姫 路


播磨平野の中心都市  日本一の ”白鷺城” を頂く 総構えの城下町




 

 


 

姫路のまちあるき


姫路のまちあるきの楽しさは、なんといっても、優美で高貴な 姫路城天守の姿を仰ぎ見ることにあります。

太平洋戦争末期、米軍による2度にわたる大空襲により市街地がほぼ全焼した中で、奇跡的にも姫路城は災禍を免れます。

国宝であり世界遺産にもなった姫路城天守は、”白鷺城”の名のとおり日本の「至宝」といえるものだと思います。

 


 

地図で見る 100年前の姫路


現在の地形図と100年前(明治31年)の地形図を見比べてみます。


明治期の地形図をみると、天守閣の周辺には台形の空白地が広がっていて、その外周に市街地が張り付くように形成されていることが分かります。 これが姫路城下町の範囲で、現在の市街地の大きさと比べると、かなり小さいことに驚かされます。
台形の空白地は、かつての中堀に囲まれた姫路城郭で、明治期には陸軍の司令部と練兵場になっていました。

姫路城と天守閣をつなぐ大手通りは戦後にできたものなので、明治期の地形図ではみることはできません。
JR姫新線が大きく東に蛇行しているのは、かつての城下町を避けるように敷設された結果だということがよくわかります。

戦争末期の空襲により、姫路市街地は壊滅してしまいますが、戦後の市街地復興においてできた現在の都市構造が、城下町時代からの都市骨格を引き継いでいることも分かります。

また、現在では市街地は大きく四方に拡大してはいますが、現在の地形図において、かつての城郭と城下町の範囲を切り取ることができそうです。  ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

姫路の歴史


 播磨平野の中心に位置する姫山の地に、始めて砦を築いたのは、南北朝期の貞和二年(1346)、播磨国守護の赤松氏四代の則村(円心)の次男貞範だったといわれています。
 そこは古来より国衙がおかれ播磨国の中心地であり、姫山には築城時には称名寺といわれる寺が既にあったといわれ、この時、寺は姫山の東麓に移されたといいます。

 中世の姫路城は、赤松氏からその一族の小寺氏、さらにその被官である黒田氏に受け継がれ、黒田職隆(もとたか)から孝高(如水)の世は戦国時代となっていました。

 やがて、播磨は天下統一を進める秀吉と中国の雄毛利元就とが激突する最前線の地となりますが、英賀城の落城をもって播磨を平定すると、秀吉は藍染川と船場川にはさまれた地域を広く取り込んだ近世城郭が構築したといいます。
 これにより、再び称名寺は藍染川の東に移されることとなり、長谷寺も総社の地に移されることとなりました。

 秀吉の後は羽柴秀長が、次いで木下家定が在城し、豊臣一族による播磨支配が続きますが、関ヶ原の後は、家康の娘婿池田輝政が、三河吉田十五万二千石から播磨一国を領有する五十二万石の太守として入部します。
 輝政は秀吉の城郭を基盤として、現在まで伝わる広大な姫路城郭の建設にのりだします。

 城の縄張りは、本丸の東北の丘裾を基点として、城を囲むように反時計回りに螺旋形に堀が配され、中堀の一部には藍染川の流路が利用され、船場川に外堀の役割をもたせました。
 現在、外堀はそのほとんどが埋め立てられて、現地では位置も分からなくなっていますが、山陽本線と播但線が、かつての外堀の外側を走っているので、その広さの概略がつかめます。

 その後、輝政次男の忠継が備前で二十八万石、三男の忠雄が淡路で六万国を領し、池田氏一族が山陽道の要所を押さえます。西国大名に対する京、大坂への備えというべき要所を池田氏に任したことで、「西国将軍」とまで称された輝政への家康からの信頼が伺えます。

 輝政亡き後、播磨国は長男利隆が継ぎますが、元和二年(1616)に33歳の若さで亡くなると、その嫡男光政が幼少との理由で鳥取に三十二万石で移封となります。

 代わって姫路藩主となったのは本多忠政で、子の忠刻の分を合わせて二十五万石で入部し、寛永十六年(1639)には松平(奥平)忠明の十八万石となり、正保元年(1644)忠弘の代に十五万石となり、以降、維新まで姫路藩は十五万石で続きます。
 この間、慶安元年(1648)に結城松平氏、翌年には榊原氏、寛文七年(1667)には再び結城松平氏、天和二年(1682)には再び本多氏、宝永元年(1704)に再び榊原氏、寛保元年(1741)に三度目の結城松平氏を経て、寛永二年(1748)から維新までは酒井氏と、江戸期の270年余りの間に、外様の池田氏の他は、いずれも譜代大名が藩主となり、十氏のめまぐるしい転封が繰り返され、藩主の延べ人数は32人を数えました。

