犬 山


木曽川に映える 国宝天守を擁する城下町




 

 


 

犬山のまちあるき


木曽川から仰ぎみる そそり立つ崖上の天守

日本に4つしかない国宝天守のひとつ 犬山城が最も美しくみえる風景がこれです。
美濃加茂から犬山にかけての、いわゆる「日本ライン」の最後を飾る景色で、犬山の町の立地条件を最も端的に語る景色でもあります。

天守から南に一直線に延びる本町通が町の中心であり、地形的にもここが尾根筋にあたります。犬山は町の骨格がとても分かりやすく、また、現在までそれをしっかり継承している町だといえます。



左:木曽川河岸からみる犬山城  右:本町通りの町並み

 


 

地図で見る 100年前の犬山



現在の地形図と約100年前(大正9年)の地形図を見比べてみます。


大正期の地形図をみると、犬山城は木曽川沿いにあり、そこから南に延びる道路がみてとれます。これが、町の背骨にあたる本町通りであり、この通りを中心にして、左は木曽川、右はそれに合流する支流(郷瀬川)まで逆三角形で市街地が広がっていました。

平成9年の地形図をみると、名鉄犬山線が市街地を避けるように敷設され、犬山駅が町の東外れにおかれたことも分かります。

いまでは、犬山駅の東に新市街地が形成され、商業施設(イトーヨーカ堂)や警察署や郵便局などの公共施設が集積し、南北方向の軸線をもっていた犬山の町は、東西方向を軸とした都市に変わりつつあります。

 


 

犬山の歴史


山深い木曽の渓谷を営々と流れてきた木曽川が、広大な濃尾平野にでた場所にある小山に犬山城はあります。ここに初めて砦を築いたのは、室町後期(1490頃)の武将 織田広近(清洲織田家)だといわれています。

天文六年(1537)には、織田信康(織田信長の叔父)が木ノ下城(犬山市役所の西 愛宕神社付近)を廃して、現在、本丸のある場所に城郭を造営して居城とします。
現存する国宝犬山城の天守二階部分は、この頃に建築されたものと考えられています。

信康が斎藤道三との戦いで戦死した後は、織田信長の領するところとなりますが、本能寺の変の後は、織田信雄(信長の次男)、池田恒興、三好吉房などが城主となり、天正十二年(1584)には秀吉と家康の激突した小牧長久手の戦いの端緒を開くことになります。

秀吉の時代には石川光吉が城主となりますが、関ヶ原の戦いで西軍に与したため改易され、代わって清洲に入部した家康の四男・松平忠吉の附家老となった小笠原吉次が、犬山に所領を与えられたのが犬山領の始まりでした。

その後、御三家のひとつ尾張藩主として入部した家康の九男・徳川義直の附家老として、元和三年(1617)、成瀬正成が犬山城主となり、以降、明治維新まで三万五千石の知行で成瀬氏が領することとなります。

附家老とは、徳川幕府初期、将軍家の実子が藩主になった際に、将軍より直接命を受けて附けれた家老のことで、政務の補佐を行うだけでなく藩主の養育の任も受けていました。特に、御三家の附家老は有名で、尾張徳川家の平岩氏、成瀬氏のほかに、紀伊徳川家の安藤氏、水戸徳川家の中山氏などは、ともに大名格以上の知行を有していました。

そのため、江戸初期における附家老の身分は、藩主の家来というよりも将軍直属のお目付け役という性格が強く、時代が下るにしたがって、藩主家と附家老家の考え方には大きな落差が生じることがありました。
徳川家譜代の血統を捨て切れなかった成瀬家では、尾張藩主の陪臣の扱いを受け続けることに抵抗を示し続け、犬山領の立藩は成瀬家の悲願でもあったようです。

実際に、第七代当主の正寿や次代の正住は尾張藩から独立しようと、幕府内で運動したようですがいずれも失敗しています。
慶応四年(1868)、新政府の維新立藩により、犬山城の成瀬家は正式に犬山藩主となり、悲願の尾張藩からの立藩がなりますが、その3年度には廃藩置県が断行されます。

第二代城主 成瀬正虎が奨励したことで広まった犬山祭は、城下町に成立した13の町屋町より「車山(やま)」とよばれる3層の山車が曳き回され、最上層に置かれた「からくり」が針綱神社に奉納されることで有名です。

明治24年の濃尾地震で天守などが一部損壊したことを契機に、修復を条件に旧犬山藩主成瀬正肥氏に無償譲渡され、平成16年に(財)犬山城白帝文庫に移管されるまで日本唯一の個人所有の城でした。

 


 

