鎌 倉
京都、奈良とならぶ日本三大古都のひとつ
中世城塞都市の残照に中にある保養観光都市
鎌倉のまちあるき
建久三年(1192)、源頼朝は鎌倉の地に史上初めての武家政権を樹立しました。
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鎌倉の歴史
開幕以前の鎌倉
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地図で見る 100年前の鎌倉 現在の地形図と約100年前(明治36年)の地形図を見比べてみます。 明治期の地形図は、横須賀線が開通して15年ほど経った鎌倉の様子を表しています。 横須賀線は、鎌倉の平野部を斜めに横断して、僅かにみられる人家を避けるように大きく弧を描いて敷設され、鎌倉駅がその中心部に配置されたことがわかります。北鎌倉駅はまだなく、現在の観光の中心である小町通りもまだ見られません。 駅の東には小さな集落がみられますが、これは妙本寺や本覚寺の門前町かも知れません。 これ以外にも、鎌倉にはいくつかの小さな集落があったことが地形図で確認できます。 長谷、坂ノ下は、明らかに長谷寺、極楽寺及び鎌倉大仏の門前町で、鎌倉では最も大きな集落を形成していました。 乳橋材木座付近は光明寺の門前町のようにみえますが、和賀江港が江戸期まで利用されていたというので、ここに小さな港町が残っていたのかもしれません。 最も分かりやすいのが鶴岡八幡宮の門前町です。 八幡宮本宮に加えて源氏池と平家池が描かれており、若宮大路沿いには家屋が建ち並んでいます。 山之内(現 北鎌倉駅付近)の鎌倉街道沿いには宿場町が形成されていたことが見てとれますが、建長寺や円覚寺の門前町といえるかも知れません。 寺社以外には、八幡宮の東に神奈川県師範学校(現 横浜国大付属鎌倉小中学校)と鎌倉御用邸(現 鎌倉市役所、御成小学校)などがみえるのみで、この頃の鎌倉は、まだ都市とはいえないようです。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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鎌倉の立地条件と町の構造 横浜から、JR根岸線に揺られ、大船駅で横須賀線に乗り換えて、電車は鎌倉駅に到着します。 休日ともなると、多くの観光客が古都鎌倉を訪れ、数百年の歴史を誇る北鎌倉の禅宗寺院や鶴岡八幡宮、鎌倉大仏などの古刹を巡り歩きます。 鎌倉の町は、東西北の三方を標高100〜150m程の丘陵にで囲まれ、南側だけを相模湾に大きく開いた、とても狭小で閉鎖的な沖積平野に市街地を広げています。 首都圏の一翼を担うだけあって、周辺地域は市街化が進み、特に、横浜に直結するJR根岸線や京急本線の沿線には、丘陵地を切り開いた郊外型の大規模住宅地が密集しています。 そんな中にあって、鎌倉は、いまだに周囲を丘陵で区分された「穴倉」的な立地環境を保っていのが特徴的です。 滑川の沖積作用が造りだした狭小な鎌倉平野には、周囲の丘陵から内部に向かっていくつもの小さな尾根が襞のように突き出ていて、小さな谷筋が入り組む複雑な地形をしています。 このような谷筋を「谷戸(やつ)」といいます。 平野の少ない鎌倉では、谷戸の奥深くまで人家が建ち並び、その奥には、寺社が配されているか、切通しのような山道が続いています。 この谷戸の多さが、鎌倉の地形的な特徴の一つです。 鎌倉には、市街地を南北に貫く3本の大路があります。 若宮大路、今大路、小町大路の3つの幹線道路は、約800年前の開幕当初からあった道だといわれ、特に、鶴岡八幡宮から相模湾に向かって一直線に延びる若宮大路は、京の朱雀大路を模したものであることは既に述べたとおりです。 戦災に遇うことがなく、道路網が狭隘なままの鎌倉にあって、この3本の大路は現在でも南北方向の幹線道路であり、交通量のとても多い道路となっています。
