郡上八幡
郡上踊りで有名な 長良川上流域にある町
袖卯建が連なり 水音の響く 山峡の小さな城下町
郡上八幡のまちあるき
奥美濃の山々に囲まれた郡上八幡は、かつての城下町の町割りをよく残し、狭い平地にびっしりと軒を連ねる町並みをもっています。 |
![]() ![]() 左:大正期以降に再建された袖卯建をもつ鍛冶屋町の町並み 右:島谷用水の一部「いがわの小路」 ![]() 八幡山頂にある天守からの眺め 左が長良川河畔で右の吉田川沿いに旧城下町がつづく |
郡上八幡の歴史
郡上八幡城下町は、永禄二年(1559)に鎌倉幕府以来の名門東家の流れをくむ初代城主の遠藤盛数によって、奥美濃の八幡山に城が築かれたことに始まります。 |
郡上八幡の立地条件と町の構造 JR岐阜駅から高山本線で約40分、美濃太田駅で長良川鉄道に乗り換え、単線一両のディーゼル機関車に揺られて長良川の渓谷沿いを走ること1時間10分、ようやく郡上八幡駅に降り立つことができました。 木曽三川のひとつである長良川は、岐阜県、福井県、石川県にまたがる両白山地の最南端に位置する大日ヶ岳(標高1,708m)に源を発して伊勢湾に流れ出る大河です。 長良川は、源流から長良川鉄道終点の北濃駅付近(標高550m)までの数kmの間は狭い谷間を一気に下りますが、そこから郡上八幡駅付近(標高220m)までの約30kmには、河川上流部としては珍しく、幅の広い谷底平野が発達しています。 しかし、長良川沿いの郡上八幡駅から、支流の吉田川沿いに1km近く遡る市街地では、谷底平野ではなく断崖の景観がみられます。 これだけの近い場所で川沿いの地形が違うのは、長良川に比べ、吉田川には平野を形成するだけの堆積作用が少ないためですが、長良川誕生の頃の原風景を見せているともいえます。
小駄良川沿いに並ぶ崖家の風景、夏の風物詩である子供達が川面に飛び込む新橋の景観、岩山を切り崩して架けられた宮ヶ瀬橋の崖地景観など、郡上八幡を代表する景観は、吉田川やその支流の小駄良川の激しい断崖の地形が造りだしたものです。
郡上八幡の城下町は、八幡城山の麓で小駄良川の左岸に南北に展開する北町と、吉田川対岸の川沿いに東西に展開する南町の2つの町が、逆T字型で連結する構造をもっていて、その結節点が吉田川に架かる宮ヶ瀬橋でした。 逆T字型の町を一望できる場所に再建天守を頂く八幡山があります。 優雅な破風をもつ現在の四層五階の天守は、昭和初期に国宝(当時)大垣城を参考にして再建された模擬天守ですが、一部の古図に描かれているような三層の天守とはその姿を異にしています。 しかし、標高354mの頂に座し、築城して70年近くもの年月を経た木造天守は、再建されたものとは思えない存在感をもっています。 司馬遼太郎は、自らの著書 「街道をゆく」 の中で、 「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」 と評しています。 「隠国」とは、万葉集における「泊瀬の山」を導く枕詞であり、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があった場所を表現したもので、山に囲まれて籠もり隠れている様子を表した言葉です。
承応元年(1652)の大火によって荒れ放題になっていた城下町を、寛文期に遠藤常友が再整備したことは既に述べました。 かつて大手門のあった場所(現 安養寺山門付近)から小駄良川まで真っ直ぐ下るのが大手町通り。これに直交して、柳町通り、殿町通り、本町通りの3本の通りが南北方向に通り、下の本町通りには町屋町が形成されていました。 城下町時代、北町の四方の出入口には、それぞれ番所が設けられていました。 殿町の北端にあたる「町口番所」、桜町の東端には「桜町番所」、本町通りに先で小駄良川の渡り口にあった「枳殻(きこく)番所」、南町への吉田川の渡り口にあたる「神路山番所」。この4ヶ所は城下町における北町の要所に位置していました。
数ある寺社は城下町を囲み守護するように配置されています。 桜町の先にある八幡神社は、戦国時代まで八幡山頂にあったとされ、町名の由縁になった古社ですが、遠藤盛数により八幡城が築城される際に現在の地に移されたもので、桜町番所の先にあります。 八坂神社は城下町の鬼門に設けられたもので、郡上踊りの期間中に天王祭が行われています。
また、北町の北端には長敬寺や浄因寺、小駄良川対岸の崖地には大乗寺と洞泉寺、南町の乙姫川上流の山裾には最勝寺、願蓮寺、慈恩禅寺などが伽藍を並べ、城下町を囲むように寺院が配置されていました。
ちなみに、八幡山の麓でかつての大手門付近にある安養寺は、木造建造物としては岐阜県下で最大といわれる壮大な本堂をもち、「郡上御坊」とも別称される真宗寺院です。 康元元年(1256)に佐々木氏により近江蒲生に開かれた古刹が、数々の変遷をへて明治期になってこの場所に移されたもので、城下町時代にはなかったものです。
逆T字型に展開している北町と南町の結節点にあるのが宮ヶ瀬橋です。 城下町時代、橋の北詰めには枡形の番所が設けられていましたが、枡形と道は、横の岩山(神路山)を切り崩して築造されたといわれ、現在、岩山の頂には白龍稲荷神社が祀られています。 寛文年間の城下町絵図には宮ヶ瀬橋が描かれているようですが、現在のような高さ10m前後もある立派な橋ではなく、崖地を川岸まで降りて渡河した橋だったと思われます。
