青 森


本州最北の県庁所在地  青函連絡船のなくなった港町




 

 


 

青森のまちあるき


青森は弘前津軽藩の外港として開かれたのを起源とし、明治以降に本州と北海道への玄関口として発展した町です。

「 上野発の夜行列車下りたときから  青森駅は雪の中
  北に帰る人の群れは誰も無口で  海鳴りだけをきいている
     ・・・・・・ ああ〜 津軽軽海峡・冬景色 」

昭和52年のレコード大賞を受賞したこの曲は、青森から遠い地に住む私に対して、とても物悲しく哀愁に満ちたイメージを植えつけました。

それほど、青森は、県庁所在都市というより、連絡船発着場のイメージがありました。
昭和63年に青函連絡船が廃止され、青森の町の最大のアイデンティティがなくなって、青森はどこに向かっているのか。

それが私のとっての青森まちあるきのテーマでした。

 


 

地図で見る 100年前の青森


現在の地形図と約100年前(大正元年)の地形図を見比べてみます。


青森市街地は、陸奥湾(青森湾)の南端に張り付くように、東西に大きく広がっています。

大正元年の地形図をみると、明治中期に開設された青森駅は市街地の西端にあり、江戸期から弘前藩の外港として開かれた青森の町が、すでにこれだけの大きさをもっていたことが分かります。

東から海岸沿いを東北本線が、西から奥羽本線が、あたかも、その先へ線路が繋がっているかのように、ちょうど青森港の手前で合流して行き止まっています。
そこが、かつての青函連絡船の発着場です。

青森が北海道への渡り口だったことが、この駅の配置に現れています。

大正元年と現在とを比べて、東北本線のルートが大きく違うのが目につきます。
大正元年の地形図に見られる東北本線は、現在よりはるかに海側を走り、市街地の東にある堤川とともに、あたかも市街地を包み込むようにみえます。

これが市街地の拡大を妨げてきたかのようであり、市街地の拡大が東北本線を大きく南に膨張させたようにみえます。  ※10秒毎に画像が遷移します。


現在の地形図 100年前の地形図

 


 

青森の歴史


弘前藩外港として開かれた青森

現在の青森市中心部は、かつて善知鳥(うとう)村という小さな漁村でした。

寛永元年(1624)、弘前藩二代藩主 津軽信枚(のぶひら)の時代、幕府より江戸までの廻船が認められたことを契機として、港町青森の建設が始まります。

以前から、青森湾の外が浜では、青森の西5kmにある油川が唯一の湊として栄えていましたが、遠浅で新しい湊には適さないことと、従来からの船衆の既得権を嫌った藩政府が、当時一漁村にすぎなかった善知羽村に白羽の矢を立てたといわれています。

堤川を東端として当面の間架橋せず、南には寺町を配しました。
町の形態が東西に長く、また強い西風が吹くため、青森の町はしばしば大火に見舞われてきたようで、明治までに100戸以上焼失した大火は20回以上記録されています。

廃藩置県の後に弘前県が成立しますが、まもなく県庁は弘前から青森に移り、弘前県は青森県に改称されます。県庁所在地として青森が選ばれたのは、下北半島や北海道と管轄する上で、港のある青森の地の利を重視したからといわれています。

この2年後には、函館との間に定期連絡航路が開設され、県庁所在都市で北海道への港町としての青森が始まります。


北海道の玄関口・交通の結節点

華族資本を集めた日本鉄道会社が、日本初の私設鉄道として、明治15年に東京から青森までの路線(現在の東北本線)を建設着手し、明治24年には全線開通にこぎつけます。
日本海側を縦断する官設鉄道として、現在の奥羽本線が青森・弘前間で開通するのがその3年後です。
これにより、青森と北海道を結ぶ連絡船を利用する旅客や貨物は大幅に増加したのです。

この頃の連絡船は、浜町(現在の本町税関支所付近)の桟橋から艀に乗って沖合い約500mで本船へ乗り移っていました。
東北本線の開通とともに駅舎が安方町(現在のアスパムの東付近)におかれ、これを機に、町の外れにあった安方町には、急速に人通りが増し、繁華街は浜町から安方町にかけて広がることとなります。

