鎌 倉


京都、奈良とならぶ日本三大古都のひとつ
中世城塞都市の残照に中にある保養観光都市



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鎌倉のまちあるき


建久三年(1192)、源頼朝は鎌倉の地に史上初めての武家政権を樹立しました。

鎌倉幕府、は初めての武家政権というだけでなく、京などの畿内から遠く離れた地に、日本の政治中枢が置かれたことでも日本初のことでした。

しかし、鎌倉は、東西北の三方を標高100〜150m程度の丘陵で囲まれ、いくつかの切り通しによってしか外地域と通じていない非常に閉鎖的な場所にあり、1〜2km程度の幅と奥行きしかもたない小さな沖積平野に過ぎません。
政治の中枢都市というより、地形的には穴倉や砦といったほうが適当なように思えます。

鎌倉は、丘陵と海とに守られた「中世の城塞都市」でした。


一方で、中世において鎌倉は日本屈指の大都市だったようです。

幕府の政所をはじめ御家人達の居館が建ち並び、頼朝、政子など北条氏や有力御家人らにより数々の寺院が建立され、鎌倉中期には北鎌倉を中心にいくつもの禅宗寺院が壮大な伽藍を並べました。
鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉には「鎌倉府」がおかれ、その後も有力寺社には秀吉や家康など歴代の日本の支配者層の庇護を受けてきました。

鎌倉は、全国の武家の崇拝を集める「武家の都」でもありました。


そして今、戦災を受けなかった鎌倉は、奈良や京都とならぶ古都として、いくつもの古刹が伽藍を広げる観光都市であり、また、海水浴やマリンスポーツが盛んな首都圏近郊の保養地・避暑地そして高級住宅地でもあります。
それは、明治以降、華族や政府高官、豪商達が別荘地をこの地に求め、数多くの文人が訪れ、移り住み様々な文化活動をおこなったためです。

現在の鎌倉は、日本を代表する「観光都市」であり「リゾート地」ともなっています。


中世における城塞都市・武家の都だった鎌倉では、800年前から積み重なった歴史の痕跡が、いまの地勢や地名、寺社の配置などに見いだすことができます。
今回の鎌倉のまちあるきは、古い町並みを訪ねるのではなく、中世都市「鎌倉」における残照の風景を探し出すことにします。


左:鶴岡八幡宮  右:北鎌倉 建長寺 三門

 


 

鎌倉の歴史


開幕以前の鎌倉

源頼朝が、鎌倉の地に幕府を開くまで、この地には町といえる集落すらない辺鄙な土地であった、と鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」は伝えています。
しかし、近年の研究でこれは否定され、頼朝の鎌倉入部の意義を強調するため、その以前の鎌倉を過小評価した記述だといわれています。

律令時代、鎌倉の地は、相模国の鎌倉郡鎌倉郷とよばれていました。

鎌倉駅西の丘陵麓にある今小路西遺跡(現 御成小学校)では、大がかりな柱穴群が発掘され、天平時代の付札木簡も出土していて、ここに郡衛がおかれていたといわれています。
古代より、鎌倉は相模国でも開かれた場所であったといえます。

康平五年(1062)に終結した前九年の役の戦勝を記念して、源頼義が、京都の岩清水八幡宮を勧請して滑川のほとりの元八幡に鶴岡八幡宮を造営します。

前九年、後三年とつづく東北における頼義・義家父子の戦勝は、河内源氏が武門の棟梁となる出発点になった戦役であり、この家系からは、後に征夷大将軍となる源頼朝や足利尊氏だけでなく、新田義貞や山名宗全、室町幕府における細川、斯波、畠山の管領家、吉良氏、今川氏など名門の武家を輩出しています。

以後、数百年続く武家の棟梁源氏の礎を築いた地が鎌倉でした。

源頼朝が、古来からの政治の中心地だった京から遠く離れ、交通も不便な狭小の地に幕府を開いたのは、このように、鎌倉が過去からの源氏縁の地だったことが理由の一つでした。
これに加えて、平氏の凋落が京の貴族文化に染まったことに一因があったこと、源氏の力の源泉である東国武人たちの統率するために京は遠かったこと、そして、決して磐石ではなかった源氏政権にとって第一級の要塞都市である鎌倉は、自らの居城とするに相応しい場所だったのです。
鎌倉は、中世の「城塞都市」であり、日本初の「惣構の城下町」だったといえるかも知れません。