 戊辰戦争では、朝敵とされて長州、備前藩兵の追討を受け、男山からの砲撃で福中門が破壊されたものの、城郭、城下町ともに幸い被害はなく明治にいたります。

 明治四年の廃藩置県で、姫路藩は姫路県となり、県庁には旧藩邸が当てられ、その2年後には姫路城は陸軍の管轄となり、中曲輪内は練兵場となって軍都への歩みが始まります。
 明治9年に歩兵第10連隊の兵舎が内曲輪三の丸に、29年には歩兵39連隊兵舎が中曲輪に、そして、30年には第10師団司令部と陸軍衛○病院が城東の中曲輪に設置されます。

 また、明治9年に裁判所、11年に国立第三十八銀行、姫路中学校(現 姫路西高校)が設立され、鉄道交通では、明治21年に山陽鉄道(現 山陽本線)、27年に播但鉄道(現 播但線)、大正12年に神戸姫路電鉄(現 山陽電鉄)が相次いで開通して、江戸期から引き続いて播州地方の中心地として発展します。

 昭和初期に姫路は工業都市として大きく発展します。
 特に飾磨区、広畑区の臨海埋立地には、山陽特殊製鋼、大阪製鋼(現 合同製鐵)、日本製鉄広畑製鉄所(現 新日鉄広畑)など、製鉄業を中心とした工場が相次いで創業します。
 現在でも電気、化学、エネルギー関連の工場群が立地し一大工業地帯を形成しています。

 昭和20年の6月と7月の2度にわたり姫路は米軍の大空襲を受けます。
 6月の空襲は川西航空機姫路製作所(現JR京口駅付近にあり、戦闘機紫電改の最終組み立て工場)へのもので、工場は全滅して340人の死者をだし、翌7月の空襲は姫路市街地への焼夷弾爆撃で、死者170人をだして市内の大半は焦土と化しました。

 しかし、奇跡的に姫路城本丸は焼失をまぬがれています。
 城郭敷地内(旧三の丸)の鷺城中学校が焼失し、西の丸にも焼夷弾が2発落ちたといわれますが、奇跡とした言いようがありません。

 昭和29年、姫路駅から姫路城天守を見通す幅50mの大手前通りが開通します。姫路駅を降りた時に、駅前から延びる大手通りの突き当たりに天守が見える光景は、この時にできたものです。

 その後、旧城南練兵場跡に大手前公園が完成し、城北城東地域に官庁街や文教施設が整備され、戦後20万人余りの人口が、昭和43年には40万人を突破し、現在では合併効果もあり50万人を超えています。

 なお、姫路は政令指定都市ではありませんが、市の一部に広域地名としての「区」が存在します。
 市域の南部から西南部にかけて、飾磨区、広畑区、網干区など6区がありますが、これは昭和21年に飾磨市、広畑町、網干町など6市町を編入した際に、既にあった町名と区別するため旧市町村名に「区」をつけたもので、たとえば「飾磨区○○」で一つの町名なのです。当然、区役所はなく、全国的にもとても珍しく且つややこしい町名だといえます。

 


 

姫路の立地条件と町の構造


 姫路は播磨平野の東よりにあり、市川の三角州が形成した平野の中心に位置します。
 市川は、生野銀山で知られる但馬の朝来市生野町の三国岳(標高855m)から流れでて、JR播但線と平行して真っ直ぐ南流する河川で、城下町から約3km南の飾磨で瀬戸内海に注いでいます。
 現在、市川の河道は野里の大日河原から東方向に大きく振れています。元々は、そこから真直ぐ南流していたそうですが、江戸初期、池田氏により付け替えられたといわれます。


 船場川は、市川の支流にあたり、城下町時代には姫路城の中堀の一部を形成していましたが、江戸中期には改修されて、飾萬津(現在の姫路市飾磨区)との間に水運路が開かれました。これにより材木町、小利木町、博労町、大蔵前町などが発展していきました。

 播磨平野には男山や手柄山など数多くの小山がありますが、姫路城のつくられた姫山はそのうちの一つで、平野の中心に位置して周囲を睥睨する場所にあります。


姫路城の西隣にある小山



 現在の地形図に江戸前期の城下町の範囲を重ねてみたのが下図です。

 姫路城下町は、内堀(現存)、中堀(一部現存)、外堀(埋立で現存せず)の3重の構えをなし、現在の龍野町辺りを除いて、堀で町を囲う「総構え」の町割りでした。
 中堀は、土塁が現存しているためその位置が現地で特定できますし、現存しない外堀も地形図にくっきりと名残をみせています。江戸初期の町割りが、現在の町の構造を規定していることがわかります。


