弘 前


緑の土手に縁取られた 優美な城のある津軽の城下町




 

 


 

弘前のまちあるき


弘前ではおもしろい町歩きがたくさんできます。

弘前城は、東北地方で唯一 現存する天守をもち、いくつもの隅櫓や櫓門の残る弘前藩津軽氏の居城ですが、緑の土手に縁取られた美しい堀と3000本ともいわれる城内にある桜も有名です。
城郭の優美さは、私の知る限り東日本で一番だと思います。

弘前は、岩木川の分流と土淵川に挟まれた場所にありますが、この2つの河川が造りだした複雑な地形上に城下町は展開していました。その名残りを探すのも、町歩きの楽しみのひとつです。

また、禅林街とよばれる曹洞宗寺院の寺町も見所のひとつです。沿道に並ぶ杉木立の静寂の中に木塀と山門が緊張感つくりだし、突きあたりの荘厳な長勝寺三門に導いてくれます。

そして、弘前城の北側にあるかつての武家屋敷地 仲町では、槇の生垣と屋敷門がきれいに保全修復されて端正な町並みを見せてくれます。

 


 

地図で見る 100年前の弘前


現在の地形図と約100年前(大正元年)の地形図を見比べてみます。


弘前城の西側に斜めに流れる川が岩木川で、市街地はこの川とは反対方向に広がっています。弘前駅は旧城下町の東端に配置されましたが、市街地は駅を大きく越えて東方向に広がっていることがわかります。

弘前城は南からの丘陵地の北端部につくられましたが、大正期の地形図を見ると、丘陵地には果樹園(りんご園)があり、北東西の平野部には水田が広がっていることもわかります。  ※10秒毎に画像が遷移します。

現在の地形図 100年前の地形図

 


 

弘前の歴史


弘前は、慶長八年(1603)に津軽藩祖の津軽為信が地割りを行ったことに始まるといわれています。

津軽氏は、元は大浦氏を称した津軽地方の土豪であり、南部氏の配下にありましたが、戦国初期の南部氏内部の混乱に乗じて自立、その後、秀吉の小田原攻めに参陣して所領を安堵され津軽氏に改称、関が原の戦いにも東軍で参戦して四万七千石の大名となりました。

津軽氏の築いた弘前城は、津軽平野の南部にあって、岩木川と土淵川に挟まれた台地の北端に位置し、古くは高岡とよばれていました。

慶長十五年(1619)、弘前藩二代藩主 津軽信枚(のぶひら)により築城が始められたとされ、城下町もこの頃に開かれたようですが、寛永五年(1628)には弘前と改称され、以降、津軽氏十二代260年にわたり、弘前藩城下町として栄えました。
弘前城には、当初五層の天守が本丸西南隅にありましたが、寛永四年(1627)に落雷により焼失し、現存する天守は、十万石に加増された文化年間(1810頃)に、隅櫓の再築という名目で新築された三層のものです。

維新以降、全国の城郭破却の際にも、津軽藩は新政府側についたためか城郭の建物は数多く残され、天守以外に三棟の三重櫓と五棟の櫓門が現存しています。

廃藩置県により弘前県が成立し、明治22年の市町村制導入の際にも、青森県で唯一の市制が施行されますが、ほどなく県庁が青森に移り、弘前は徐々に人口が減少していきます。
明治27年には官立鉄道の奥羽本線が弘前・青森間で開通しますが、基幹産業がなく、交通結節点でもない弘前は衰退していきます。

これを止めたのが、明治31年の陸軍第八師団司令部の開設でした。

日清戦争後の明治29年、軍備拡張のため常備師団が拡充され、それまでの陸軍全6師団に加え、新たに6師団が新設されます。
東北6県を師団管区とする仙台第二師団から、山形、秋田、青森、岩手の4県に宮城県の一部を割いて第八師団が編成され、その師団司令部が弘前におかれました。

第八師団は、明治35年に死者199人をだした八甲田山の雪中行軍遭難事件や、フィリピンルバング島から戦後29年目に帰国した小野田寛郎少尉の所属師団として有名です。

弘前城郭跡は、明治28年に陸軍施設を除いて公園として市民に開放され、以降、桜の植樹が進み、現在3000本近い桜が植えられ東北一の名所として知られています。
幸いにも戦災をまぬがれて終戦を迎えた弘前は、城と桜に代表される数々の文化遺産と、恵まれた自然環境を土台に文化都市として発展しました。

現在の弘前市の人口は18万人ほど。明治中期には青森一の都市でしたが、明治末頃には青森市(現在30万人)に、昭和30年頃には八戸市(現在24万人)に抜かれ、青森県第三の都市となっています。

 


 

弘前の立地条件と町の構造



弘前は津軽平野南部の弘前台地とよばれる洪積台地の北端にあり、岩木川と土淵川に挟まれ、遠くに津軽平野のシンボル 岩木山を望む地にあります。

岩木川は。白神山地の雁森岳(標高987m)にを源とし、岩木山南麓を弘前まで北東流した後に流れを北に転じ、津軽平野を潤しながら河口近くに十三湖を形成して日本海に注ぐ大河です。