郡上八幡の町中で、町屋町の風情をもっとも残しているのが北町の職人町と鍛冶屋町です。 かつて町屋町だった本町通りの北側、職人町と鍛冶屋町には軒高さの揃った平入り二階建ての家屋がびっしりと建ち並んでいます。 沿道の家屋では、大部分の窓はサッシに入れ替えられ、屋根は瓦葺きではなくトタンやスレートに葺き変えられたにのものも目立ち、往時の町並みへの修復はさほど進んでいるようには見えませんが、基本的に大きく改変された家屋はありません。 漆喰を塗込めた大壁造りや土蔵造りなどの重厚な家屋は見られず、ほとんどの家屋が真壁造りのため、町並みはとても軽快な印象を受けます。 また、全ての家屋は手入れの行き届いた袖卯建をもち、この連続が小気味よいリズム感を町並みに与えています。 加えて、玉石と御影石で造られた軒下の側溝には豊かな用水が流れ、脱色アスファルトの道路舗装とカラー電柱が、長敬寺をアイストップとした町並みにまとまり感を演出しています。
大正8年の大火後に再建された北町の均質な町並みに比べて、南町の橋本町や新町に残る古い町屋には京風の細い縦格子が入ったものが見られます。 本町通りから宮ヶ瀬橋を渡った南町の本町通りの突き当たりには願蓮寺がありますが、沿道には幾つかの町屋が残されていて、最勝寺前と同様に門前町のような装いをみせてくれます。
本町通りの家屋だけでなく、他の通りでも沿道に建ち並ぶ二階建ての家屋の庇上には、真壁造りの袖卯建が設けられています。 往時からある町屋の袖卯建が、補修又は復元されたものと思いましたが、本町などの旧町屋町だけでなく、かつての武家屋敷地に建てられた家屋にも、路地裏や脇道に建つ家屋にも袖卯建がみられ、郡上八幡の町では、家屋に袖卯建を付けることが一種の伝統になっているのかも知れません。
柳町や桜町は、寛文期の城下町絵図においては武家屋敷地でしたが、現在では、本町通りと同じように町屋風の家屋が軒を連ねています。 かつて武家屋敷だった場所が、町屋町のように建て詰まった町並みに変化することはとてもめずらしく、平地の少ない郡上八幡ならではの現象かもしれません。 桜町には江戸期の武家屋敷の名残をみせる家屋がいくつか見られますが、いずれも狭い敷地に小さめの家屋が建っています。
郡上八幡は、水の循環システムを人工的に組み込んだ町としても知られています。 吉田川、小駄良川、初音谷川、乙姫川などの上流から分水された用水が、町中を網の目のように流れています。 町中に用水が張り巡らされるようになったのは、過去に度々あった大火の防止用に、町通り沿いに側溝(用水)を設けたのが始まりですが、その後も、幾たびもの用水ルートの変更や改修が行われ、現在では町中を網目状に用水路が張り巡らされることになりました。 小駄良川などから取水して北町を流れるのが北町用水や柳町用水です。 北町用水は、小駄良川から分水して鍛冶屋町や職人町などかつての町屋町の家屋の軒下を流れています。 柳町用水は、小駄良川の支流であり、北町の北の境界にあたる初音谷川から分水して、柳町通りを豊かな水量で流れていますが、流れの途中には親水の広場や水音を聞かせる仕掛けがみられます。
吉田川の右岸で郡上街道(現 国道472号)沿いに流れるのが桜町用水、そして、左岸には町で最も大きく最も有名な用水である「島谷用水」が流れています。
用水は、町通りに防火用水をただ流しているのではなく、生活の中で水を有効に利用するための様々な工夫がなされています。 用水沿いの家庭では、用水路に「セギ」と呼ばれる木製の堰板を立てて水位を上げ、流水を引水して利用できるようになっています。 また、用水路に設けられた共同の洗い場は「カワド」とよばれ、洗い物などで汚れた水は並行する下手の川に落とすようになっています。島谷用水の一部である「いがわ小路」では、多くのカワドが綺麗に再整備されて、訪れる人が絶えることがありません。
郡上八幡は、川から分水した用水が流れるだけでなく、湧水が豊富な町でもあります。 湧水を溜めて利用する場所は「水屋」とよばれ、そこには「水舟」とよばれる湧水の利用施設が設けられています。 最も有名な水屋である「宗祇水(そうぎすい)」は、郡上八幡を訪れた観光客が必ず立ち寄る観光スポットですが、当地で草庵を結んだ室町の歌人・飯尾宗祇が愛飲したことが名前の由来だといわれています。 湧水は水舟によって、上段・中段・下段に順次落とされて、人々は上段を飲料水、中段を野菜や食器の洗い場、下段を洗濯場に使うことで湧水を有効に利用しています。
「やなか水の小路」は新町通りから角を曲がった小さな路地ですが、玉石を敷きつめた小道と水路、柳の並木、下目板張りの屋敷の壁が、京都祗園を彷彿させるお洒落な親水空間です。
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まちあるき データ
まちあるき日 2008年10月 参考資料 @「地図で読む岐阜 飛山濃水の風土」
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