頼朝の鎌倉入部

治承四年(1180)、鎌倉に入部した頼朝は、元八幡の地にあった八幡宮を現在の場所に遷座させて、そこから海岸まで一直線に延びる若宮大路を造り、その東隣の大倉に居館と政所をおきます。
これが鎌倉初期の幕府の場所で、源氏三代と尼将軍政子はここで政事を行いました。

この配置は、大極殿と朱雀大路を中心軸として左右対象に展開する、京の都市計画そのものだとの指摘もあります。

配下の東国武人達とは違い、頼朝は少年期を京で過したため、平治の乱に敗れて京を追われて以来、頼朝は京に憧れ続けたのではないかと思います。
それを懸念した北条氏などの側近が、源氏由来の地である鎌倉に頼朝を押し込めたために、そのことが、京の貴族たちから英雄視された弟義経への嫉妬につながり、東国の鎌倉の地に京の都市計画を出現させた理由だといわれています。

開幕後わずか7年で頼朝が亡くなると、幕府内は北条氏による権力掌握の闘争期に入ります。
梶原景時、比企能員、和田義盛などを滅ぼして有力御家人達を抑え、幕府内の権力掌握に成功した北条氏は、新たな仏教・禅宗を積極的に取り入れ、鎌倉五山に代表される建長寺、円覚寺などの大伽藍を北鎌倉を中心に建設します。
これは武家社会という新たな政治勢力の確立と京を中心とする古代仏教との決別を意味し、また、これらの新興寺院が北鎌倉の地におかれたことは、狭小な鎌倉平野に収まらず、膨張を続ける中世都市鎌倉の象徴でもありました。

元弘3年(1333)、かねてから幕府に不満を持っていた上野国新田荘(群馬県太田市)の有力御家人 新田義貞は、後醍醐天皇の幕府追討の令旨をもって、越後の新田一族や甲斐源氏を率いて、鎌倉目指して関東平野を南下します。
鎌倉は火の海となり、時の執権・北条高時を始め北条一族は東勝寺で自害して果て、150年続いた鎌倉幕府は滅亡します。

周囲を丘陵と海に囲まれた要害の地・鎌倉への侵攻は、七里ヶ浜と由比ヶ浜を隔てる断崖の稲村ヶ崎から行われたといいます。
現在では湘南道路(国道134号線)が通っていますが、いまでも由比ヶ浜からみる稲村ヶ崎は断崖の岬で、大軍が通るには相当の困難が予想される場所です。

新田義貞はこの地形を逆に利用したといわれます。

鎌倉在住の長かった義貞は、干潮時には遠浅になる由比ヶ浜の地形的特性を熟知していて、干潮前に後醍醐天皇から下賜された黄金の太刀を海中に投じて祈り、引き潮に乗じて鎌倉に攻め入ったといいます。
山国育ちの配下の武士達は、潮の干満の知識がなかったのでこの不思議に驚き、戦意を鼓舞されて怒涛のごとく鎌倉に攻め入ったのでした。


幕府滅亡以降の鎌倉

鎌倉幕府滅亡後も鎌倉の地には鎌倉府が置かれます。

建武の新政の一環として、関東統治を目的に成良親王が鎌倉に将軍府を開いたことに始まり、やがて室町幕府の出先政庁として関東十州(関八州と伊豆・甲斐)を配下におきます。
鎌倉府の長官は「鎌倉公方」とよばれ、足利尊氏の三男基氏から始まり、これの補佐役として関東管領がおかれ、上杉氏が代々世襲します。
やがて、両者は敵対関係になるばかりか室町幕府とも対立するようになり、康正元年(1455)に第五代鎌倉公方の足利成氏が下総国古河に移ったことで、鎌倉府は事実上消滅してしまいます。

これにより、鎌倉幕府滅亡後も120年にわたり一定の賑わいを見せてきた鎌倉は急速に活気を失い、やがて農山漁業の村に帰っていったといいます。

しかし、江戸時代に入ると、鎌倉は徐々に賑わいを取り戻していったようです。
太平の世は、江の島などへの景勝地見物を盛んにし、水戸光圀の命により編纂された鎌倉の地誌「新編鎌倉志」の影響もあって、鎌倉の史跡めぐりを楽しむ江戸の商人達が増え、鎌倉の寺社は活気を取り戻していきました。