岩木山は、標高1625mの青森県最高峰で、独立峰の成層火山(コニーデ型)ですが、その美しい円錐形の山容は「津軽富士」と称され津軽平野の象徴となっています。



維新時の城郭破却を免れ、師団司令部があったにも関わらず戦災を受けなかった弘前城跡には、天守や数多くの三重櫓、櫓門だけでなく、柔らかな緑に覆われた土手と堀がかつての城郭を美しく縁取っています。


柔らかな緑の土手に縁取られた弘前城郭の堀


弘前城本丸から内堀越に見る岩木山


明治28年に広く市民に開放された城跡の公園には桜の植樹がすすみ、春には3000本近い桜が公園中に咲き乱れ、東北一の名所として知られています。

広大な城跡公園内に数箇所ある虎口には、土手と石垣に守られた櫓門がそのまま残され、その重厚な威容は、かつての津軽藩十万石の栄華を今に伝えています。



弘前城天守


左:亀甲門(北門)  中:東門  右:追手門   いずれも現存する櫓門


南方の久渡寺山から北に延びる弘前台地と、それを挟み北流する岩木川と土淵川が、弘前城下町に複雑な地形と水の流れをつくりだしています。

2つの川は、城下町に住まう人々を潤し、堀に豊かな水を供給してきただけでなく、弘前台地の麓に淵と崖地を形成して、溜池をも造りだしてきました。


現在、岩木川は、弘前城の西をゆったりと流れる大河ですが、南西4kmほどの場所で水路が分流しています。
その分流が、西茂森の長勝寺の寺町の北麓に沿って東流し、新町の先達ケ淵で北西方向に流れをかえて西濠につながっています。

江戸期、現在の岩木川は駒越川とよばれ、現在水路のようになっている分流が岩木川の本流でした。
その水路(旧岩木川)は、西濠の南端でさらに分流し、そのひとつが、地中のサイホン管を伝い通じ西濠に通じています。
その手前には鉄製の樋が設けられ、水量を調節しているようですが、サイホン管からの西濠の出水口は湧水のように見えます。



左:旧岩木川の分水箇所  中:右の水路が用水路、左の水面が西濠  右:西堀の出水口 手前の四角


もう一方の分流は城内と城下町を横断して東流しています。 北下がりの地形にあって、西から東方向に等高線に沿う形で緩やかに流れており、明らかに人為的に造られた用水路だと分かります。
この用水路は、城内の北郭を東から西に流れ、東側の中堀を跨ぎ、弘前中央高校北側から笹森町を東流して弘前東照宮の裏側で土淵川に合流しています。

城地は北に傾斜する台地にあるため、中堀も北に向かって勾配がついていて、高さに応じて中堀も段がついています。
この段を樋で繋ぎ、その間を用水路が横断し、丘陵地にある城内と城下に生活用水を供給していたのだと思います。



左中:上町(城下町東側)を東西に流れる用水路  右:土淵川


勾配にあわせて段のつく中堀を横断する用水路


江戸初期、土淵川の支流 寺沢川がせき止められ南溜池が造られました。
現在では池は埋め立てられてありませんが、弘前大学医学部グランドにあたる低地がその場所にあたります。

その南側に東北地方では珍しい五重塔があります。
銅屋町にある真言宗智山派の寺院 最勝院の塔です。

江戸期、ここは大円寺という真言宗寺院の寺地でした。
最勝院はここより北に3kmほど離れた田町にあり、12の寺院を従えていましたが、明治初期の神仏分離令によりすべて廃寺となったため、これらの檀家衆を引き受けて大円寺跡に移転しました。

最勝院の隣にある八坂神社は、神仏分離令までは最勝院(又は大円寺)の境内にあったようです。
鳥居と社殿は東方向最勝院本殿方向を向いていますが、鳥居の前には土塀が並び2つの寺社を完全に分離していて、なんとも滑稽な配置となっています。



左:左が最勝院 右が八坂神社  中:最勝院境内と五重の塔  右:鳥居と土塀の滑稽な位置関係


最勝院参道入り口からみたかつての鏡ヶ池の堤防の名残り


南溜池は江戸期から弘前城下の景勝地、憩いの場として人々に親しまれ、「鏡ヶ池」とよばれていたようで、五重塔から溜池越しに遠く岩木山を望む江戸期の絵図が残されています。

今では鏡ヶ池は埋め立てられましたが、江戸期の絵図にも描かれた堤防上の道は、現在でも交通量の多い地域の幹線道路として利用されています。
最勝院の参道入口からは地形的な名残を見ることができます。

寺沢川はここから最勝院の裏手の崖下を大きく迂回して流れ、土淵川に合流して旧城下町に入ります。土淵川合流点までの河道は深く切れ込んでいて、南溜池の築造時に人工的に掘り込まれたのだと思います。