犬山の立地条件と町の構造


長野県の松本地域と木曽地域との境界にある鉢盛山(標高2,446m)を水源とする木曽川は、河川延長で全国7位、流域面積(長良川、揖斐川を含む木曽川水系「木曽三川」の合計)で全国5位を誇る、西日本で最大の河川です。
木曽街道に沿って山峡を縫うように流れ、濃尾平野にでてからは、岐阜県(美濃国)と愛知県(尾張国)の県境を形成しながら、長良川、揖斐川とともに伊勢湾に注いでいます。

長野県南部では、「木曽の桟」や「寝覚の床」などの渓谷名所をみせながら、岐阜県南部では、恵那峡、深沢峡、蘇水峡といった峡谷を形成し、特に、飛騨川と合流してから濃尾平野にでるまで(可児市から犬山付近まで)の渓谷は「日本ライン」と呼ばれ、川下りなどの観光名所となっています。

「日本ライン」とは、チャート層と砂岩層でできた奇岩怪石が織りなす木曽川の景観の名称で、ヨーロッパのライン河に似ているとして、大正3年に地理学者・志賀重昂が命名したものです。
「チャート」とは、深海底で堆積したプランクトンの殻が固まった非常に硬い岩石で、風化や侵食に対する抵抗力が強く、ゴツゴツとした岩山や切り立った崖をつくりだします。




犬山城の最も印象的な景観は、下の写真のような、木曽川に突きだすようにそそり立つ崖上の天守ですが、これを創りだしているのが、今から2億年前の古いチャート層です。

犬山市街地は、木曽川が濃尾平野に流れでた場所にできた扇状地の頂上部に位置し、標高30〜50mの沖積低地と段丘台地から形成されていますが、犬山城天守の建つ小山は、平野の中にポツンと取り残された古生層の残丘なのです。



木曽川沿い 名鉄犬山ホテル前からみた犬山城  城の向こうに伊木山がみえる



木曽川沿いの残丘に犬山城本丸が配され、ここから南に延びる洪積層の段丘面(尾根筋)に沿った本町通を背骨にして、犬山の町は、この本町通から東に緩やかに、西に急勾配に、下りながら広がっています。

木曽川、犬山城本丸、本町通、犬山は、この3つを町の骨格として成り立っています。


江戸期の絵図を参考しにて、現在の地形図に城下町時代の町割りを重ねてみたのが下図です。堀の外側の外町や鵜飼町にも、町屋町や武家地は広がっていたようですが、その範囲がよく分からないため記載していません。



犬山城下町は、本町通を中心とした町屋町、その周りに武家屋敷地、そして南・東に寺町が配され、それらを外堀が取り囲む「惣構」をとっていました。
北の端に配された犬山城を中心として、内堀と外堀の二重の堀が廻り、外堀は、西は自然の段丘崖に沿って、東は余坂から愛宕神社付近にかけて、そして、南は外町付近にありました。

外堀には、城下への出入り口である木戸が6ヶ所(東・西・南に各2ヶ所)設けられていて、崖地の坂道にあった西側2ヶ所の木戸以外は、道路が鍵方に折り曲げられていたことが江戸期の絵図でみることができます。


現在では、外堀はすべて埋め立てられていますが、木戸のあった場所には鍵方に曲がった道路が残されています。また、南の外堀にあった場所には堀の名残が道路形状にみられ(下中の写真)、その幅や形状からみて、石垣などで固められたものではなく、素掘りの溝のようなものだったのではないかと想像されます。



左:南東端にある愛宕神社  中:かつて外堀のあった場所 道路に挟まれて幅5〜6mの緑地帯が残る
右:余坂木戸跡に残る鍵方の道路



犬山城天守は、全国で4ヶ所しかない国宝天守のひとつです。
外観は三層ですが、内部は4階建てで、石垣中に2層あり、石垣(高さ5m)をあわせて24mの高さがあります。二重櫓の上に唐破風と望楼を載せていて、姫路城や彦根城と同じく、典型的な望楼型天守といえます。

天守からの眺めは素晴らしく、木曽川の雄大な流れと広大な濃尾平野が一望で、晴れたに日には、遠く金華山の岐阜城まで見渡せるといいます。

昭和36年から4年間でをかけて解体修理工事が行われました。
かつては、石川光吉の城主時代に美濃金山城の天守を移築したという伝承がありましたが、移築の痕跡が見当たらなかったため、今ではほぼ否定されているようです。


左:復元された本丸櫓門  中:本丸に続く登城道  右:国宝犬山城


本丸望楼から望む 木曽川上流(日本ラインの方向)


本丸望楼から望む 木曽川下流方向 広大な濃尾平野が広がる  川向に見えるのは伊木山


明治初期の廃城の際には、天守をのぞく全ての建物が取り壊され、いくつかの櫓門は城下の寺院に移築されたといいます。そのため、城郭内には再建された石垣や櫓がいくつか見られるだけで、天守以外にはさして見るべき遺構がありません。