江戸後期から、鎌倉の観光地化はすでに始まっていたともいえます。


明治以降の鎌倉

鎌倉府の滅亡とともに地方の一寒村に戻った鎌倉は、江戸期には徐々に賑わいを取り戻し、明治期には、鶴岡八幡宮、長谷寺などに幾つかの門前町が形成されていたことが当時の地形図で確認できます。
しかし、それぞれの門前町は独立して点在しており、その規模も小さなものでした。

その鎌倉が、現在のように保養観光都市に変貌を遂げるきっかけとなったのが、明治21年の横須賀線開通でした。

横須賀線は、元々、東京と海軍鎮守府の置かれた横須賀とを結ぶ軍用路線でしたが、この線路は軍人や軍事物資を載せるだけでなく、鎌倉に文化を運んできました。

明治13年、お雇い外国人ベルツは、鎌倉を最適な保養地と評価し、長与専斎が由比ヶ浜に別荘を建て海水浴場として紹介したことなどが引き金となり、華族や政府高官、豪商、高級軍人などが次々と別荘を建て始め、鎌倉は東京在住の富裕層の保養地・観光地として注目を浴びていきます。

明治43年には、藤沢と鎌倉とを結ぶ江ノ島電鉄が全面開通し、茅ヶ崎、江ノ島から厨子海岸までのいわゆる湘南海岸一帯が鉄道で結ばれます。

明治中期、泉鏡花が材木座に居を構え、夏目漱石や島崎藤村が禅に救いを求めて円覚寺の門を叩きます。
大正期には、「鼻」の発表で文壇デビューを果たしたばかりの芥川龍之介が材木座で新婚生活を始め、鎌倉女学園で教鞭をとっていた大佛次郎は、長谷大仏の裏手に住み込み文壇に踊り出ます。
このほか、志賀直哉、有島武雄、川端康成などの多くの文人が鎌倉に滞在して、鎌倉の風土や人間関係を題材にした数多くの作品を発表しました。

鎌倉に在住した文人達は総称して「鎌倉文士」とよばれ、彼らの存在が、文化都市としての鎌倉の名を高め、その後の高級住宅地「鎌倉」のイメージをつくりあげていったのです。

現在の鎌倉市は、人口16万人の地方中核都市ですが、観光客は年間2000万人にも上るといわれ、京都に次ぐ日本有数の観光都市になっています。
しかし、伊豆箱根や軽井沢などとは違い、東京から近距離にあるために日帰り客が多く、観光客数に比べて宿泊施設は少なく、観光依存型の都市ではありません。

古都の観光都市、東京近郊の保養地、高級住宅地といった、様々な顔をもつのが現在の鎌倉だといえます。

 


 

地図で見る 100年前の鎌倉


現在の地形図と約100年前(明治36年)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図は、横須賀線が開通して15年ほど経った鎌倉の様子を表しています。

横須賀線は、鎌倉の平野部を斜めに横断して、僅かにみられる人家を避けるように大きく弧を描いて敷設され、鎌倉駅がその中心部に配置されたことがわかります。北鎌倉駅はまだなく、現在の観光の中心である小町通りもまだ見られません。
駅の東には小さな集落がみられますが、これは妙本寺や本覚寺の門前町かも知れません。

これ以外にも、鎌倉にはいくつかの小さな集落があったことが地形図で確認できます。

長谷、坂ノ下は、明らかに長谷寺、極楽寺及び鎌倉大仏の門前町で、鎌倉では最も大きな集落を形成していました。
乳橋材木座付近は光明寺の門前町のようにみえますが、和賀江港が江戸期まで利用されていたというので、ここに小さな港町が残っていたのかもしれません。

最も分かりやすいのが鶴岡八幡宮の門前町です。
八幡宮本宮に加えて源氏池と平家池が描かれており、若宮大路沿いには家屋が建ち並んでいます。

山之内(現 北鎌倉駅付近)の鎌倉街道沿いには宿場町が形成されていたことが見てとれますが、建長寺や円覚寺の門前町といえるかも知れません。

寺社以外には、八幡宮の東に神奈川県師範学校(現 横浜国大付属鎌倉小中学校)と鎌倉御用邸(現 鎌倉市役所、御成小学校)などがみえるのみで、この頃の鎌倉は、まだ都市とはいえないようです。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