明治27年には小樽、明治32年には室蘭との間にも定期連絡船が開設され。奥羽本線の開通と相まって、青森は本州と北海道との交通結節点としての地位を高めていきます。

明治39年に帝国鉄道庁(後の国鉄)が日本鉄道を買収し、その2年後に青函連絡航路の権利を日本郵船から譲渡されたのを機に、青森駅は新たに現在の新町に移転・拡張されることとなります。
これ以降、現在の繁華街である新町通りが青森の中心として発展することになります。

大正13年、貨物をそのまま連絡船に載せる方式が採用されます。
陸上の線路から可動橋を通して、船尾の開口部から直接貨車を連絡船に乗せる方式で、陸上から船倉までレールが敷かれて、その上を貨物車が走りました。
連絡船が、名実ともに鉄道連絡船としてスタートしたのです。


新たな青森の模索

明治以降も青森には大火が絶えず、明治42年の大火では、市内の2/3にあたる5200戸以上の家屋を焼失していますが、青森の町を徹底的に壊滅させたのは昭和20年の青森空襲でした。

62機のB29が飛来して83000本もの焼夷弾を投下し、市内の約90%を焦土と化し、東北地方最大といわれる被害を受けて、江戸初期からつづく港町は完全に姿を消したのでした。
青森がこれだけの被害をこうむったのは、北海道への輸送基地だったことだけでなく、M74焼夷弾という新型焼夷弾の実験場とされたことがその原因だといわれています。

昭和63年、津軽海峡線(青函トンネル)が開通したの伴って青函連絡船は廃止され、約80年の歴史に幕が閉じられます。

新しい町の方向性を模索する段階にあります。

現在、青森湾に突き出した安方の防波堤から見たときに最も目立つものは、黄色い八甲田丸、アスパム、そして青森ベイブリッジです。

現在埠頭跡に係留されている八甲田丸は、昭和39年に就航したかつての青函連絡船で、アスパムとは安方の埋立地にできた観光物産館で、青森ベイブリッジは青森港の渋滞緩和を目的として開通した斜長橋で、アスパムとともに三角形のリズム感が青森の新たな景観を作り出しています。

 


 

青森の立地条件と町の構造



本州最北に位置する青森県。奥羽山脈の北端 八甲田山系の山々が、地域を八戸を中心とする県南地方と弘前を中心とする津軽地方に分断しています。

岩木山がそびえ岩木川の潤す津軽地方は、県南地方に比べると気候もいくらか温和で、古くから稲作が行われてきました。
その中心が津軽藩の城下町 弘前でした。



そして、県南・津軽両地方の要に位置する青森は、陸奥湾に面して開けた青森平野に位置します。
東北本線・奥羽本線の東北地方を縦断する両基幹鉄道と青函連絡船の接点であり、東北本線と平行する国道4号線と東北本線と並行する国道7号線が青森県庁前で手を結ぶ交通の要所でもあります。

また、青森は豪雪の町としても知られ、2m近い積雪も過去記録されています。青森市のように豪雪地帯で人口30万人を超える都市は世界的にみても珍しく、現在、この規模の都市で降雪量は世界一といわれています。



青森の中心は青森駅から東に延びる新町通りです。
2車線の道路ですが両側には広い歩道があり、雪国仕様の頑丈はアーケードが架かり、幅2mほどの雪除けのスペースも確保されています。
明治末、現在の場所に青森駅が移されてから発展した通りですが、青森の繁華街はこの一筋に集約されているといっても過言ではありません。


新町通り  頑丈なアーケードと雪除けのある歩道


青森駅は2階建ての小さな建物ですが、駅前広場は広く、それが一層寂しい雰囲気を出しています。
県庁所在都市の中央駅で、これほど人通りのないのは、宮崎駅と青森駅くらいのものかもしれません。


青森駅と駅前広場のようす


青森駅から10分ほど新町通りを歩いて、一本通りを海側に入った場所に善知鳥神社があります。
御由緒によると、第十九代允恭天皇の治世に創建され、大同二年(807)に坂上田村麿が再建したとされている古社ですが、允恭天皇は西暦400年位の天皇なので、1600年前という途方もない昔に創建されたことになります。
青森発祥の神社であることは間違いなく、青森駅の反対側の東側を向いているのは、かつての青森村の中心が、ここよりさらに東にあったためなのだと思います。