明治期の地形図には市街化される前の鎌倉の地形が描かれています。 平野と山地形との境界部で線を引いて、現在の地形図に重ねてみたのが下図です。 鎌倉にある寺社の大部分はこの境界線上に立地しており、下図にプロットした代表的な寺社も例外ではありません。 開幕前からあった古刹 数多い寺社の中で、最も創建年代の古いのが、杉本寺と長谷寺だといわれています。 杉本寺は、永禄三年(1560)に書写された寺の縁起には、天平六年(734)に行基菩薩が自ら刻した十一面観音を安置して開創したとあるそうです。
一方の長谷寺は、藤原北家の始祖 藤原房前が天平八年に建立したと伝えられています。 御本尊は高さ9mの十一面観音で日本最大級の木製観音像です。 養老五年(721)、大和長谷寺の徳道上人が楠の巨木から観音像を二体彫り、一体を縁ある場所での衆生救済を願い海に流し、15年後に三浦海岸に漂着したものを鎌倉に移したと縁起は伝えています。 また、長谷寺近くの住宅地(長谷2丁目付近)には、とても閑静で広い宅地の邸宅街が広がっていて、小町大路沿道の住宅地と併せて、鎌倉を代表する住宅地を形成しています。
もう一つ、頼朝の開幕以前からあったといわれる寺社で重要なものに荏柄天満宮があります。 太宰府天満宮、北野天満宮とともに、日本三大天神に数えられる古代からの社ですが、鎌倉の鬼門にあることから頼朝も手厚く保護したといいます。 創建は長治元年(1104)と伝えられ、この頃すでに天神信仰が関東にも及んでいたことを示しています。
歴史的・地理的な基点の八幡宮 鶴岡八幡と元八幡 鎌倉の中心、鶴岡八幡宮は、康平五年(1062)に源頼義が前九年の役に勝利して京の岩清水八幡宮を勧請したのが始まりで、頼朝が現在の地に遷移するまでは材木座1丁目の元八幡にあったといいます。 元八幡の地は、古来からの小町大路に近接していますが、標高にして4m程しかない低地で、勧請された平安時代において相模湾は現在より奥に入り込んでいたため、この地は滑川河口の海岸沿いに位置していたのではないかと思われます。 いまでも、住宅地の奥まった場所に、とても小さな社がひっそりと佇んでいるのを見ることができます。
元八幡に比して、鶴岡八幡宮は、頼朝以降の歴代の将軍家を始め名立たる武家の崇拝を受けてきただけあって、三角形をした鎌倉平野の頂上部に位置する伽藍は壮大で、本宮は町全体を睥睨する小高い場所にあります。 鎌倉幕府三代将軍 源実朝が公暁に襲われ落命したとされる本宮前の石段も、その時公暁が隠れていたという大銀杏も、鎌倉初期の激動の歴史を伝える舞台がいまでも残されています。
本殿から相模湾に向かい一直線に延びる若宮大路には3つの鳥居があります。 宮前の三の鳥居、鎌倉駅近くの二の鳥居、そして由比ヶ浜の近くに立つのが一の鳥居です。 二と三の鳥居は関東大震災後に再建されたコンクリート製ですが、一の鳥居は、寛文八年(1668)に建造の石造鳥居で、徳川二代将軍秀忠の夫人お江与の方が家光を出産するときに安産を祈願して建立したとされる国の重要文化財です。 この一の鳥居は、標高4m程の小高い砂丘の上に立っています。 若宮大路を下っていくと、鎌倉女学院の交差点の辺りから上り坂になり、一の鳥居を過ぎるとまた海方向に下り坂となります。 このため、高さ8.5mの巨大な石造建造物は砂丘の高さも加わって、遥か八幡宮からも望めることができます。地形図にて確認できるように、滑川が一の鳥居の近くで迂回して流れるのは、この砂丘地形のためです。
八幡宮一の鳥居と元八幡が共に、海岸沿いで同じ標高にあるのは、単なる偶然ではないかも知れません。 中世においては、長者屋敷跡、和田塚跡から一の鳥居、元八幡を結ぶ線がほぼ海岸線だったといわれ、ここに鎌倉を東西に横断する通行路が通っていた可能性があります。 あるいは、中世において鎌倉の入口は相模湾であって、元八幡と一の鳥居は鎌倉の玄関口に位置していたのかもしれません。 鎌倉の海運拠点だった 材木座 中世の大都市 鎌倉は、とても狭小で閉鎖的な場所にありました。 そこに住む人達の衣食住が、狭い鎌倉平野の中で賄いきれていたとは思われず、当然、外部から供給されていたものと考えられます。 三方を囲む丘陵を越えての大量輸送は困難であり、相模湾の海運に負うところが大きかったと見られています。 そのため、遠浅の砂浜がつづく由比ヶ浜には、海運の湊が3ヶ所造られていました。 それが、滑川河口、稲瀬川河口、そして今に残る日本最古の築港である和賀江島の3つの湊でした。 和賀江島は、貞永元年(1232)、往阿弥陀仏という僧の勧請に北条泰時が協力して築かれたものとされ、海中に玉石が積まれて築かれた出島形式の船着場でした。 日本最古の築港の遺跡で、その後、何度も改築されて江戸時代まで利用されていたといわれ、現在でも、岸辺からは波に洗われる島影を見ることができます。