鎌倉の立地条件と町の構造



横浜から、JR根岸線に揺られ、大船駅で横須賀線に乗り換えて、電車は鎌倉駅に到着します。
休日ともなると、多くの観光客が古都鎌倉を訪れ、数百年の歴史を誇る北鎌倉の禅宗寺院や鶴岡八幡宮、鎌倉大仏などの古刹を巡り歩きます。

鎌倉の町は、東西北の三方を標高100〜150m程の丘陵にで囲まれ、南側だけを相模湾に大きく開いた、とても狭小で閉鎖的な沖積平野に市街地を広げています。

首都圏の一翼を担うだけあって、周辺地域は市街化が進み、特に、横浜に直結するJR根岸線や京急本線の沿線には、丘陵地を切り開いた郊外型の大規模住宅地が密集しています。

そんな中にあって、鎌倉は、いまだに周囲を丘陵で区分された「穴倉」的な立地環境を保っていのが特徴的です。




滑川の沖積作用が造りだした狭小な鎌倉平野には、周囲の丘陵から内部に向かっていくつもの小さな尾根が襞のように突き出ていて、小さな谷筋が入り組む複雑な地形をしています。
このような谷筋を「谷戸(やつ)」といいます。

平野の少ない鎌倉では、谷戸の奥深くまで人家が建ち並び、その奥には、寺社が配されているか、切通しのような山道が続いています。
この谷戸の多さが、鎌倉の地形的な特徴の一つです。




鎌倉には、市街地を南北に貫く3本の大路があります。
若宮大路、今大路、小町大路の3つの幹線道路は、約800年前の開幕当初からあった道だといわれ、特に、鶴岡八幡宮から相模湾に向かって一直線に延びる若宮大路は、京の朱雀大路を模したものであることは既に述べたとおりです。
戦災に遇うことがなく、道路網が狭隘なままの鎌倉にあって、この3本の大路は現在でも南北方向の幹線道路であり、交通量のとても多い道路となっています。


左:今大路 六地蔵交差点  中:若宮大路 二の鳥居付近  右:小町大路


左:若宮大路の一の鳥居前  右:今大路にある御成小学校  かつての鎌倉御用邸(鎌倉郡衛跡)



明治期の地形図には市街化される前の鎌倉の地形が描かれています。
平野と山地形との境界部で線を引いて、現在の地形図に重ねてみたのが下図です。

鎌倉にある寺社の大部分はこの境界線上に立地しており、下図にプロットした代表的な寺社も例外ではありません。




開幕前からあった古刹


数多い寺社の中で、最も創建年代の古いのが、杉本寺と長谷寺だといわれています。

杉本寺は、永禄三年(1560)に書写された寺の縁起には、天平六年(734)に行基菩薩が自ら刻した十一面観音を安置して開創したとあるそうです。


左:杉本寺の参道  右:杉本寺付近の閑静な住宅地



一方の長谷寺は、藤原北家の始祖 藤原房前が天平八年に建立したと伝えられています。
御本尊は高さ9mの十一面観音で日本最大級の木製観音像です。
養老五年(721)、大和長谷寺の徳道上人が楠の巨木から観音像を二体彫り、一体を縁ある場所での衆生救済を願い海に流し、15年後に三浦海岸に漂着したものを鎌倉に移したと縁起は伝えています。

また、長谷寺近くの住宅地(長谷2丁目付近)には、とても閑静で広い宅地の邸宅街が広がっていて、小町大路沿道の住宅地と併せて、鎌倉を代表する住宅地を形成しています。


左:長谷寺  右:長谷寺参道


左:長谷寺付近の住宅地の町並み  落着いた趣が感じられます



もう一つ、頼朝の開幕以前からあったといわれる寺社で重要なものに荏柄天満宮があります。

太宰府天満宮、北野天満宮とともに、日本三大天神に数えられる古代からの社ですが、鎌倉の鬼門にあることから頼朝も手厚く保護したといいます。 創建は長治元年(1104)と伝えられ、この頃すでに天神信仰が関東にも及んでいたことを示しています。


左中:荏柄天満宮  右:参道沿いは住宅地になっている



歴史的・地理的な基点の八幡宮  鶴岡八幡と元八幡


鎌倉の中心、鶴岡八幡宮は、康平五年(1062)に源頼義が前九年の役に勝利して京の岩清水八幡宮を勧請したのが始まりで、頼朝が現在の地に遷移するまでは材木座1丁目の元八幡にあったといいます。

