角 館   −深い木立と枝垂桜の城下町−

黒板塀の連なる武家屋敷に 樅や柏の巨木が深い木立をつくりだし
花の季節には 枝垂桜が天から舞い降りる
角館に 城下町時代の町並みが そのまま残されたのは
「みちのくの奇跡」 だといえる



 

 


 

町の特徴


 角館は、陸奥の山峡にあって、ほかの城下町にはない奥行きと立体感をもった町だといえます。
 およそ城下町らしくない道の広さと、樅と柏の巨木に枝垂れ桜の老木が、この武家屋敷町を、大きく、そして高く、見せています。

 角館は「みちのくの小京都」と呼ばれています。
 全国に「小京都」と呼ばれ江戸期の景観を残す町は数多ありますが、角館に関していえば、京都のみならず全国的にみても、これだけの町並み景観をもつ町は他にありません。

 黒縦板の木塀と天にまでとどくほどの木立は、息を呑むほどの美しさと独特の清浄感をたたえています。
 そして、花の季節には、枝垂桜が天から舞い降りて、この世の浄土と見間違うほどの光景を見せてくれるようです。昔の人たちはこんな美しい世界で生活していたのかと妬ましく思い、そして日本という国の素晴らしさを誇らしく思います。

 戦災や火災にほとんど合うこともなく、一方で、広い屋敷が細分化されたり他に転用されたりすることもなく、江戸期の姿がそのまま残されている稀有な町です。
 角館の町並みが今あるのは、ある意味で「奇跡」ともいえます。




 


 

100年前の角館


大正5年の地形図を見てみます。

 後述しますが、角館の城下町は古城山の南麓に南北に長く展開し、火除地(防火のための空地)をはさんで武家屋敷(内町)と町屋(外町)に分かれていました。
 現在、かつての火除地には、旧角館役場などの建物が建ち並んでいますが、大正期には火除地はまだ残されていたことが分かります。
 現在の角館駅は小高い山をはさんた水田だった場所にあり、桜並木で有名な桧木内川は蛇行して2本の河道があったことが記されています。

 


 

町の歴史


 角館城が、戸沢家盛により出羽仙北の地の東北端に築城されたのは、15世紀中頃といわれています。
 角館町の北端に位置し古城山と呼ばれる小高い山は、標高160mほどの台地ですが、山頂から南を望めば、奥羽の山裾に広がる仙北平野のはるかを見渡せ、北には天険とも呼べる山容が追っています。

 築城時、出羽北部(現、秋田県)には、北に秋田郡の安東氏、南に雄勝郡の小野寺氏が勢力を広げ、仙北郡の戸沢氏といわば三すくみの状態にありました。

 戦国期には、勇将として知られる十八代当主・戸沢盛安が、小野寺氏や安東氏を破って勢力を拡大し、秀吉の小田原征伐にも参陣して所領を安堵されています。
 戸沢盛安の子・政盛は、関ケ原の戦いと大坂の陣において徳川家康に与し、その戦功により大名として常陸に移封され、替わって角館の所領を継いだのは、かつて会津の大守として君臨した芦名氏でした。

 慶長八年(1603)、関ケ原の戦いに旗色鮮明を欠いたとして、戸沢氏と入れ替わりに佐竹氏が常陸から出羽秋田に移封されます。
 芦名氏の当主・義勝は佐竹義宣の弟で、15年前に会津を追われて以来その庇護のもとにありましたが、佐竹氏の出羽転封に同行することとなり、佐竹氏の城代として一万五千石で角館へ配されます。

 その後、奥州の名門芦名氏の城主復帰もかなわないまま、元和の一国一城令により角館城は破壊され、館は山の下に移されますが、一方で新しい城下町の建設が始まります。

 新たな町割は、古城山を背にして、南に向かって主要幹線を通し、古城山の裾から約700m地点には、幅25mの火除けとよばれる空地を配し、中央に高さ3mの土塁が築かれました。
 ここまでの北側を武家屋敷の「内町」、これより南側を町人町の「外町」とし、そのさらに南端に寺社を集めて南への備えとしました。
 現在の公民館、役場、図書館(移転済)の敷地が「火除け」のあった所にあたります。