前述の3つの湊には、それぞれ航海の安全を祈願する神社があります。 それが現在の、和賀江島の住吉神社、滑川の三島神社(現 五所神社・材木座二丁目)、稲瀬川の御霊神社です。 住吉神社は和賀江島を見下ろす小山の中腹にあり、ともて小さな社が相模湾を見下ろしていますが、綺麗に管理されていたのが印象的でした。社の横には大きな洞窟があり、付近の住人が日常的に利用しているようにみえました。
御霊神社は由比ヶ浜海岸の西端の小山の中腹にあり、極楽寺切通しの手前を右折した住宅地の奥にひっそりとあります。 参道を江ノ島電鉄が分断しており、神社横には国木田独歩の居宅跡があります。
相模湾に近い滑川左岸一帯の町名は材木座といいます。 「座」とは、中世に幕府や朝廷、寺社の保護を受けた商工業者の同業組合のことですが、この地名は、かつて、ここに材木商の組合があったことを語ってくれます。 鎌倉初期、建築ラッシュに沸く鎌倉の湊には、材木などの大量の建築資材が陸揚げされたに違いなく、それらの資材は、材木座から小町大路を通り運ばれたに違いありません。 材木座一帯は、800年前に開かれた港湾流通拠点であり、その名残が、和賀江島、住吉神社、小町大路、そして材木座の地名なのです。 一般的に、港湾流通都市には、荷役に従事する労働者や船乗り達が数多く集まり、彼らを対象とした繁華街が成立します。やがて、貧民窟と売春宿、集団墓地などが自然発生して、飢えと疫病が蔓延するスラム街となることが多く、鎌倉の海岸地域も例外ではなかったと思われます。 そして、鎌倉時代に材木座や由比ヶ浜に多数いたであろう、貧しく飢えや病に苦しむ貧困層の救済に当たったのが極楽寺でした。 鎌倉南西部に位置する極楽寺は、忍性が正元元年(1259)に建立した律宗寺院で、寺内には諸療養施設が建ち並んでいたといい 和賀江港の管理を任されるとともに、この地に住む貧困層の救済にあたったことで有名です。
忍性だけでなく、鎌倉時代に活躍した日蓮(日蓮宗開祖)や一遍(時宗開祖)らの活動の舞台は海岸部にあったといわれ、五山に代表される執権政治と直結した禅宗寺院が、鎌倉北部に立地したのと対照的な位置関係にあります。 材木座にある光明時は、浄土宗の大本山で、仁治元年(1240)に佐助ヶ谷に建立されたものが、後に現在の地に移されたといわれ、江戸期には、江戸増上寺に次いで、浄土宗学問所の第二位に位置付けられ、多くの学僧を集めて栄えていました。 今にみられる広い境内はかつての隆盛を物語るもので、明治期の地形図にみられる材木座の集落は光明寺の門前町ともいえます。
鎌倉期から江戸期において、材木座海岸と由比ヶ浜海岸は前述した様相を呈していたようですが、現在ではそのような雰囲気は微塵も感じられません。 昭和30年頃に日本道路公団の有料道路として開通した通称「湘南道路」(現 国道134号線)は、大磯、茅ヶ崎から江ノ島、鎌倉を通り逗子までの海岸線一帯を、日本一のビーチリゾートに変貌させました。
材木座海岸沿いには、下目板張り外壁をライトカラーにペイントしたカリフォルニアテイストのサーフショップが目に付きます。 町歩きをしたのが3月末だったのですが、材木座海岸と由比ヶ浜海岸の沖合いには、いくつかウィンドサーフィンがみられただけで、鎌倉の海岸は、本格的なマリンシーズンを前にしてアイドリングを始めているかのようでした。