善知鳥神社  本殿は伊勢神宮形式


新町通りを挟んで南側は官庁街になっています。
県庁や県警本部、国の合同庁舎、裁判所などの建物が青い森公園を中心に整然と並び、いかにも官庁街といった雰囲気を感じさせます。

この先に柳町通りという、片側3車線に中央分離帯と広い両側歩道のついた道路が海に向かってあります。
この通りは、どの道路も立派な青森市街地にあって、一際広い道路ですが、これは昔から度々の大火に悩まされてきた港町によく見かける火除け地です。


左中:青い森公園を囲む官庁街  右:柳町通り


柳町通りの先には堤防があります。
「青森ベイプロムナード」と名づけられた堤防には、釣りをする人や散歩をする人など、数多くの人達が訪れまていますが、ここから、最近の港町青森を象徴する景観を見ることができます。

それは、青森ベイブリッジ、アスパム、青い海公園、そして八甲田丸です。


沖合いの堤防からみた景観  右手の黄色い船が八甲田丸


かつての北海道への玄関、本州最北端の交通結節点は、大きく変貌しようとしています。

かつて、安方桟橋のあった付近が埋め立てられ、「青い海公園」の名称で湾岸の広場として整備され、昭和61年に完成したアスパム(青森県観光物産館)の三角形のフォルムが青森の新しい顔として定着しつつあります。


アスパムの足元に整備された広場「青い海公園」


その向こうに見える青森ベイブリッジは、橋長は1219mのPC斜張橋で、青森港の貨物運搬の渋滞緩和を目的として建設されたものですが、アスパムと並んで三角形の連なるリズム感をつくりだしています。


アスパムの展望台からみる青森ベイブリッジと八甲田丸


青い海公園から人路橋でつながった、青森駅の先にかつての波止場が残され、青函連絡船の八甲田丸が岸壁に繋がれて博物館となっています。
昭和39年に就航した最後の青函連絡船ですが、平成2年に連絡船の記念博物館として一般公開されていますが、船尾の開口部から直接貨物車が乗り入るように敷かれたレールが残され、波をうけて船が揺れるたびに聞こえる鉄の擦れる音がノスタルジーを誘います。


左中:埠頭に固定された八甲田丸  右:稼動ゲートに敷かれた貨車のレールが残る


青森駅前の新町通りに最近完成した再開発ビルが「フェスティバルシティ アウガ」です。
ファッション雑貨などのショップや市民図書館などの公共施設が入る複合ビルですが、このビルの見所は、地下にある鮮魚や海産物を扱う「新鮮魚市場」にあります。
100近いお店(というより屋台)が朝市のように所狭しと並び、多くの観光客が品定めをしていました。
もともと鮮魚市場あった場所が再開発されたようです。


左:新町通りからみる再開発ビル「アウガ」  中右:地下にある新鮮魚市場


この付近の新町1丁目には朝市形式の鮮魚市場がいくつかあります。ほとんどバラックといっていい建物内に、いくつもの店舗(屋台)が連なり威勢のいい掛け声が聞こえてきます。

新町通りから一本南側は、通称「ニコニコ通り」といわれる昔ながらの商店街で、ここには金物屋、乾物屋、履物屋などが軒を並べていますが、りんご販売を中心とする青果店が目立ちました。

鮮魚とりんごを販売する昔ながらの商店街、これが青森の原風景なのかもしれません。


左:ニコニコ通り  中右:新町通りから一歩路地に入ると鮮魚の市場や屋台が残っている


青森駅近くにある郷土料理店「鱒の介」は、ガイドブックに載るほど観光客が多く訪れる店ですが、そこで食したイクラの新鮮さには驚きました。
青森港でイクラがどれほど水揚げされているのか知りませんが、この新鮮さが、いまも青森に残る「青森らしさ」なのかも知れません。

 


 

まちあるき データ

まちあるき日    2007.9


使用地図
@1/25,000地形図「青森東部」「青森西部」昭和62年修測
A1/25,000地形図「青森東部」「青森西部」大正1年測図


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