元八幡の地は、古来からの小町大路に近接していますが、標高にして4m程しかない低地で、勧請された平安時代において相模湾は現在より奥に入り込んでいたため、この地は滑川河口の海岸沿いに位置していたのではないかと思われます。
いまでも、住宅地の奥まった場所に、とても小さな社がひっそりと佇んでいるのを見ることができます。


左右:元八幡  お社は住宅地にひっそりとありました



元八幡に比して、鶴岡八幡宮は、頼朝以降の歴代の将軍家を始め名立たる武家の崇拝を受けてきただけあって、三角形をした鎌倉平野の頂上部に位置する伽藍は壮大で、本宮は町全体を睥睨する小高い場所にあります。

鎌倉幕府三代将軍 源実朝が公暁に襲われ落命したとされる本宮前の石段も、その時公暁が隠れていたという大銀杏も、鎌倉初期の激動の歴史を伝える舞台がいまでも残されています。


左:鶴岡八幡宮 三の鳥居  右:本宮前の石段と大銀杏(左手)



本殿から相模湾に向かい一直線に延びる若宮大路には3つの鳥居があります。
宮前の三の鳥居、鎌倉駅近くの二の鳥居、そして由比ヶ浜の近くに立つのが一の鳥居です。

二と三の鳥居は関東大震災後に再建されたコンクリート製ですが、一の鳥居は、寛文八年(1668)に建造の石造鳥居で、徳川二代将軍秀忠の夫人お江与の方が家光を出産するときに安産を祈願して建立したとされる国の重要文化財です。

この一の鳥居は、標高4m程の小高い砂丘の上に立っています。
若宮大路を下っていくと、鎌倉女学院の交差点の辺りから上り坂になり、一の鳥居を過ぎるとまた海方向に下り坂となります。
このため、高さ8.5mの巨大な石造建造物は砂丘の高さも加わって、遥か八幡宮からも望めることができます。地形図にて確認できるように、滑川が一の鳥居の近くで迂回して流れるのは、この砂丘地形のためです。


左:鎌倉女学院前からみた一の鳥居 上り坂になっている
右:江戸初期に建立された一の鳥居 江戸期の参道の道幅は この鳥居の幅だったのでしょう



八幡宮一の鳥居と元八幡が共に、海岸沿いで同じ標高にあるのは、単なる偶然ではないかも知れません。
中世においては、長者屋敷跡、和田塚跡から一の鳥居、元八幡を結ぶ線がほぼ海岸線だったといわれ、ここに鎌倉を東西に横断する通行路が通っていた可能性があります。
あるいは、中世において鎌倉の入口は相模湾であって、元八幡と一の鳥居は鎌倉の玄関口に位置していたのかもしれません。


鎌倉の海運拠点だった 材木座


中世の大都市 鎌倉は、とても狭小で閉鎖的な場所にありました。

そこに住む人達の衣食住が、狭い鎌倉平野の中で賄いきれていたとは思われず、当然、外部から供給されていたものと考えられます。
三方を囲む丘陵を越えての大量輸送は困難であり、相模湾の海運に負うところが大きかったと見られています。

そのため、遠浅の砂浜がつづく由比ヶ浜には、海運の湊が3ヶ所造られていました。
それが、滑川河口、稲瀬川河口、そして今に残る日本最古の築港である和賀江島の3つの湊でした。

和賀江島は、貞永元年(1232)、往阿弥陀仏という僧の勧請に北条泰時が協力して築かれたものとされ、海中に玉石が積まれて築かれた出島形式の船着場でした。
日本最古の築港の遺跡で、その後、何度も改築されて江戸時代まで利用されていたといわれ、現在でも、岸辺からは波に洗われる島影を見ることができます。




左:和賀江島跡   右:住吉神社の下で和賀江島を見下ろす場所にある石造の社
向う側にみえる白い建物は逗子マリーナ



前述の3つの湊には、それぞれ航海の安全を祈願する神社があります。
それが現在の、和賀江島の住吉神社、滑川の三島神社(現 五所神社・材木座二丁目)、稲瀬川の御霊神社です。

住吉神社は和賀江島を見下ろす小山の中腹にあり、ともて小さな社が相模湾を見下ろしていますが、綺麗に管理されていたのが印象的でした。社の横には大きな洞窟があり、付近の住人が日常的に利用しているようにみえました。


