函 館
港を望む広い坂道 異文化の匂いが 色濃く残る港町
函館のまちあるき
函館はいまも港町です。 |
左:函館の代表的な坂道 八幡坂 右:2階洋風 1階和風の和洋混在民家 |
地図で見る 100年前の函館 現在の地形図と約100年前(大正4年)の地形図を見比べてみます。 元町公園は、江戸期には函館奉行所、明治初期には開拓使支庁がおかれていた函館の行政の中心地だった場所で、この界隈が元町とよばれる函館発祥の地域です。 JR函館駅は、明治末期に新市街地に配置されましたが、現在の市街地は北方向に大きく広がり、繁華街の中心は五稜郭付近(地図外)に移っています。 元町の上に大きく北に突き出した埋立地は函館ドック造船所で、江戸期に造られた弁天台場(大砲台)の跡地につくられたもので、かつては函館一の大工場でした。 元町の背後にある函館山は、明治期から終戦まで軍事要塞とされ、一般人の立ち入りが禁止されていたため、結果的に函館山の自然が守られ、緑の山のまま残されています。 ※10秒毎に画像が遷移します。 |
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函館の歴史
室町期、津軽の豪族 河野政通が宇須岸(ウスケシ)とよばれていた漁村に館を築き、この館が箱の形に似ているところから「箱館」と呼ばれることになります。 |
函館の立地条件と町の構造 海底や沿岸流によって運ばれた砂や石が、波の作用によって水面上に現れた地形を「トンボロ」といいます。 函館は日本におけるトンボロ地形の代表とされ、最も狭い場所で約1kmほどの幅しかありません。そこに函館市街地は広がっています。 函館湾に臨む函館山は、標高334m、周囲約9kmで、牛が寝そべるような外観から臥牛山(がぎゅうざん)とも呼ばれ、道南最高峰の横津岳(標高1167m)山麓下の大野平野とつながった陸繋島です。函館山から噴出した火山灰や、横津岳を源とする亀田川からの土砂を潮の流れが運び、今のように陸続きになりました。 山頂では、陸繋島のくびれた形の市街地に輝く街灯りと漆黒の海のコントラスト、さらにイカ釣り漁船が灯すランプ(集魚灯)が織り成す、美しい夜景が有名です。 函館市では、町をナポリ、香港と並ぶ世界三大夜景の一つととして観光客に売り出していますが、将来は「世界一の夜景都市・函館」を目指して、歴史的建造物のライトアップやガス灯風の街路灯の整備などを積極的に行っています。
函館山は、明治期から要塞建設が始まり、函館山全体に砲台や発電所、観測所などの施設が建設され、終戦までの数十年間、建築制限はもちろんのこと、一般人の立ち入りや写真撮影すら禁止されていたことは既に述べました。 その結果として、函館山の自然は守られることとなり、市街地に隣接して函館湾を一望できる抜群の立地にもかかわらず、観光ホテルや民家などが一切建築されず、山頂のテレビ塔と展望台を除いては、緑あふれる自然の山を残しています。
函館の町は、江戸期に函館山の北麓に生まれ、道南の中心地として、北海道の玄関口として、町は大きく発展しました。 時代とともに町は北方向に拡大していきます。 明治期、元町の海岸沿いにあった桟橋は、明治末期の函館駅の開業とともに駅近くの桟橋に移り、函館駅付近は青函連絡船の発着で賑わいます。しかし、昭和63年の青函連絡船の廃止とともに桟橋はその役割を終え、貨物フェリーターミナルはさらに北に移転しています。 繁華街は五稜郭近くの本町付近に移り、青函連絡船発着で賑わった桟橋は博物館となりました。 豊川町と末広町の海岸沿いに残された数棟の金森赤レンガ倉庫は、「函館ヒストリープラザ」と名を変え、観光客で賑わう商業施設となっています。 この赤レンガ倉庫群の場所は、幕末に造船所や外人居留地があった地蔵町築島(明治期に船場町、現在は末広町)とよばれた埋立地であり、明治2年に金森洋物店を開業した渡邉熊四郎が明治19年に倉庫業を始め、やがて21棟もの倉庫を所有するまでに成長した後に、需要の低迷とともに昭和63年に観光施設として現在の形にリニューアルされたものです。
函館発祥の地、元町公園に行きます。 この地を函館発祥の地と呼ぶのは、江戸期には箱館奉行所、明治初期には開拓使支庁、そして函館県庁、北海道庁函館支庁などが相次いで置かれ、函館の歴史の中で常に北海道と道南行政の中心だったためです。 元町公園に現存する旧函館区公会堂は、明治43年に建てられたコロニアル風の木造二階建、桟瓦葺き寄棟屋根で、所々に和風建築のディテールをみせる典型的は「函館流」の洋風建築だといえます。 2階の大広間にみえるヴォールト天井の柔らかな空間と腰壁やカーテンボックスのディテールがとても綺麗で、バルコニーから一望できる函館港の風景は素晴らしいものがあります。 設計も施工も地元の人々によって行われ、まさに函館の文化を象徴する建築物だと思います。
