郡上八幡


郡上踊りで有名な 長良川上流域にある町
袖卯建が連なり 水音の響く 山峡の小さな城下町




 

 


 

郡上八幡のまちあるき


奥美濃の山々に囲まれた郡上八幡は、かつての城下町の町割りをよく残し、狭い平地にびっしりと軒を連ねる町並みをもっています。
また、断崖を流れる吉田川や小駄良川の瀬音や、町中を縦横に流れる用水の心地よい水音など、水の恵みを感じる町でもあります。

大正期頃以降に建築された真壁造りの軽快な家屋が連なり、ほぼ全ての家屋には袖卯建が設けられて、これが郡上八幡の町並みの特徴のひとつになっています。

生活感のある古い町並みには、水音を聞かせる用水が綺麗に保たれ、ゴミ一つ落ちていない通りには、住民のモラルや町並みに対する愛情がヒシヒシと感じられます。



左:大正期以降に再建された袖卯建をもつ鍛冶屋町の町並み  右:島谷用水の一部「いがわの小路」


八幡山頂にある天守からの眺め  左が長良川河畔で右の吉田川沿いに旧城下町がつづく

 


 

郡上八幡の歴史


郡上八幡城下町は、永禄二年(1559)に鎌倉幕府以来の名門東家の流れをくむ初代城主の遠藤盛数によって、奥美濃の八幡山に城が築かれたことに始まります。

盛数を継いだ慶隆が、秀吉によって加茂郡に移封されると、八幡城には稲葉貞通が入りますが、関が原の戦いと前後して遠藤氏による旧領回復の戦いが行われ、双方が東軍に組していたために、遠藤慶隆は二万七千石で旧領を回復し、稲葉貞通は一万石加増されて豊後臼杵へ移封という決着が図られます。

寛文年間(1660頃)、遠藤常友は八幡城を大改修して城主格から城主となります。
元禄期に遠藤家は一旦断絶し、常陸笠間から五万石で井上正任、次いで出羽上ノ山から三万八千石で金森頼時が相次いで入封し、宝暦騒動で金森氏が改易された後は、丹後宮津から青山幸道が四万八千石で入封し、以後、青山氏が七代111年にわたり郡上八幡を領します。


八幡城を大改修した遠藤常友の治世、今につづく郡上八幡の町の原型ができあがります。

承応元年(1652)、城下の片隅で起きた火事は、折からの風に煽られて瞬く間に燃え広がり、町全体を焼きつくしてしまいます。
この大火により焦土と化した町を復興するにあたり、常友は、4年の歳月をかけて、吉田川や小駄良川の上流から川水を引き入れ、城下の町並みにそって縦横に走る用水路を設けました。これは生活用水であると同時に、大火を繰り返さないための防火用水を確保しておく目的もありました。

また、後年に「八家九宗」と称されるほど数多の寺院を城下に集めて辻々に配置することで、町の骨格を形成するとともに戦時の防衛拠点としました。

町の要所に寺院が配され、町通りには水音をたてる用水路が走るという、現在の郡上八幡の町並み景観は、大火後の常友による復興町づくりの成果だといえます。

明治維新、官軍につくか幕府方につくかで選択をせまられた郡上藩は、二分極の政策を同時進行させます。藩は表向き官軍につく姿勢を示しながら、脱藩者の名目で43人の若者たちを白虎隊の援軍として会津に送りこみます。これが郡上凌霜隊でした。
歴史の流れのはざまに翻弄された若者たちの純粋さと悲劇は、歌やドラマになって今に伝えられています。

維新後、廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取りこわされます。
現在の城は、昭和8年に、当時、国宝だった大垣城を参考にして再建された模擬天守で、当時としては珍しい木造による4層5階の天守です。

大正8年に尾崎(小駄良川対岸)の製糸業者の繭乾燥場から出火した猛火は、役場、警察署、郡役所などのほか寺院5ヶ寺と多くの町屋を焼失させます。
後に「北町大火」とよばれる火災は、焼失戸数800戸にも及び、吉田川以北の北町一帯が焼け野原となりました。袖卯建の並ぶ職人町や鍛冶屋町の古い町並みは、この大火以降に整えられたものです。