 総構えの姫路城下町の中心にあったのが姫路城天守閣でした。
 標高45mの姫山に、高さ15mの石垣と30mの天守閣は、いまでも市街地のどこからでも見ることができます。
 錆色の御影石を使用した打ち込みハギの高石垣に、唐破風と千鳥破風を交錯させた外五階建ての天守閣は、白漆喰の塗込め壁により「白鷺城」と呼ばれています。


左:二の丸からみる姫路城天守  右:男山麓の慈恩寺境内からみる姫路城天守


 姫路城が「白鷺城」と呼ばれる由縁は、外壁の白さだけではありません。
 「女性的」な丸みを帯びた天守閣の「安定感」と、打ち込みハギの錆御影が表現する「やさしい石垣」が「白鷺」に例えられるのではないかと思います。
 特に、西ノ丸からの仰ぎ見た時の天守閣は、母たる大天守が、子たる乾小天守と西小天守を抱いているようにおもえ、もっとも姫路城が美しく見える場所だと思います。


西の丸庭園から見る姫路城天守


 姫路駅を降りた時、駅前から一直線に北に延びる大手通りの突き当たりには、姫路城天守閣を見ることができます。
 アイストップに象徴的な天守閣を配するのは、ナポレオン3世によるパリの街路改造にも似て、見るものにある種の感動を与える風景です。

 あたかも城下町建設時の設計思想を、明治期の鉄道駅設置が引き継いだようにもみえますが、これは偶然の産物のようです。
 大手通りができたのは昭和29年ことで、町割りの軸方向と姫路駅と天守閣がぴったり一致した結果だったことは既に述べたとおりです。


大手通りの大手前交差点(旧中堀中ノ門)からみる姫路城天守


 国道2号線の北側には、現在でも高さ5mほどの土塁が、総社門跡(市民会館前)から埋門跡(白鷺橋)まで残されています。
 国道はかつての中堀で、大正時代に埋め立てられ築造されたものですが、土塁はなぜか残されたようで、現在では数多くの楠の大木が土塁上に ボリューム感をもって見るものを圧倒します。


左:現存する中堀 五軒邸付近(旧寺町)  右:大手前交差付近  かつての中堀跡に残る土塁跡


かつての中堀には、9ヶ所の門があったといいます。
このうち西側の市之橋門と東側の久長門、内京口門などは、両側の石垣がきれいに修復され、幅20mほどの中堀とともに、いまだにかつての門の名残を残しています。


左:旧市之橋門(好古園の東)  右:旧総社門(市民会館交差点)


大手前通りをさらに北に進むと大手門に突きあたります。
内堀と大手門は綺麗に再建され、ここは観光バスの駐車場と土産物店と屋台が軒を並べて、姫路観光の拠点となっています。
私のまちあるきの時も観光客でごった返していましたが、外国人観光客の姿も目につき、世界遺産の威力は凄いものだと思わずにいられない光景でした。


大手門前に軒を並べる土産物店と屋台


戦争末期の2度にわたる米軍の大空襲により、姫路城を除いて姫路の町は灰燼に帰したことは既に述べました。

そのため、町中には歴史あるよべる町並みは一切残っていません。
しかし、丹念に町を歩くと城下町時代の名残をいくつか見つけることができます。

そんな地域が、姫路城の南西の龍野町付近と北東の野里門付近です。

龍野町は、城下町時代に西国街道筋として栄えた町で、この街道が龍野に通じるところから龍野町と名つけられました。
龍野町を中心とした、禅寺の景福寺から国道2号線までの地区には、明治大正期の町屋が忘れ去られたようにポツンと残されています。


左:景福寺(龍野町北側)  中:龍野町の町並み




龍野町周辺に残る明治大正期から昭和前期にかけての町並み


野里門は野里町方面に抜ける城下町の北の出入り口です。
ここから堺町(旧久長門)まではかつての町屋地区で、所々に戦前からの町屋が残り商店街を形成していた跡が残されています。
いまでも、「野里銀座商店街」のアーケードや「鍛冶屋町」のアーチにその名残りを見ることができます。


左:河間町交差点にある「野里銀座商店街」のアーケード  中:鍛冶屋町の町並み




旧寺町の町並み(現五軒邸1・2丁目付近)


 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.5


参考資料

@「全国城下町絵図  別冊歴史読本」人物往来社
A「日本城下町絵図集 −近畿編−」昭和礼文社

使用地図
@1/25,000地形図「姫路北部」「姫路南部」平成7年修正
A1/20,000地形図「姫路」「御国堅村」明治31年修正


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