左:和賀江島を見下ろす場所にある住吉神社  右:住吉神社からみる相模湾


左:住吉神社と横の洞窟



御霊神社は由比ヶ浜海岸の西端の小山の中腹にあり、極楽寺切通しの手前を右折した住宅地の奥にひっそりとあります。
参道を江ノ島電鉄が分断しており、神社横には国木田独歩の居宅跡があります。


御霊神社と参道を横切る江ノ島電鉄




相模湾に近い滑川左岸一帯の町名は材木座といいます。

「座」とは、中世に幕府や朝廷、寺社の保護を受けた商工業者の同業組合のことですが、この地名は、かつて、ここに材木商の組合があったことを語ってくれます。
鎌倉初期、建築ラッシュに沸く鎌倉の湊には、材木などの大量の建築資材が陸揚げされたに違いなく、それらの資材は、材木座から小町大路を通り運ばれたに違いありません。

材木座一帯は、800年前に開かれた港湾流通拠点であり、その名残が、和賀江島、住吉神社、小町大路、そして材木座の地名なのです。

一般的に、港湾流通都市には、荷役に従事する労働者や船乗り達が数多く集まり、彼らを対象とした繁華街が成立します。やがて、貧民窟と売春宿、集団墓地などが自然発生して、飢えと疫病が蔓延するスラム街となることが多く、鎌倉の海岸地域も例外ではなかったと思われます。
そして、鎌倉時代に材木座や由比ヶ浜に多数いたであろう、貧しく飢えや病に苦しむ貧困層の救済に当たったのが極楽寺でした。

鎌倉南西部に位置する極楽寺は、忍性が正元元年(1259)に建立した律宗寺院で、寺内には諸療養施設が建ち並んでいたといい 和賀江港の管理を任されるとともに、この地に住む貧困層の救済にあたったことで有名です。


極楽寺  山門と境内



忍性だけでなく、鎌倉時代に活躍した日蓮(日蓮宗開祖)や一遍(時宗開祖)らの活動の舞台は海岸部にあったといわれ、五山に代表される執権政治と直結した禅宗寺院が、鎌倉北部に立地したのと対照的な位置関係にあります。

材木座にある光明時は、浄土宗の大本山で、仁治元年(1240)に佐助ヶ谷に建立されたものが、後に現在の地に移されたといわれ、江戸期には、江戸増上寺に次いで、浄土宗学問所の第二位に位置付けられ、多くの学僧を集めて栄えていました。
今にみられる広い境内はかつての隆盛を物語るもので、明治期の地形図にみられる材木座の集落は光明寺の門前町ともいえます。


光明寺  中:山門  右:本堂



鎌倉期から江戸期において、材木座海岸と由比ヶ浜海岸は前述した様相を呈していたようですが、現在ではそのような雰囲気は微塵も感じられません。
昭和30年頃に日本道路公団の有料道路として開通した通称「湘南道路」(現 国道134号線)は、大磯、茅ヶ崎から江ノ島、鎌倉を通り逗子までの海岸線一帯を、日本一のビーチリゾートに変貌させました。


材木座海岸を横断する湘南道路


材木座海岸沿いには、下目板張り外壁をライトカラーにペイントしたカリフォルニアテイストのサーフショップが目に付きます。
町歩きをしたのが3月末だったのですが、材木座海岸と由比ヶ浜海岸の沖合いには、いくつかウィンドサーフィンがみられただけで、鎌倉の海岸は、本格的なマリンシーズンを前にしてアイドリングを始めているかのようでした。


材木座の町並み  右:石張りの蔵の横にはサーフショップがあり、その横の路地は相模湾に通じる




鎌倉の都市境界 鎌倉七口


三方を丘陵に囲まれた鎌倉において、陸路を伝う外部との通行には「切通し」を通る必要がありました。

「切通し」とは、斜面や崖地を切り開いて通した道のことで、鎌倉の切通しには、人ひとりがようやく通れる幅しかないものや、急傾斜のつづれ折りの山道などがあり、鎌倉防衛の要所でもありました。

特に、亀ケ谷坂、化粧坂、巨福呂坂、大仏坂、極楽寺坂、朝比奈、名越、の7つの切通しは鎌倉の切通しのなかで最も重要なものとして、後世には「七切通し」や「七口」と呼ばれるようになりました。
鎌倉時代、7つしか切通しがなかったという訳ではなく、江戸初期における「新編鎌倉志」などの鎌倉地誌において「鎌倉七口」と称されたもので、京都の「七口」をもじったいわゆる名数でした。