昭和4年、国鉄越美南線の郡上八幡駅が旧城下町東端の長良川沿いに開設され、昭和61年に岐阜県、郡上市等の出資する第3セクター(株)長良川鉄道に継承されて現在に至ります。

 


 

郡上八幡の立地条件と町の構造



JR岐阜駅から高山本線で約40分、美濃太田駅で長良川鉄道に乗り換え、単線一両のディーゼル機関車に揺られて長良川の渓谷沿いを走ること1時間10分、ようやく郡上八幡駅に降り立つことができました。

木曽三川のひとつである長良川は、岐阜県、福井県、石川県にまたがる両白山地の最南端に位置する大日ヶ岳(標高1,708m)に源を発して伊勢湾に流れ出る大河です。

長良川は、源流から長良川鉄道終点の北濃駅付近(標高550m)までの数kmの間は狭い谷間を一気に下りますが、そこから郡上八幡駅付近(標高220m)までの約30kmには、河川上流部としては珍しく、幅の広い谷底平野が発達しています。

しかし、長良川沿いの郡上八幡駅から、支流の吉田川沿いに1km近く遡る市街地では、谷底平野ではなく断崖の景観がみられます。
これだけの近い場所で川沿いの地形が違うのは、長良川に比べ、吉田川には平野を形成するだけの堆積作用が少ないためですが、長良川誕生の頃の原風景を見せているともいえます。


宮ヶ瀬橋からみる吉田川 (左が長良川方向、右が上流側)
左:長良川に合流する方向には谷底平野が広がる  右:上流部は断崖の風景がつづく


小駄良川沿いに並ぶ崖家の風景、夏の風物詩である子供達が川面に飛び込む新橋の景観、岩山を切り崩して架けられた宮ヶ瀬橋の崖地景観など、郡上八幡を代表する景観は、吉田川やその支流の小駄良川の激しい断崖の地形が造りだしたものです。


左:小駄良川沿いの崖家  右:渓谷地形に架かる新橋


郡上八幡の城下町は、八幡城山の麓で小駄良川の左岸に南北に展開する北町と、吉田川対岸の川沿いに東西に展開する南町の2つの町が、逆T字型で連結する構造をもっていて、その結節点が吉田川に架かる宮ヶ瀬橋でした。




逆T字型の町を一望できる場所に再建天守を頂く八幡山があります。

優雅な破風をもつ現在の四層五階の天守は、昭和初期に国宝(当時)大垣城を参考にして再建された模擬天守ですが、一部の古図に描かれているような三層の天守とはその姿を異にしています。

しかし、標高354mの頂に座し、築城して70年近くもの年月を経た木造天守は、再建されたものとは思えない存在感をもっています。

司馬遼太郎は、自らの著書 「街道をゆく」 の中で、
「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」  と評しています。

「隠国」とは、万葉集における「泊瀬の山」を導く枕詞であり、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった場所を表現したもので、山に囲まれて籠もり隠れている様子を表した言葉です。


左:宮ヶ瀬橋からみる八幡山  中:本町通りの外れからみる八幡山  右:八幡山頂にある天守


手入れの行き届いた保存状態のいい再建天守


承応元年(1652)の大火によって荒れ放題になっていた城下町を、寛文期に遠藤常友が再整備したことは既に述べました。

かつて大手門のあった場所(現 安養寺山門付近)から小駄良川まで真っ直ぐ下るのが大手町通り。これに直交して、柳町通り、殿町通り、本町通りの3本の通りが南北方向に通り、下の本町通りには町屋町が形成されていました。




城下町時代、北町の四方の出入口には、それぞれ番所が設けられていました。
殿町の北端にあたる「町口番所」、桜町の東端には「桜町番所」、本町通りに先で小駄良川の渡り口にあった「枳殻(きこく)番所」、南町への吉田川の渡り口にあたる「神路山番所」。この4ヶ所は城下町における北町の要所に位置していました。


左:小駄良川の渡り口にあった枳殻番所跡
右:町口番所跡  城下町時代、この先の道路はなく右手の細い街道のみが続いていた


数ある寺社は城下町を囲み守護するように配置されています。

桜町の先にある八幡神社は、戦国時代まで八幡山頂にあったとされ、町名の由縁になった古社ですが、遠藤盛数により八幡城が築城される際に現在の地に移されたもので、桜町番所の先にあります。
八坂神社は城下町の鬼門に設けられたもので、郡上踊りの期間中に天王祭が行われています。


