唐 津
玄界灘を遥かに望む 壮大な擬似天守をもつ城下町
唐津のまちあるき
戦災を受けなかった唐津市街地は、今でも城下町時代の町割りをそのまま残しています。そして、恐らく20〜30年前までは、町中の至るところに、忘れ去られたように石垣や堀跡が残されていたのだと思います。 |
松浦川対岸からみる唐津城 |
地図で見る 100年前の唐津 明治大正期の地形図が手に入らなかったので今回は休みです。 |
唐津の歴史
古代からの海運拠点 唐津 |
唐津の立地条件と町の構造 唐津は、リアス式海岸のつづく玄界灘に面し、東には福岡県と佐賀県を分ける脊振山地が海に迫り、西には上場台地とよばれる玄武岩が流出した熔岩台地の広がる東松浦半島があり、両者に挟まれた松浦川の河口に形成された沖積平野に位置しています。 唐津湾に河口をもつ松浦川は、佐賀県武雄市の青螺山(標高599m)を源として、鳥海川、厳木川、徳須恵川などの支流を合わせて、下流においては唐津平野を形成して玄界灘に注いでいる河川です。 博多から筑肥線に乗っても、佐賀から唐津線に乗っても、いずれも唐津駅には1時間20分程の時間を要します。平戸や松浦、伊万里などと同じく、唐津もまた陸の孤島にあるといえます。 唐津城天守から唐津湾を遠望すると、湾内に浮かぶ高島や大島などの断崖絶壁の小島が目に入りますが、唐津城の建つ満島山も、かつては満島とよばれ、松浦川の河口に位置していた小島のひとつだったようです。
江戸初期の唐津藩主 寺沢広高は、唐津城の建設に伴い、満島山の西で海に注いでいた松浦川と町田川の河口を東側に付け変えて、満島山を河口の小島から陸続きの丘陵に変えてしまう、一大土木工事を行ったことは既に述べました。 唐津城の建材は、名護屋城の遺構を使用したといわれますが、天守が建設されたという記録は残されていないようです。 現在博物館となっている五層の天守は、昭和41年にRC造にて建築されたものであり、築城時には存在したであろうと思われる姿を想像して造られた擬似天守です。 関ヶ原の戦いから一国一城令までの約15年間、論功行賞により新たな知行地を得た諸大名が相次いで居城の整備を進める、いわゆる慶長期の築城ラッシュがありました。 池田氏による姫路城の改築に始まり、熊本城、彦根城、尾張名古屋城などの名城が築かれたのが慶長期であり、同時期に築城された唐津城にも名護屋城を模した天守が建設されたとしても不思議ではありません。 しかし、江戸初期の正保絵図に天守は描かれていません。 寺沢広高は、松浦川河口にある標高60mの満島山頂に天守を建築したものの、秀吉恩寵の外様大名家が幕府により次々と除封されていくなかで、その威容に対する幕府の疑心を恐れる余り、自ら破却したという可能性は大いにあり得ると思います。 現在の唐津城天守は、そんな推測をさせるほど、威厳に満ちた印象的な光景を見せてくれます。
唐津城下町は、唐津駅の北口から唐津城天守まで、町田川に沿うように展開していました。 戦災を受けていないにもかかわらず、古い町並みはあまり残っていません。 しかし、現在の町は城下町時代の構造をほぼそのまま踏襲しており、現在の地形図上に江戸期の町割りを容易に重ねることができます。 かつての唐津城郭は、天守のある本丸、藩主館や政務所などのあった二の丸、武家屋敷地の三の丸で構成されていました。 三の丸の西側には絵図に鉄砲町と記載された下級武士の組屋敷町(現 坊主町一帯)が広がり、三の丸の南側、現在の唐津市役所と唐津駅の間には町屋町である内町(外曲輪)、町田川を挟んで東側には港町の機能を担った外町(現 魚町、大石町付近)が展開していました。 また、町の外周部には東寺町(現 十人町付近)と西寺町(現 西寺町)があり、そこには寺院が集中して城下の防衛線の役割を果たしていました。 江戸期の城下町絵図によると、それぞれの土地利用は明確に区分されていたようですが、現在でも、境界部には堀や石垣又はその跡が残っているので、現地において城下町時代の町割りの痕跡をたどることができます。 二の丸と三の丸を区切る二の門堀は、町田川とつながる現存する堀ですが、堀端の屋敷の見事な枝ぶりの木々や、水面に映える石垣など、昔日の風情を残す城下町らしい空間となっています。