現在、かつての城郭内には針鋼神社と三光稲荷神社が鎮座しています。

針鋼神社は延喜式にも記載される古社で、もともとは城山にありましたが、天文年間の犬山城築城に際して城下の一角に遷座して、明治15年に再びこの地に遷座しました。
三光稲荷神社は、もともと犬山城を守護する稲荷神でしたが、明治九年に中切村から遷座した稲荷神と合祀され現在の姿となりました。


右が針鋼神社鳥居  左の赤い鳥居が三光稲荷神社  この場所にはかつて内堀があった


針鋼神社鳥居から南方向へは一直線に本町通が延びています。

戦災を受けなかった犬山市街地には、城下町時代からの狭隘な道路が多く、拡幅されていない本町通は町の幹線道路にもかかわらず、5〜6m程度の車が離合できる幅しかありません。
私が町歩きをした時は、ちょうど無電柱化の工事が行われていたようで、通りの至るところで道路工事が行われていました。
電柱がなくないスッキリした町並みとなったら、もう一度訪れたいと思います。


左:本町通から針鋼神社鳥居をみる 向こうに天守が見える
中:かつて大手門のあった福祉会館前  右:高札場のあった札の辻付近



平入り切妻屋根の町屋が軒を並べる本町通  ツギハギだらけの舗装と無粋な電柱はもうすぐ無くなる


犬山の町屋は、平入り切妻屋根の二階建てで、土蔵造りの町屋はみられず、むしろ京風に縦格子の美しい商家が目につきます。
江戸時代末期の絵図には、美濃の町屋のように本卯建の上がった町並みが描かれているそうですが、明治24年の濃尾大震災によって町屋の姿は変わり、傷んだ家を再建する際に京風の町屋が好まれたようです。


左:本町の遠藤家住宅(明治33年築)  右:新町の屋号「米清」の米問屋 三井家住宅(明治22年築)



馬の背地形の背骨にあたる本町通から西に入ると、すぐに急な下り坂となり崖地がみられます。
急坂の下る鵜飼坂や専念坂の先にも町屋や武家屋敷が広がり、木戸が2ヶ所設けられていたようですが、その名残はみられませんでした。

犬山北小学校の横の鵜飼坂は、かつての内堀端にあたる場所で、グランドにある道沿いの老木は、堀が埋め立てられた頃に植えられたものかもしれません。


大本町西の犬山高校付近からみえる段丘崖


一方、本町通から東側は、郷瀬川に向かって緩やかに下る地形に町屋町が広がっていました。 本町通に比べると古い町屋はぐっと少なくなりますが、木戸のあった余坂の付近には、所々に江戸末期から明治大正期の見ごたえのある町屋が残されています。


左:余坂町の旧奥村家住宅(明治中期頃築)  中:練屋町の小島家住宅(明治25年頃築)


瓦坂と上ったところにある土塀と土蔵



町の東を北流する郷瀬川は、城下町時代には大外堀の役割を果たし、惣構の一角を担ってきた川です。
城山の東麓をなぞるように流れ、天守の崖下で木曽川に合流していますが、右岸にある名鉄犬山ホテルの敷地より川床が高く、地形的にみて不自然な河道は、昔に人口的に造られた可能性があります。



左:郷瀬川 右の斜面上が旧城下町  中:郷瀬川沿いから旧城下町に上る瓦坂  右:木曽川への合流部にある彩雲橋からみる郷瀬川



本町通のうち、上本町と中本町は道路拡幅もされず古い町屋が数多く残されていますが、その南に続く下本町に入ると様相は一変します。

ここも城下町時代の惣構の中ですが、道路は大きく拡幅されて、アーケード歩道付き広い道路になり、沿道には3〜4階建てのRC建物が並んでいます。

これは「防災建築街区造成事業」といわれる都市計画事業により昭和40年代初めに建築されたものです。
火災や地震に強い防災都市を目指し、木造二階建ての町屋を鉄筋コンクリートの高層建築に建替える高度成長期の代表的な計画手法ですが、その町のもつ地歴を一切無視し、全国どこにでも通用する画一的手法により再開発しています。
町が長い年月をかけて積み上げてきた歴史遺産を、町の発展を妨げる「じゃまもの」として排除してきた結果です。



左:中本町から道路拡幅と再開発された下本町をみる  中:町屋が再開発された防災建築街区
右:リズム感をもったRC造のファサードは昭和40年代風



ここから城郭までの本町通も、下本町と同様に幅員16mの都市計画道路とすることが決定していましたが、平成17年度に計画変更され、幅員6mの道路、つまり今のままで再整備されることが決まっています。
犬山市の英断に拍手したいとおもいます。

 


 

まちあるき データ


まちあるき日    2008年2月


参考資料
@ 「愛知県の歴史」
A 「美人の町・犬山」
B 「名古屋東海の城下町」


使用地図
@ 1/25,000地形図「犬山」平成9年修測
A 1/25,000地形図「犬山」大正9年測図


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