八幡山の南麓で吉田川沿いにある八幡神社


また、北町の北端には長敬寺や浄因寺、小駄良川対岸の崖地には大乗寺と洞泉寺、南町の乙姫川上流の山裾には最勝寺、願蓮寺、慈恩禅寺などが伽藍を並べ、城下町を囲むように寺院が配置されていました。


小駄良川対岸にある大乗寺


最勝寺 左:山門 中:山門前の門前町   右:本町通りの北の突き当たりにある長敬寺


願蓮寺  本町通りの南町側の突き当たりに位置する


ちなみに、八幡山の麓でかつての大手門付近にある安養寺は、木造建造物としては岐阜県下で最大といわれる壮大な本堂をもち、「郡上御坊」とも別称される真宗寺院です。
康元元年(1256)に佐々木氏により近江蒲生に開かれた古刹が、数々の変遷をへて明治期になってこの場所に移されたもので、城下町時代にはなかったものです。


左:壮大な安養寺本堂  右:城山麓で大手通りの先にある山門


狭い山間の町には不釣合いなほど広大な安養寺伽藍


逆T字型に展開している北町と南町の結節点にあるのが宮ヶ瀬橋です。

城下町時代、橋の北詰めには枡形の番所が設けられていましたが、枡形と道は、横の岩山(神路山)を切り崩して築造されたといわれ、現在、岩山の頂には白龍稲荷神社が祀られています。

寛文年間の城下町絵図には宮ヶ瀬橋が描かれているようですが、現在のような高さ10m前後もある立派な橋ではなく、崖地を川岸まで降りて渡河した橋だったと思われます。


北町への渡り口にあたる宮ヶ瀬橋  対岸の屋根上に頭一つでている岩山が神路山


左:宮ヶ瀬橋を渡った先の北町の番所跡  右:北町の肴町からみた神路山と白龍稲荷神社



郡上八幡の町中で、町屋町の風情をもっとも残しているのが北町の職人町と鍛冶屋町です。

かつて町屋町だった本町通りの北側、職人町と鍛冶屋町には軒高さの揃った平入り二階建ての家屋がびっしりと建ち並んでいます。
沿道の家屋では、大部分の窓はサッシに入れ替えられ、屋根は瓦葺きではなくトタンやスレートに葺き変えられたにのものも目立ち、往時の町並みへの修復はさほど進んでいるようには見えませんが、基本的に大きく改変された家屋はありません。

漆喰を塗込めた大壁造りや土蔵造りなどの重厚な家屋は見られず、ほとんどの家屋が真壁造りのため、町並みはとても軽快な印象を受けます。
また、全ての家屋は手入れの行き届いた袖卯建をもち、この連続が小気味よいリズム感を町並みに与えています。

加えて、玉石と御影石で造られた軒下の側溝には豊かな用水が流れ、脱色アスファルトの道路舗装とカラー電柱が、長敬寺をアイストップとした町並みにまとまり感を演出しています。


城下町時代からの町屋町  職人町と鍛冶屋町の町並み


職人町と鍛冶屋町の町並み  左:突当たりに長敬寺


大正8年の大火後に再建された北町の均質な町並みに比べて、南町の橋本町や新町に残る古い町屋には京風の細い縦格子が入ったものが見られます。
本町通りから宮ヶ瀬橋を渡った南町の本町通りの突き当たりには願蓮寺がありますが、沿道には幾つかの町屋が残されていて、最勝寺前と同様に門前町のような装いをみせてくれます。


左:南町の本町通り 突当たりに願蓮寺  右:新町通りに残る京風の細い縦格子の入った町屋



本町通りの家屋だけでなく、他の通りでも沿道に建ち並ぶ二階建ての家屋の庇上には、真壁造りの袖卯建が設けられています。

往時からある町屋の袖卯建が、補修又は復元されたものと思いましたが、本町などの旧町屋町だけでなく、かつての武家屋敷地に建てられた家屋にも、路地裏や脇道に建つ家屋にも袖卯建がみられ、郡上八幡の町では、家屋に袖卯建を付けることが一種の伝統になっているのかも知れません。