 明暦二年(1656)、嗣子を失った芦名氏は断絶し、久保田(秋田)藩主佐竹氏 の分家である佐竹北家が角館に入り、所預として芦名氏の所領を引き継ぎ11代にわたり明治維新まで続きます。

 佐竹一族には本家の他に有力分家が四家ありました。
 常陸時代の拠点の位置から、東家(久保田城下常住)、西家(大館城主領)、南家(湯沢を所領)、北家(角館を所領)と称し、それぞれ家臣団を率いて居城(館)には小城下町を形成していたことから「所預(ところあずかり)」と呼ばれました。

 城下町が建設されて400年近く経た現在まで、武家屋敷の「内町」はほとんどそのままで残されていますが、今日、角館を有名にしている枝垂桜と樅や柏の巨木も江戸前期に植えられたようです。

 芦名氏断絶後、角館の所預りとなった佐竹北家は、高倉大納言の次男義隣を養子に迎え、その子義明の正室も公家の出身だったことから、京から様々な文物を持ち込み、その中に桜の苗木が含まれていたといわれています。

 慶応四年(1868)、戊辰戦争においては角館の岩瀬川原も戦場となり、維新政府側として明治維新を迎えます。
 明治22年、旧城下町は岩瀬村と合併して角館町になり、さらに昭和30年に周辺3村を合併して新しい角館町が発足、平成の大合併により田沢湖町、西木村と合併して仙北市となりました。

 


 

町の立地条件と構造


 角館は、大仏岳と田沢湖を源流として流れてくる桧木内川の左岸に位置し、南には玉川が流れ、北東方向には古城山、外の山、大威徳山など、比高100m程度の小高い山々に囲まれた場所にあります。
 桧木内川と玉川は、角館の南で合流して仙北盆地を南流して大曲で最上川に合流しています。



 秋田新幹線(田沢湖線)角館駅は、旧城下町の南東の外れにあります。

 桧木内川に沿って南北に長い角館城下町は、ほぼ真ん中で区切るように東西方向に火除地(空地)があり、北側を武家屋敷地として内町とよび、南側を町屋町として外町とよんだことは既に述べました。



 城下町の最北端には古城山がそびえ、そこから旧城下町が一望できます。
 山頂からみる角館の町は 山と川には挟まれたなんとも窮屈な場所にあることと、武家屋敷にみえる木立のボリューム感が目につくことが印象的です。


古城山からみる角館市街地  左の外の山と桧木内川の間の木立が武家屋敷


武家屋敷の北端からみる古城山


 町歩きしたのは枝垂桜の開花前でしたが、旧城下と桧木内川沿いと山腹との三段構えで植わっている桜たちは、満開の季節にはさぞ見事な景観を見せてくれるのだろうと思います。


桧木内川  右の山が古城山


 角館駅から歩き始めて外町を通り、かつての火除け地を抜けて内町に足を踏み入れ、目の前に武家屋敷が広がったときの素晴らしい光景は忘れられません。

 それぞれ高さ20〜30mはあるかも知れない樅や柏の巨木や赤松の老木の木立ちが、古城山や外ノ山などの周辺の山々と相まって、この武家屋敷群をとても立体感のあるものに印象つけています。
 屋敷の軒先に庭木が植わっているのではなく、木立の中に屋敷が点在している、と表現するほうが適切だと思えます。


左:火除地からみる武家や敷地の木立  中右:武家屋敷の町並み


 桜の季節前に訪れたため、名物の枝垂れ桜はまだ蕾のままでしたが、それが樅や柏の木立の大きさを一層際立たせていました。
 ある意味、高野山奥の院において、林立する杉の巨木の足元に苔むした無数の墓石がある光景が、一種独特の清浄感をたたえているのにも似ています。

 一直線に伸びる道は、明治期以降に拡幅されたのではなく城下町時代のままですが、その幅はゆうに10m以上あり、およそ城下町らしくありません。
 この道に広さと、木立の創りだす立体感が、この武家屋敷町を、大きく、そして高く、見せています。


 黒い杉の縦板塀の連なりと屋敷門は、立体感のある木立に水平方向の奥行きを創りだしています。
 ほとんどが近年に復元されたもののようですが、武家屋敷の母屋の中には、往時のまま残るものがあることに驚かされます。