鎌倉の都市境界 鎌倉七口 三方を丘陵に囲まれた鎌倉において、陸路を伝う外部との通行には「切通し」を通る必要がありました。 「切通し」とは、斜面や崖地を切り開いて通した道のことで、鎌倉の切通しには、人ひとりがようやく通れる幅しかないものや、急傾斜のつづれ折りの山道などがあり、鎌倉防衛の要所でもありました。 特に、亀ケ谷坂、化粧坂、巨福呂坂、大仏坂、極楽寺坂、朝比奈、名越、の7つの切通しは鎌倉の切通しのなかで最も重要なものとして、後世には「七切通し」や「七口」と呼ばれるようになりました。 鎌倉時代、7つしか切通しがなかったという訳ではなく、江戸初期における「新編鎌倉志」などの鎌倉地誌において「鎌倉七口」と称されたもので、京都の「七口」をもじったいわゆる名数でした。
都市の内と外の境界部に発生する共通の属性として、防衛要所、交易市場、遊女場などとともに、刑場や葬送の地という複雑な性格がまつわりつきます。 鎌倉への主要な出入口だった切通しにも、都市境界部の特性が備わっていても不思議ではありません。 七口切通しのひとつ「化粧坂」(けわいざか)は、今もくの字に屈曲しつつ上る急坂が、堅固な防衛要所だったことを忍ばせますが、鎌倉中期、幕府が指定した商業地のひとつが化粧坂の上だったともいわれ、ここには市場が立ち、人々の集う繁華な場所となり、遊女もたむろしたのかも知れません。 「化粧坂」という一風変った名前は、頼朝の検分を受ける平家の公達の首に化粧した場所だったために名付けられたといわれますが、一説には、多くの遊女が化粧に勤めていたのが起源ともいわれています。
化粧坂近くには「やぐら」の遺跡群があります。 「やぐら」は「矢倉」とも書き、崖地の横穴に設けられた武士や僧などの墓所のことで、死者を供養する仏殿と遺骨を埋葬する墳墓窟の役割を担っています。 化粧坂に限らず、鎌倉七口を中心として周囲の丘陵崖地にが数多くの「やぐら」があるようです。 中世鎌倉は、幾たびもの兵火に焼かれてきました。 鎌倉初期には、梶原氏、比企氏、和田氏など有力御家人らの騒乱が相次ぎ、末期には新田義貞により町は灰燼に帰しています。 狭小で人口過密な鎌倉には、これら戦乱の犠牲者たちの墓地を設ける余裕はなく、周囲の崖地におびただしい数の墓所が掘られたのでした。 その数は1,000とも2,000もいわれ、中には、岩盤を長方形にくり貫き、内部には漆喰やベンガラで彩られた大層立派な造りのものもあるようです。
鎌倉の都市膨張の象徴 鎌倉五山 中世の要塞都市鎌倉には、切通しと海岸線という明確な都市境界線があったがために、そこに生じた境界ならではの特性が、地形や地名にその名残をみせていますが、鎌倉五山に代表される禅宗寺院は、その境界を越えて北鎌倉の地に大伽藍を広げています。 鎌倉五山とは、鎌倉時代に南宋の五山制度にならって鎌倉の禅寺に設けられた五大官寺のことで、室町初期に、鎌倉と京都それぞれに五山が定められて制度が定着したといわれています。 当時新興宗派であった禅宗を盛り立てることで京の旧勢力に対抗し、新たな武家社会にふさわしい新たな文化を築き上げるために、質実剛健の禅宗は武家政権にとてもマッチしていたのです。 また、禅宗を通じて宋との貿易に力を注ぎ、鎌倉幕府の財政基盤を強化する目的もありました。 5つの禅寺には順位がつけられていて、順に、五代執権北条時頼が建立した建長寺、八代執権北条時宗の円覚寺、北条政子の寿福寺、十代執権北条師時の浄智寺、そして足利貞氏(尊氏の父)を中興開基とする浄妙寺があり、この内、建長寺、円覚寺、浄智寺が北鎌倉の地にあります。 北鎌倉はかつて山之内とよばれ、和田氏の乱に組した土肥一族の領地を北条氏が没収して私領にしたのを、五代執権北条時頼の頃からここに屋敷を構えたのが始まりといわれます。 開幕以降、急速に拡大する鎌倉において、後発の禅宗寺院が北鎌倉一帯に建立されたのも、鎌倉の狭さゆえだったのでした。
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まちあるき データ
まちあるき日 2008.3 参考資料 @「別冊歴史読本 源氏対平氏」 使用地図 @1/25,000地形図「鎌倉」平成10年修正 A1/20,000地形図「鎌倉」明治36年修測 B国土地理院 地図閲覧サービス「鎌倉」
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