姫 路
播磨平野の中心都市 日本一の ”白鷺城” を頂く 総構えの城下町
姫路のまちあるき
姫路のまちあるきの楽しさは、なんといっても、優美で高貴な 姫路城天守の姿を仰ぎ見ることにあります。 |
地図で見る 100年前の姫路 現在の地形図と100年前(明治31年)の地形図を見比べてみます。 明治期の地形図をみると、天守閣の周辺には台形の空白地が広がっていて、その外周に市街地が張り付くように形成されていることが分かります。 これが姫路城下町の範囲で、現在の市街地の大きさと比べると、かなり小さいことに驚かされます。 台形の空白地は、かつての中堀に囲まれた姫路城郭で、明治期には陸軍の司令部と練兵場になっていました。 姫路城と天守閣をつなぐ大手通りは戦後にできたものなので、明治期の地形図ではみることはできません。 JR姫新線が大きく東に蛇行しているのは、かつての城下町を避けるように敷設された結果だということがよくわかります。 戦争末期の空襲により、姫路市街地は壊滅してしまいますが、戦後の市街地復興においてできた現在の都市構造が、城下町時代からの都市骨格を引き継いでいることも分かります。 また、現在では市街地は大きく四方に拡大してはいますが、現在の地形図において、かつての城郭と城下町の範囲を切り取ることができそうです。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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姫路の歴史
播磨平野の中心に位置する姫山の地に、始めて砦を築いたのは、南北朝期の貞和二年(1346)、播磨国守護の赤松氏四代の則村(円心)の次男貞範だったといわれています。 |
姫路の立地条件と町の構造 姫路は播磨平野の東よりにあり、市川の三角州が形成した平野の中心に位置します。 市川は、生野銀山で知られる但馬の朝来市生野町の三国岳(標高855m)から流れでて、JR播但線と平行して真っ直ぐ南流する河川で、城下町から約3km南の飾磨で瀬戸内海に注いでいます。 現在、市川の河道は野里の大日河原から東方向に大きく振れています。元々は、そこから真直ぐ南流していたそうですが、江戸初期、池田氏により付け替えられたといわれます。 船場川は、市川の支流にあたり、城下町時代には姫路城の中堀の一部を形成していましたが、江戸中期には改修されて、飾萬津(現在の姫路市飾磨区)との間に水運路が開かれました。これにより材木町、小利木町、博労町、大蔵前町などが発展していきました。 播磨平野には男山や手柄山など数多くの小山がありますが、姫路城のつくられた姫山はそのうちの一つで、平野の中心に位置して周囲を睥睨する場所にあります。
現在の地形図に江戸前期の城下町の範囲を重ねてみたのが下図です。 姫路城下町は、内堀(現存)、中堀(一部現存)、外堀(埋立で現存せず)の3重の構えをなし、現在の龍野町辺りを除いて、堀で町を囲う「総構え」の町割りでした。 中堀は、土塁が現存しているためその位置が現地で特定できますし、現存しない外堀も地形図にくっきりと名残をみせています。江戸初期の町割りが、現在の町の構造を規定していることがわかります。 総構えの姫路城下町の中心にあったのが姫路城天守閣でした。 標高45mの姫山に、高さ15mの石垣と30mの天守閣は、いまでも市街地のどこからでも見ることができます。 錆色の御影石を使用した打ち込みハギの高石垣に、唐破風と千鳥破風を交錯させた外五階建ての天守閣は、白漆喰の塗込め壁により「白鷺城」と呼ばれています。
姫路城が「白鷺城」と呼ばれる由縁は、外壁の白さだけではありません。 「女性的」な丸みを帯びた天守閣の「安定感」と、打ち込みハギの錆御影が表現する「やさしい石垣」が「白鷺」に例えられるのではないかと思います。 特に、西ノ丸からの仰ぎ見た時の天守閣は、母たる大天守が、子たる乾小天守と西小天守を抱いているようにおもえ、もっとも姫路城が美しく見える場所だと思います。
姫路駅を降りた時、駅前から一直線に北に延びる大手通りの突き当たりには、姫路城天守閣を見ることができます。 アイストップに象徴的な天守閣を配するのは、ナポレオン3世によるパリの街路改造にも似て、見るものにある種の感動を与える風景です。 あたかも城下町建設時の設計思想を、明治期の鉄道駅設置が引き継いだようにもみえますが、これは偶然の産物のようです。 大手通りができたのは昭和29年ことで、町割りの軸方向と姫路駅と天守閣がぴったり一致した結果だったことは既に述べたとおりです。
国道2号線の北側には、現在でも高さ5mほどの土塁が、総社門跡(市民会館前)から埋門跡(白鷺橋)まで残されています。 国道はかつての中堀で、大正時代に埋め立てられ築造されたものですが、土塁はなぜか残されたようで、現在では数多くの楠の大木が土塁上に ボリューム感をもって見るものを圧倒します。
かつての中堀には、9ヶ所の門があったといいます。 このうち西側の市之橋門と東側の久長門、内京口門などは、両側の石垣がきれいに修復され、幅20mほどの中堀とともに、いまだにかつての門の名残を残しています。
大手前通りをさらに北に進むと大手門に突きあたります。 内堀と大手門は綺麗に再建され、ここは観光バスの駐車場と土産物店と屋台が軒を並べて、姫路観光の拠点となっています。 私のまちあるきの時も観光客でごった返していましたが、外国人観光客の姿も目につき、世界遺産の威力は凄いものだと思わずにいられない光景でした。
戦争末期の2度にわたる米軍の大空襲により、姫路城を除いて姫路の町は灰燼に帰したことは既に述べました。 そのため、町中には歴史あるよべる町並みは一切残っていません。 しかし、丹念に町を歩くと城下町時代の名残をいくつか見つけることができます。 そんな地域が、姫路城の南西の龍野町付近と北東の野里門付近です。 龍野町は、城下町時代に西国街道筋として栄えた町で、この街道が龍野に通じるところから龍野町と名つけられました。 龍野町を中心とした、禅寺の景福寺から国道2号線までの地区には、明治大正期の町屋が忘れ去られたようにポツンと残されています。
野里門は野里町方面に抜ける城下町の北の出入り口です。 ここから堺町(旧久長門)まではかつての町屋地区で、所々に戦前からの町屋が残り商店街を形成していた跡が残されています。 いまでも、「野里銀座商店街」のアーケードや「鍛冶屋町」のアーチにその名残りを見ることができます。
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まちあるき データ
まちあるき日 2007.5 参考資料 @「全国城下町絵図 別冊歴史読本」人物往来社 A「日本城下町絵図集 −近畿編−」昭和礼文社 使用地図 @1/25,000地形図「姫路北部」「姫路南部」平成7年修正 A1/20,000地形図「姫路」「御国堅村」明治31年修正
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