 縦板の木塀と質素な屋敷門をくぐると、木立の中にはさらに質素な造りの屋敷があり、茅葺屋根の家屋や板葺き屋根のものもあります。
 武家屋敷の敷地は広いものの、建物はあくまで質素で、広い庭では、自ら畑を耕し、また武芸の鍛錬をしていたのであろう、武家の生活空間がそこにはあります。

 角館の町並みは数々の邦画の撮影場所となってきましたが、最近では「たそがれ清兵衛」や「隠し剣 鬼の爪」などの時代劇の舞台となりました。

 映画「たそがれ清兵衛」での清兵衛の自宅が岩橋家、清兵衛が生死をかけた死闘を演じた余吾邸の舞台となったのが松本家です。また、青柳家は、映画「隠し剣鬼の爪」の撮影場所となりました。


左:岩橋家  中:松本家  右:青柳家


 広い道、木立と枝垂れ桜、板塀と屋敷門、これらのほかに、角館の武家屋敷を強く印象づけているもうひとつの要素に、板塀の足元を流れる清流があげれられます。
 北側の山間から流れ出てくるのでしょうが、道の側溝としてはかなりの水量があり、水音には木立の清浄感をより引き立たせる効果があります。

 火除地には かつて約3m程の高さの土塁があり、内町と外町を遮断して木戸を設けて出入りを監視していたといいますが、いまでは土塁も木戸もありません。
 替わって、最近まで、役場(合併前の角館町役場)や図書館などが建っていましたが、いまでは図書館は移転し、周囲にあった飲食店なども立ち退いたようで、ほうぼうに空地が目立ちます。
 都市計画道路の整備に合わせて、かつての火除地を再生しようとしているのかもしれませんありません。


左:火除地 正面が旧角館役場  中:立ち退きの進む火除地  右:火除地は山の迫った場所にある


 立体感のある木立と木塀の武家屋敷群は、旧内町のほかに城下町南部の田町にもあります。ここは佐竹氏の直臣 今宮氏とその武士団が居住していたといいます。


田町の武家屋敷


 かつての外町、現在の岩瀬町や下新町辺りには煉瓦造りの蔵屋敷が散見されます。
 正確には煉瓦張り土蔵造りの商家ですが、明治15年の外町の大火の後に建築されたものが多く、安藤家のように全面が煉瓦張りのもの、基壇部が石張りで壁面が煉瓦張りのものなど、様々な外壁がみられます。
 日本古来からの土蔵建築と当時の擬似洋風建築が合体した例として面白いものがあります。


岩瀬町に残る煉瓦張り土蔵造りの商家


 


 

歴史コラム

 

角館の枝垂れ桜と染井吉野


 角館の佐竹北家初代の佐竹義隣は、明歴二年(1656)に「所預」として角館に入りました。
 義隣は本家佐竹義宣や芦名義勝の妹の於奈須と京都の公家高倉大納言永慶の二男として誕生し、佐竹北家継嗣となった人物です。また、二代目義明も京都の公卿三条実号の娘を室としたことから、角館には多くの京風文化が移入されました。
 その一つが武家屋敷の枝垂れ桜であり、一説には義明室の嫁入り道具に枝垂桜の苗木が入っていたとも伝えられています。

 江戸期を通して武家屋敷全域に植えられるようになったようですが、桧木内川沿いの染井吉野は昭和に入ってから植林されたものです。
 昭和初期は恐慌や水害冷害などで農村が疲弊していましたが、この救済のために昭和8年桧木内川の護岸補強と堤防工事が実施され、翌年に苗木600本が植林されました。
 堤防全長2kmに二間間隔の千鳥状に植えられた桜は、現在、見事な花のトンネルを作っています。

 昭和49年、枝垂れ桜153本が国の天然記念物指定を受け、翌年には桧木内川堤の桜が国名勝指定を受けました。現在も様々な保存事業が実施され、その景観維持に努めています。


左:満開の枝垂れ桜(仙北市HPより) 右:桧木内川沿い染井吉野(仙北市観光協会HPより)

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.3


使用地図
@1/50,000地形図「角館」平成元年修正
A1/50,000地形図「角館」大正5年測図


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