、20年ほど前に復元整備されたものです。
築城にあたっては、近隣諸大名の加勢を受けたようで、肥後堀のほかに、佐賀堀、長州堀、薩摩堀などの堀名が残されています。


左:唐津市役所入口  中右:復元された肥後堀


三の丸堀跡  ビルの裏に石垣が見える
肥後堀も、堀が復元される前は同様の状態だったのかも知れない



江戸期、三の丸外周には肥後堀のような堀が廻っていました。
現在では、そのほとんどが埋め立てられていますが、堀跡にあたる場所には部分的に石垣がみられ、旧三の丸が数メートル高くなっています。周囲に比べて三の丸は微高地だったようです。

城下町建設以前に城下町の西側を流れていた町田川を、寺沢氏が東側に付け替えたのですが、松浦川、波多川、町田川などの形成した砂丘上に、三の丸は築かれたのかも知れません。


西城内町の西端に残る三の丸堀の跡
堀は埋め立てられ細い水路があるだが、三の丸の微高が石垣と道路勾配に残っている



旧二の丸(現 東城内、唐津東高校などが立地)の北外周にも石垣が残されています。
かつて、二の丸石垣の外には、西の浜の砂浜と松原が広がっていたはずですが、今では旅館や住宅が建ち並んでいます。
数百mにわたり続く高さ3〜4mの石垣は、粗野な積み方で精緻なものではありませんが、苔むした石垣には降り積もった時の優しさがありました。
唐津の重要な歴史遺産のひとつです。


二の丸の石垣  遠くに天守が見える



三の丸の中心には唐津神社があります。
海の神、航海の神である住吉三神を御祭神として、天平勝宝七年(755)の創建と伝わり、由緒は神功皇后の三韓征伐まで遡ります。
唐津神社の秋季例大祭が「唐津くんち」で、張り重ねた和紙の上から漆を塗り金箔などを施した「漆の一閑張り」で製作された14台の巨大な「曳山」が旧城下町を練り歩くのが特徴です。


唐津神社  それにしても門前の市民会館のデザインには、もう少し工夫が欲しかったところです



唐津神社に近い南城内や大名小路には、生垣や土塀が廻る広い屋敷地が数多く残り、かつての武家屋敷地の風情を色濃く残しています。


左中:広い敷地に生垣が廻る南城内の町並み  右:大名小路に復元された石垣と土塀


城内唯一の幹線道路沿道にも綺麗に整えられた石垣と生垣が続く



旧三の丸の南側一帯には堀を挟んで内町がありました。

江戸初期には本町、京町、米屋町、呉服町、紺屋町など12町を数えた町屋町ですが、南隣に唐津駅ができたため、今でも駅前の商業地域としての機能を果たしています。

唐津駅を起点として、北に延びる呉服町通りと東に延びる京町通りにアーケードがかかっていますが、城下町時代における内町から外町方向への街道に沿った東西軸線は希薄になったため、京町の商店街は寂れてしまっています。


左:呉服町通りの商店街  中:京町通り


内町の町並み  城下町時代の道幅のまま


内町と外町を分ける町田川沿いには、長崎に送られる途中の二十六聖人上陸の碑あり、その近くに架かる千鳥橋が目を引きます。
三の丸の東端には10年程前に復元された辰巳櫓と柳堀があり、かつての唐津城郭の南東角を引き締めています。


左中:町田川と千鳥橋  右:辰巳櫓と柳堀


外町の材木町通り沿道には町屋が幾つか残されていますが、内町に比べて間口が広く建て詰まり感がありません。
外町は、材木町、船宮町、水主町などの町名から分かるように、船大工と水夫の集住する町屋でした。現在ではその名残は全く見られませんが、隣の大石町には海産物と農産物の集まる市が昭和初期まで立っていたといいます。


外町の町並み


最後に町歩きの時に見つけた2つの洋風建築を紹介します。

本町にある旧唐津銀行本店は、明治45年に建築された2階建ての煉瓦造建物です。 唐津出身の辰野金吾が監修したと現地説明看板には書かれていますが、外観を見る限り「擬似辰野風」といったほうが適当で、とても「騒々しい」外観が印象に残る建物でした。

外町の東端に位置する船宮町に、下目板張りの木造瓦葺の洋風建物があります。
これは宮島醤油の事務所棟で、サッシが入れ替えられていますが、水路沿いの外壁に付けられた、バットレスのような袖卯建のような、意味不明の付け壁が印象に残ります。


左:旧唐津銀行本店  右:宮島醤油の事務所棟



 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年7月


参考資料

@「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社
A唐津藩四百年記念「からつ歴史考」唐津市

使用地図
@1/25,000地形図「唐津」「浜崎」平成13年修正測量


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