左中:朝比奈切通し  右:大仏切通し



都市の内と外の境界部に発生する共通の属性として、防衛要所、交易市場、遊女場などとともに、刑場や葬送の地という複雑な性格がまつわりつきます。
鎌倉への主要な出入口だった切通しにも、都市境界部の特性が備わっていても不思議ではありません。

七口切通しのひとつ「化粧坂」(けわいざか)は、今もくの字に屈曲しつつ上る急坂が、堅固な防衛要所だったことを忍ばせますが、鎌倉中期、幕府が指定した商業地のひとつが化粧坂の上だったともいわれ、ここには市場が立ち、人々の集う繁華な場所となり、遊女もたむろしたのかも知れません。

「化粧坂」という一風変った名前は、頼朝の検分を受ける平家の公達の首に化粧した場所だったために名付けられたといわれますが、一説には、多くの遊女が化粧に勤めていたのが起源ともいわれています。


化粧坂の切通し  くの字に屈曲しつつ急坂を上る



化粧坂近くには「やぐら」の遺跡群があります。

「やぐら」は「矢倉」とも書き、崖地の横穴に設けられた武士や僧などの墓所のことで、死者を供養する仏殿と遺骨を埋葬する墳墓窟の役割を担っています。
化粧坂に限らず、鎌倉七口を中心として周囲の丘陵崖地にが数多くの「やぐら」があるようです。

中世鎌倉は、幾たびもの兵火に焼かれてきました。

鎌倉初期には、梶原氏、比企氏、和田氏など有力御家人らの騒乱が相次ぎ、末期には新田義貞により町は灰燼に帰しています。
狭小で人口過密な鎌倉には、これら戦乱の犠牲者たちの墓地を設ける余裕はなく、周囲の崖地におびただしい数の墓所が掘られたのでした。

その数は1,000とも2,000もいわれ、中には、岩盤を長方形にくり貫き、内部には漆喰やベンガラで彩られた大層立派な造りのものもあるようです。


左中:大仏切り通し付近の矢倉  右:化粧坂の途中にある洞窟  矢倉の名残かもしれない




鎌倉の都市膨張の象徴 鎌倉五山


中世の要塞都市鎌倉には、切通しと海岸線という明確な都市境界線があったがために、そこに生じた境界ならではの特性が、地形や地名にその名残をみせていますが、鎌倉五山に代表される禅宗寺院は、その境界を越えて北鎌倉の地に大伽藍を広げています。

鎌倉五山とは、鎌倉時代に南宋の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のことで、室町初期に、鎌倉と京都それぞれに五山が定められて制度が定着したといわれています。

当時新興宗派であった禅宗を盛り立てることで京の旧勢力に対抗し、新たな武家社会にふさわしい新たな文化を築き上げるために、質実剛健の禅宗は武家政権にとてもマッチしていたのです。
また、禅宗を通じて宋との貿易に力を注ぎ、鎌倉幕府の財政基盤を強化する目的もありました。

5つの禅寺には順位がつけられていて、順に、五代執権北条時頼が建立した建長寺、八代執権北条時宗の円覚寺、北条政子の寿福寺、十代執権北条師時の浄智寺、そして足利貞氏(尊氏の父)を中興開基とする浄妙寺があり、この内、建長寺、円覚寺、浄智寺が北鎌倉の地にあります。

北鎌倉はかつて山之内とよばれ、和田氏の乱に組した土肥一族の領地を北条氏が没収して私領にしたのを、五代執権北条時頼の頃からここに屋敷を構えたのが始まりといわれます。

開幕以降、急速に拡大する鎌倉において、後発の禅宗寺院が北鎌倉一帯に建立されたのも、鎌倉の狭さゆえだったのでした。


左:北鎌倉 街道沿いの建長寺  右:建長寺三門


左:総門、三門、仏殿と一直線に並ぶ壮大な伽藍




左:北鎌倉駅  中右:周囲は落着いた高級住宅地となっている


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008.3


参考資料

@「別冊歴史読本 源氏対平氏」

使用地図
@1/25,000地形図「鎌倉」平成10年修正
A1/20,000地形図「鎌倉」明治36年修測
B国土地理院 地図閲覧サービス「鎌倉」

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