唐津市役所前にある肥後堀は、三の丸を囲む堀の一部であり、20年ほど前に復元整備されたものです。 築城にあたっては、近隣諸大名の加勢を受けたようで、肥後堀のほかに、佐賀堀、長州堀、薩摩堀などの堀名が残されています。
江戸期、三の丸外周には肥後堀のような堀が廻っていました。 現在では、そのほとんどが埋め立てられていますが、堀跡にあたる場所には部分的に石垣がみられ、旧三の丸が数メートル高くなっています。周囲に比べて三の丸は微高地だったようです。 城下町建設以前に城下町の西側を流れていた町田川を、寺沢氏が東側に付け替えたのですが、松浦川、波多川、町田川などの形成した砂丘上に、三の丸は築かれたのかも知れません。
旧二の丸(現 東城内、唐津東高校などが立地)の北外周にも石垣が残されています。 かつて、二の丸石垣の外には、西の浜の砂浜と松原が広がっていたはずですが、今では旅館や住宅が建ち並んでいます。 数百mにわたり続く高さ3〜4mの石垣は、粗野な積み方で精緻なものではありませんが、苔むした石垣には降り積もった時の優しさがありました。 唐津の重要な歴史遺産のひとつです。
三の丸の中心には唐津神社があります。 海の神、航海の神である住吉三神を御祭神として、天平勝宝七年(755)の創建と伝わり、由緒は神功皇后の三韓征伐まで遡ります。 唐津神社の秋季例大祭が「唐津くんち」で、張り重ねた和紙の上から漆を塗り金箔などを施した「漆の一閑張り」で製作された14台の巨大な「曳山」が旧城下町を練り歩くのが特徴です。
唐津神社に近い南城内や大名小路には、生垣や土塀が廻る広い屋敷地が数多く残り、かつての武家屋敷地の風情を色濃く残しています。
旧三の丸の南側一帯には堀を挟んで内町がありました。 江戸初期には本町、京町、米屋町、呉服町、紺屋町など12町を数えた町屋町ですが、南隣に唐津駅ができたため、今でも駅前の商業地域としての機能を果たしています。 唐津駅を起点として、北に延びる呉服町通りと東に延びる京町通りにアーケードがかかっていますが、城下町時代における内町から外町方向への街道に沿った東西軸線は希薄になったため、京町の商店街は寂れてしまっています。
内町と外町を分ける町田川沿いには、長崎に送られる途中の二十六聖人上陸の碑あり、その近くに架かる千鳥橋が目を引きます。 三の丸の東端には10年程前に復元された辰巳櫓と柳堀があり、かつての唐津城郭の南東角を引き締めています。
外町の材木町通り沿道には町屋が幾つか残されていますが、内町に比べて間口が広く建て詰まり感がありません。 外町は、材木町、船宮町、水主町などの町名から分かるように、船大工と水夫の集住する町屋でした。現在ではその名残は全く見られませんが、隣の大石町には海産物と農産物の集まる市が昭和初期まで立っていたといいます。
最後に町歩きの時に見つけた2つの洋風建築を紹介します。 本町にある旧唐津銀行本店は、明治45年に建築された2階建ての煉瓦造建物です。 唐津出身の辰野金吾が監修したと現地説明看板には書かれていますが、外観を見る限り「擬似辰野風」といったほうが適当で、とても「騒々しい」外観が印象に残る建物でした。 外町の東端に位置する船宮町に、下目板張りの木造瓦葺の洋風建物があります。 これは宮島醤油の事務所棟で、サッシが入れ替えられていますが、水路沿いの外壁に付けられた、バットレスのような袖卯建のような、意味不明の付け壁が印象に残ります。
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まちあるき データ
まちあるき日 2008年7月 参考資料 @「城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町」平凡社 A唐津藩四百年記念「からつ歴史考」唐津市 使用地図 @1/25,000地形図「唐津」「浜崎」平成13年修正測量
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