元町公園からハリストス正教会までの間にある八幡坂は、よくCMやTVの舞台になる有名な坂ですが、やはり最も港町函館を感じる坂だと思います。 広い石畳の坂道が港まで一直線に下り、その向こうに港、市街地、そして遠景の山々。まさに、これが港町函館の原風景だといえます。
函館には、こんな風景を見せてくれる坂がたくさんあります。 これらの坂はいずれも幅広く、沿道の建物はほとんどが2〜3階建てで建て詰まっている風でなく、とても開放的で心地良い空間となっています。 町のどこからでも港を感じることができる、これが函館の町並みの一番の特徴だとおもいます。
坂道に直行する道路も幅広く、真っ直ぐに延びています。 そこには路面電車が走り、いまも市民の足として活躍していますが、電車は函館どつくの造船所前が終点となっています。 函館どつくは、最盛期には2千数百人の人々が働く函館一の工場だったことは既に触れましたが、路面電車はその人々の通勤の足として活躍し、函館の町を縦断する基幹交通だったことは間違いありません。
この造船所にある2基の大型クレーンは、高さ70メートル、幅110メートルの大きなもので、昭和50年に造船用クレーンとして設置されたのですが、会社の経営難から、造船所の土地23haを引き取った函館市は、撤去方針を打ち出し市民の議論の的となっています。 クレーンは、函館にとって保存すべきランドマークなのか、高度成長期の単なる遺物なのか・・・ 私には後者のようにしか見えませんでした。
函館には様々は宗教寺院が混在しています。 ハリストス正教会はロシア正教、聖ヨハネ教会は英国プロテスタント、日本基督教団函館教会は米国メソジスト、元町教会はカトリックであり、大町の中華会館は中国領事館の廟堂でした。
また、高龍寺(曹洞宗)、称名寺(浄土宗)、実行寺(日蓮宗)、東本願寺船見支院など、江戸前期を創建とする寺院も多くあります。 当初は旧寺町(現 弥生小学校付近)に建ち並んでいましたが、幾度もの大火により移転を繰り返し、現在は船見町にそれぞれ広大な伽藍を広げています。 それらとは離れて元町には東本願寺函館別院(旧 浄弦寺)があります。坂の上から見ると、山のようにみえる本堂の大屋根が印象的です。
また、神社も独自に存在感を示しています。 河野氏による城下町建設時に勧請され、もとは元町公園(奉行所跡)にあった函館八幡宮や、箱館戦争時の新政府軍の戦死者を祭る招魂場である護国神社は、それぞれ坂の頂上のアイストップとなる場所にあって、町の重要な位置を占めています。 港町函館の町並みを特徴付けているものに、和風と洋風との混在した家屋、下目板張りにペンキ塗りの木造外壁があげられます。 相馬商店(大正3年築)は、「ルネサンス風」というより「ルネサンス似」の窓枠とペンキ塗り下目板張り外壁に、土蔵造りの桟瓦葺き屋根をのせています。青緑の外壁色が強烈な印象を与えますが、その造り自体もなんともはや奇妙です。
太刀川家住宅店舗(明治34年築)は構造的には木骨レンガ造ですが、外壁は白漆喰塗り込めの土蔵造りの商家です。しかし、ディテールは相当変わっています。蛇腹破風に鬼瓦に塗込め戸袋、立派な袖卯建まで立っていますが、2階は木製サッシの引き違い窓、1階は何式といったらいいのか分かりませんが、2本の鋳鉄柱を立てた三連アーチや庇を支える唐草型のブラケットなど、とにかく「洋風」です。 これら文化財級の建物以外にも、和洋風混在建物は街中に普通に見られます。 どれも基本的には、2階が上げ下げ窓とペンキ塗りの下目板張り外壁をもつ洋風建築、1階が格子窓を基本にした町屋作りの和風建築、そして瓦葺の寄せ棟というパターンが多いようです。 どうも、港町には、遠くの異文化が「ポン!」と入り込む土壌があるようです。
これらの和洋風建物に加えて、土蔵造り、積石造などの建物が混在している、それが港町ならではの潮風を感じる美しい町並みを形成しています。 函館では、洋風建築が民家にまで浸透して、そこには今でも人々の暮らしがあります。 木造家屋の下目板張りの外壁にペンキが塗られ、サッシも木製のものが数多く見られます。古い建物の外壁をサンドペーパーで削ると、過去に塗り替えられたペンキ層が年輪のように露出するといいます。
このような市井の人々の家屋に積み重なった歴史が、港町函館を創りだしているといえます。 潮風の香りのなか、異文化が溶け込んで、明るくてモダン、懐かしいのに新しい これが、港を望む坂道沿いに広がる函館の町並みです。 | |
まちあるき データ
まちあるき日 2007.6 参考資料 @「北海道歴史散歩」 A「全国城下町絵図 別冊歴史読本」 使用地図 @1/25,000地形図「函館」「五稜郭」平成18年更新 A1/20,000地形図「函館」「立待崎」大正4年測図
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