左:寺沢川の切り通し  右:土淵川 左は弘南電鉄終点の弘前中央駅


江戸期の絵図に描かれた先達が淵には、いまでは急坂の旧道とかつての岩木川分流の水路が残されていて、一直線に丘陵上まで登る高架道路(城西大橋)がその上を跨いでいます。
この急坂は江戸期には下町から上町に入る城下の主要街路だったようですが、急坂を息も絶え絶えに上り振返ると、坂上からは岩木山の雄姿を正面に望むことができます。



下町から先達が淵をみる  急坂の上が上町


急坂からみた下町と岩木山


先達ケ淵の南崖上には天満宮が淵を背に鎮座しています。
忘れられたようにひっそりと佇む古社ですが、社地の東には城下町時代の土手が残されています。この天満宮は城下町の外にあり、崖地を背に南を向いてあることになります。
江戸初期の絵図には天満宮は描かれていませんので、それ以降に移転してきたようです。



弘前天満宮  中:本殿の背は先達ケ淵の崖  右:鳥居の向こうに城下町時代の土手を貫くトンネルがみえる


弘前には2つの寺町があります。
長勝寺を中心とし禅林街とよばれる寺町と慶安二年(1649)の大火を機に今の地に移転した新寺町です。


禅林街の入口には「黒門」とよばれる山門があり、それを潜ると奥には杉木立が続く道が一直線に延びています。
道は舗装されていますが、その両側には杉並木と数多の寺の木塀と山門が並び、壮観な寺町を形成しています。
どの寺も立派な本殿をもち、最近建て替えられただろう真新しいものや改修工事中のものも数ヵ寺あります。これだけの寺院を、建替え、維持するだけの経済力が弘前にあることが不思議に思えました。

杉並木の先には長勝寺三門があるます。
長勝寺は、曹洞宗の津軽家最初の菩提寺で、その三門は日光東照宮と並び称される江戸時代初期の代表的な建造物です。
亨禄元年(1528)に創建され、弘前城築城とともに現在地に移したとされています。

あいにく本殿は改修中で見ることはできませんでしたが、三門には圧倒的な存在感があり、訪れた者を気高く威厳をもって迎えてくれます。



禅林街  左:黒門  右:杉木立と遠くに見える長勝寺三門


左:長勝寺三門  中右:杉木立の両脇に佇む三十三ヶ院


新寺町は、城下町建設時には城東にありましたが、慶安二年(1649)の大火で類焼したのを機に現在の城下南端に移されたもので、江戸初期に描かれた正保の城下町絵図には記載されていません。
津軽家の菩提寺 報恩寺をはじめ、中世末創建と伝えられる寺院が軒を並べています。



新寺町の町並み


弘前城下町は、城地の東側で台地上に展開する上町、台地西側の平野部に展開する下町、そして台地の北端にある仲町の3つの地区に分けられました。

城下町時代には武家屋敷地が広がっていた仲町には、今でも槙の生垣が連なり屋敷門が残る通りがあり、伝統的建築物群保存地区に指定されています。

家屋を新築や建替えする場合には、沿道の生垣の復元と屋敷門の保存修復が法律で義務付けられているようで、幅4m程の一直線に延びる道路沿いに生垣が並ぶ町並みはとても美しくかつての武家屋敷地の歴史を今に伝えてくれます。

仲町には沿道景観の保存修復だけでなく江戸期の武家屋敷のもいくつか残されています。
その中のひとつ、岩田家は数百石取りの中流武家ですが、江戸後期に建築された茅葺屋根の住宅からは質素な生活ぶりがうかがわれます。



仲町の町並み


それぞれの屋敷門はたとえ朽ち果てていても撤去することは認められないようで、ボロボロの屋敷門が修理もされず使われることもなく、沿道に放置されているものが沢山見られました。
事務所や資材機材置き場となっている敷地に、朽ち果てた屋敷門が無残な姿を晒しているのは見るに耐えないものがありました。

歴史遺産を保存するための負担を住民に求めるのであれば、行政も主体的に屋敷門の修復をするぐらいの気概がほしいところです。



左:茅葺の旧岩田家住宅  中:この宅地は建設重機と資材置き場になっている
右:賃貸アパートの前面に申し訳程度に植えられた生垣


中三デパートなどの商業施設が建ち並びアーケード街となっている土手町通りは、かつての羽州街道で、江戸初期の絵図にはすでに町屋が建ち並んでいた様子が描かれています。 現在、北行きの一方通行になっている通りの沿道には、少し派手目でハイカラな色合いの建物が多い気がしました。


土手町通りのハイカラ(?)な建物たち


また、追手門の前にあり市役所に隣接する弘前市立観光館も、カーテンウォールを配したキューブ状の建物にトラスを架け、歴史的な城郭と対角にあるデザインが目につきます。



左:青森銀行記念館  右:弘前市立観光館

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.9


参考資料

@「<図説>弘前・黒石・中南津軽の歴史」
A「(図説)青森県の歴史」 河出書房

使用地図
@1/25,000地形図「弘前」「大鰐」「久渡寺」「黒石」昭和62年修測
A1/25,000地形図「弘前」「大鰐」「久渡寺」「黒石」大正5年測図


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