柳町通りからの路地にある家屋にも袖卯建がみられる



柳町や桜町は、寛文期の城下町絵図においては武家屋敷地でしたが、現在では、本町通りと同じように町屋風の家屋が軒を連ねています。

かつて武家屋敷だった場所が、町屋町のように建て詰まった町並みに変化することはとてもめずらしく、平地の少ない郡上八幡ならではの現象かもしれません。
桜町には江戸期の武家屋敷の名残をみせる家屋がいくつか見られますが、いずれも狭い敷地に小さめの家屋が建っています。


桜町の旧武家屋敷地  左:数少ない武家屋敷の名残をもつ屋敷  右:沿道に町屋風の家屋が軒を並べる


柳町の旧武家屋敷地  かつての武家屋敷地は町屋町となっている



郡上八幡は、水の循環システムを人工的に組み込んだ町としても知られています。

吉田川、小駄良川、初音谷川、乙姫川などの上流から分水された用水が、町中を網の目のように流れています。
町中に用水が張り巡らされるようになったのは、過去に度々あった大火の防止用に、町通り沿いに側溝(用水)を設けたのが始まりですが、その後も、幾たびもの用水ルートの変更や改修が行われ、現在では町中を網目状に用水路が張り巡らされることになりました。


小駄良川などから取水して北町を流れるのが北町用水や柳町用水です。
北町用水は、小駄良川から分水して鍛冶屋町や職人町などかつての町屋町の家屋の軒下を流れています。
柳町用水は、小駄良川の支流であり、北町の北の境界にあたる初音谷川から分水して、柳町通りを豊かな水量で流れていますが、流れの途中には親水の広場や水音を聞かせる仕掛けがみられます。


左:柳町通りと用水の流れる側溝  右:用水路には堰が設けられ清涼感のある水音をたてている


左:町内掲示板には用水を謳う標語が  右:柳町通り沿いに整備された用水路のせせらぎ広場


吉田川の右岸で郡上街道(現 国道472号)沿いに流れるのが桜町用水、そして、左岸には町で最も大きく最も有名な用水である「島谷用水」が流れています。


左:吉田川左岸を平行して流れる島谷用水  右:吉田川に合流する乙姫川の上を樋で流れる島谷用水


用水は、町通りに防火用水をただ流しているのではなく、生活の中で水を有効に利用するための様々な工夫がなされています。

用水沿いの家庭では、用水路に「セギ」と呼ばれる木製の堰板を立てて水位を上げ、流水を引水して利用できるようになっています。
また、用水路に設けられた共同の洗い場は「カワド」とよばれ、洗い物などで汚れた水は並行する下手の川に落とすようになっています。島谷用水の一部である「いがわ小路」では、多くのカワドが綺麗に再整備されて、訪れる人が絶えることがありません。


いがわの小路
左:道路下暗渠の出口に設けられた島谷用水のカワド  中右:カワドで使われた水は並行する吉田川に落とされる



いがわの小路  用水路の沿って散策路が整備されている



郡上八幡は、川から分水した用水が流れるだけでなく、湧水が豊富な町でもあります。

湧水を溜めて利用する場所は「水屋」とよばれ、そこには「水舟」とよばれる湧水の利用施設が設けられています。
最も有名な水屋である「宗祇水(そうぎすい)」は、郡上八幡を訪れた観光客が必ず立ち寄る観光スポットですが、当地で草庵を結んだ室町の歌人・飯尾宗祇が愛飲したことが名前の由来だといわれています。
湧水は水舟によって、上段・中段・下段に順次落とされて、人々は上段を飲料水、中段を野菜や食器の洗い場、下段を洗濯場に使うことで湧水を有効に利用しています。


左:本町通りから宗祇水の水屋への下り道  右:宗祇水の水舟


「やなか水の小路」は新町通りから角を曲がった小さな路地ですが、玉石を敷きつめた小道と水路、柳の並木、下目板張りの屋敷の壁が、京都祗園を彷彿させるお洒落な親水空間です。


やなか水の小路

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2008年10月


参考資料
@「地図で読む岐阜 飛山濃水の風土」


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